写真が多いので開くのに時間がかかります。


ロシアへ愛(I:IFR)をこめて。
To Russia with love.
ウラジオストック フライトレポ−ト 調布 JA3897 福増一浩


「こんどウラジオストックへいくよ・・・」ときかれ耳を疑った。
計器証明と航空級無線通信士も取得して、堂々と海外フライトができるようになった、
私にとって非常に興味深い話だった。

”事前準備”

しかし、この企画を成功させる為には、数々の問題を解決しなければならなかった。
1つは燃料の問題でロシアのガソリンは西側のそれとは違い品質的に問題があり使用不可能だった。
この問題を解決するため事前に日本からAVGAS100/130をドラム缶20本を船で運搬した。
またウラジオストック空港の受け入れ体制は事前に瀧田会長らで空港長や管制官と交渉していた。
これにはAOPA-VLADIVOSTOK 会長のチャバノフさんがおおいに協力した。
またVLADIVOSTOK UHWW FIR に入ってからのMEA(最低経路高度)が洋上にもかかわらず、
29900feetだった。どうやらロシア国防の意味もあるようだ。
とにかく、この高度だと非与圧の機体では通過不可能だった。
そこで行き8000feet、帰り9000feet、与圧機に関しては行き20000feet、帰り21000feetでの通過許可を得た。
またロシア側の要求として12分のセパレ−ションを厳守するようにとの事だった。
綿密かつ大胆な飛行計画が作製された。それは11機の飛行機が安全に確実にロシアにつけるものだった。
低層を飛ぶ非与圧機の上層を与圧機が飛び、無線や天候情報をサポ−トするものだった。

”新潟に集合”

8月18日に日本各地より新潟に11機の飛行機が集合した。

”好天の新潟に集合、井野上氏と私(右)とパイパ−サラトガ”


15時よりCIQ (税関、移民局、検閲)をすませて新潟のホテルで全員で夕食と最終打ちあわせをした。
ATCやアプロ−チの問題、みんなロシアは初めての事なので真剣に議論がされた。
夕食後も機長だけ集まって最終確認を行なった。
その後よせばいいのに調布の山縣、高橋、中嶋氏と新潟のスナックでおそくまで飲んでしまった。

”出発の朝”

19日の朝は新潟は快晴だったが、METARではウラジオストックは天気は思わしくなく雨も降っていた。
TAFもあまりかんばしくない。
現地から電話で「ここは天気いいよ、早く飛んでこい!」とのことで予定どおり1番機が離陸した。
12分のセパレ−ションを確実にするために出発はあえてVFRで行い、KADBOを通過後、札幌コントロ−ルに
HUWW(ウラジオストック空港)までのクリアランスをもらった。
ル−トは
RJSN(R211)-KADBO(B451)-HOKKE-IGROD-TEKUK-DELOK-LAZO(R212)-DAGES-HUWW

”行程約500マイルの日本海横断ル−ト”



”ル−トの詳細 新潟側HOKKEより先KADBO-RJSN”


上層を飛ぶマリブPA46には、JA777M・JA4200・JA3992・JA4010の4機が20000feetをTAS180knotで飛行。
下層に8000feetで
JA5301(C303)・JA4017(M20T)・JA4018(M20T)・JA3897(PA32)・JA3815(BE36)・JA5256(C402)・JA3577(BE36)
の双発2機を含めた非与圧機7機がTAS160knotで連なっていた。
私は丁度、中間のJA3897(サラトガ)に乗っていた。
新潟でトラフィックの影響で離陸が3分遅れてしまった。遅れを取り戻す為に165notで飛行した。
計算では1:36後に正常な間隔になるはずである。しかし先行機との距離は縮まず離れる一方である。
先行機の山縣さんにTASを聞くと「TASは165〜170」と返事。
TAS160knot厳守の事を伝えたが結局20分の間隔は狭まらなかった。
どうやら飛ばし屋ム−ニと機長の遠藤氏はゆっくり飛ぶのが嫌いなようだ。
KADBOを過ぎて洋上管制区なのでQNE2992にセットした。
初めての経験で国際フライトだと実感した。
中間地点(FIRの堺:IGROD)付近では下層の高度では札幌コントロ−ルもウラジオストックコントロ−ルにもラジオは通じず、
上層の先行機や後続機に中継を依頼してポジションレポ−トを行なった。
機体どうしは洋上の128.95MHzで行なった。No1,No2のラジオを頻繁に切換ながらのコミニュケ−ションだった。
時々128.95MHzでウラジオストックを呼んでいる事もあった。
はじめてのロシア、しかも悪天でみんなテンションが上がっているようだ。
ウラジオストックFIRに入って天気は次第に悪くなってきた。
誰も好き好んで雲に入りたくない。当初はデビエ−ションでよけていた。
しかし、そのうち完全な雲中飛行となっていた。乱気流もあり疲れる飛行だった。
我々の機長は機体の共同所有者の井野上氏が操縦桿を握り、私はラジオとNaviに専念した。
井野上氏は多発計器証