グリンウッドの思い出(2)

熊井 カホル

Mar. 21, 2001

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3.Beth と フジロッジ 和食堂

フジロッジというのは、米国工場の日米従業員のための社員クラブです。 3月になるとフジロッジで、 フジの日本人社員たちに和食のお昼を提供しようという話がでてきました。 建設班の方たちの中には、 単身で来ている人がたくさんいました。 また、工場建設中の現場から、町へお昼をたべにゆくには、結構、 時間がかかってたいへんだという事情もあったのです。

グリーンウッドには、その頃まだフジフィルムに関係のある日本夫人は、田中さんと、私の二人きりでした。田中さんは、 フジフイルム米国工場の建物の建築を担当した鹿島建設U.S.A.の田中技師の夫人です。慶応の英文科卒、 才色兼備の30歳になったかならないかという若いかたでした。彼女の自己紹介の言葉は  「 角栄さんのむすめさんの田中真紀子議員と同姓同名なのよ 」 というものでした。

3月2日の meeting で、アメリカ人のコックを一人雇うから、田中さんと私がその人に、 日本食の作り方を教えるということがきまりました。 早速、翌日には、田中さんに私の家に来てもらい、 必要な調理器具や食器類をリストアップし、また、手に入る食材で可能な日本食のレシピも考えました。

おでんのたね、五目寿司のもと、カレールー、パン粉、まぐろのさしみ、等々日本食販売店でなければ、 手にはいらない食材も多々ありますが、先ず最初に思いついたメニューはてんぷらでした。その他、豚のしょうが焼き、肉じゃが、 カレーハンバーグ、オムレツ、はるまき、すぶたも、この際りっぱに、和食の仲間入りしてもらい、基本的に、ご飯と味噌汁、 あるいは、すまし汁を、どのメニューにも、つけることにしました。 手にはいる材料と、 教える側の能力とを考えあわせ、やっと2週間分のレシピを用意しました。

いよいよ、来週から、半月ほどかけて実習がはじまります。 私が料理を教えるなどということは、 日本にいたら全く考えられないことでした。 翌週の月曜日には、人事課長の John さんが大きい商用車に田中さんをのせて、 私を迎えに来てくれました。 これから、料理に必要な鍋、釜、など、また食器類、 そして日本食販売店でしか手にはいらない食材を仕入れにいくのです。 行き先は州都であるコロンビア。  Greenwood をぬけると、しばらく両側が松林になります。この松は私の家に生えている松とは異なり、 背は日本の松と同じぐらいですが、日本の松のように、考えごとなどはせず、空にむかって真っ直ぐ生えています。  これらの松は、あの悪名高い奴隷制度のもとで栽培された綿花 ( 奴隷解放後も綿花は栽培されました ) が、害虫によって壊滅的な打撃をうけ、そのかわりに植林されたのだそうです。

  この松はチップにされて、紙の原料として、日本にも、輸出されているそうです。 サウスカロライナはどこへいっても、 松ばかりで、ドライブをしていると、実に退屈で、眠くなり閉口しました。 また、この地の人達は、 日本人が杉の花粉に悩まされるのと同じように、松の花粉アレルギーに悩まされていました。三月になると、 まっ黄色な松の花粉が地面をおおいます。外に駐車しておいた車は、夕方までに、真黄色になってしまうこともしばしばでした。

退屈な松林をぬけると、上下四車線で、中央分離帯が広い草地になっている立派な道路にでました。これは、高速道路だったのです。 料金を払うゲイトが無かったので、ずっと、気づかずにいました。アメリカでは、ごくわずかの例外を除いて、 高速道路の料金をとられることはありません。 一般道路は時速55マイル(88キロ)が限度ですが、 高速では65マイル(104キロ)まで出せます。ほとんどの人が、もっとスピードをだして走っているし、 パトカーが見みえると、皆、制限速度を守って走るところは、日本の高速道路事情と同じです。

運転は John さんにまかせ、私達はずっとおしゃべりをしていましたが、ちっとも目的地に、着きません。 なんて遠いのだろうというのが実感でした。 片道150キロほどの距離ですから、遠く感じたのもむりのないことだったと思います。  高速を抜け、しばらく普通道路を走り、やっと目的の日本食販売店に着きました。  私は、久し振りに出会う日本人のおばさんと眼があった途端に、胸いっぱいに、懐かしさがこみあげてきてしまいました。  その頃すでに、私はホームシックにかかっていたのでしょう。

そのお店の間口は狭いのですが、奥に大きな冷蔵庫が二つあり、扉を開けると、かちんかちんに凍ったまぐろや、鮭、おでんの材料、 その他、日本では冷凍など考えられもしない、納豆、さつまあげ、かまぼこ、ラーメン、うどん、そば、などが、みな、白い霜をかぶり、 こちこちのまま詰めこまれていました。

田中さんと私は、レシピと考えあわせながら、茶碗、箸、小皿などを選び、つぎに食材をえらび、おばさんとの別れを惜しみながら、 この店をあとにしました。 3月15日から、料理実習をはじめました。 フジロッジに行ってみると、料理人として、 若くてきれいなアメリカ人女性がいました。 私達は、中年の男性を予想していたので、とてもびっくりしました。彼女の名前は  Beth 。 二十代と思われましたので、かえって、教え易いかなと、安心しました。

今日のメニューは、てんぷらです。 英語の方は、田中さんにおまかせで、実習は先ず、おいもから揚げることにしました。  こちらのおいもは、中が、オレンジ色で、焼き芋にしても、甘味が少なく、水っぽくてあまりおいしくありません。  こちらでは、主として、このおいもをデザートとして、つかっていました。 日本で売っている小さいピーマンは、 日本食品販売店以外では、売っていません。 普通のアメリカのスーパーでは、最近、日本でも沢山でまわっている、赤や、 オレンジ色の大きい種類のものを、緑のものは、グリーンペッパー、赤いものはレッドペッパーと呼んで売っていました。

 おいものほかには、このグリーンペッパーや人参、えび・・・これが安い・・・などを、てんぷらにしました。  ちょっとえびの話を・・・。 えびの大きさは5、6センチと小さいものですが、 このサウスカロライナの河口の海でたくさんとれるのです。川から運ばれてきた、豊かな植物プランクトンをえさにして、 えびが豊富に育つのだそうです。 私の家のちょうど前に住んでいた眼医者のロックウエルさんは、大きなモーターボートを持っていて、 シュリンピングをしてきたからと、たくさんのえびをくださいました。

 このロックウエル家にはステイシー、アシュリーという二人のお嬢さんがいました。 二人とも、まだ小学生の低学年でしたが  「 まるで、人形のよう 」 などという言い方では、表現しきれないほどの可愛さでした。  下のお嬢さんはステイシーといって、私に出会うといつも 「 ミセスKumai 」 と声をかけてくれ、当時はやっていた、 ローラーブレードを得意げに、ひとすべり滑ってみせてくれたりしたものでした ( 写真:お礼に夫人と二人のお嬢さんを呼んで手造りのケーキを )。

この界隈の中流以上の人は、レイクのほとり、あるいは、ビーチ に、セカンドハウスを持つのが、一般的のようにみえました。  私達もよく色々な方々に彼らのセカンドハウスにお招きいただきました。 彼らは、たいてい、 底の平らなエンジン付きのポンチュウーンとよぶボートも持っていて Lake Greenwood の湖面を走るのを大きな楽しみにしているのです。

Lake Ggreenwood というのは、飲料、工業用、発電などの為に造られた、人造湖です。 その大きさは、 東京23区がすっぽりはいってしまうほどの広さです。  しかし、人造湖としては、小さいほうで、サウスカロライナにはもっと、 もっと大きいものが、いくつもあります。隣の州のノースカロライナ州や、ジョージャ州には、よく旅行やドライブにでかけましたが、 この両州にも、たくさんの人造湖がありました。こうした Lake のほとりにセカンドハウスをもつのが、彼らにとっての、 ある種のステイタスシンボルなのでしょう。

料理実習の話にもどります。 Beth はプロですから、今日のところは、そつなく仕上げました。 只今実習中試作中ですから、 希望者には無料で食べていただき、批評をいただいたり、感想をきかせていただいたり、という、計画です。  試食会には12、3人の社員が見え、なかには、John さんもいましたし、夫の秘書のナンシーさんの顔もありました。  その日の味噌汁の身は、わかめだったように記憶していますが、ナンシーさんは味噌汁を一口くちにすると、 顔中をしわくちゃにして、洗面所にかけこみました。彼女にとってはじめての日本の味は、さぞ、苦いものだったにちがいありません。  よほど、懲りたのでしょう。その後、ナンシーさんが試食会にくることは、ありませんでした。

その後、味噌汁に関して観察していると、アダムズさんのように 「 おいしい、おいしい 」 といってのむ人と、 しかめっつらになってしまう人とに分かれるようでした。 私の家の引越し荷物の荷ほどきを手伝だってくれた黒人のおじさんは、 味噌の入ったダンボールを開けた途端に 「 腐ってる ! 」 と叫んで、顔をそむけました。 私達には食欲をそそる味噌の匂いも、 食文化が違うと、こんなにも反応が違うものなのだということを学びました。

五目寿司がメニュウの日のことです。 ここで薄焼きたまごの焼きかたを教えねばなりません。田中さんも私も  「 日本人は器用だから出来るけどこんなに難しいものが Beth にできるかしら 」  などとちよっといい気になって心配をしていました。ところが Beth は、両手を使って実に上手に焼きあげました。  プロとはこいうものか。と深く感じ入ったしだいです。 ことほど左様に、Beth はどんなものでもすぐに覚えて、 結構上手に料理してくれました。

試食期間も何とか終わり、Beth 一人にまかせることになりました。 心配で時々のぞきに行き、手際をみたり、 食べている人に感想をたずねると、まあまあの様子で安心しました。 また、単身で来ている人の中には、 料理自慢の男性もいて、Bethに 「 もう少しからい方がよい 」 とか 「 もう少し甘い方が良い 」  などとアドバイスしてくれる人がいて、彼女の腕前も、じょじょに、上向いているように、みえました。

日本食は素材が高くつくので、どうしても一食7ドルほどになり、現地の昼食代に比べるとかなり高くなるのが、 ちよっと頭痛のたねでした。そんな頃、突然 Beth が来なくなってしまいました。短期間で日本食をマスター?した  Beth は、それを武器にして、もっと良い給料のレストランに仕事をみつけて出ていってしまったのです。

みんながっかりしてしまいました。 来たばかりで、アメリカ事情に疎いわたしは、なんて、忠誠心の無い人なのだろうと、 がっかりすると同時に、あきれてしまいましたが、しばらく経ってアメリカ生活になれてくると、こいう事は、 アメリカではごく普通のことで、良い条件へ、良い条件へと、仕事を変え、生活の質を向上させてゆくのが、 ごく一般的なアメリカ人の生き方なのだということがわかってきました。

そんなわけで、フジロッジ和食堂は、3、4ヶ月で、閉店ということになってしまいました。

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米国サウスカロライナ州グリンウッドでの7年半の生活の思い出を、以前から少しずつ書きためていました。  最初はプリントにして親しい友人たちだけに読んでいただいていましたが、白黒のゼロックスプリントでは、 美しい写真が思うように伝わらないし、迷ったあげく、夫の勧めにっ乗って、勇気を出して載せてみることにしました。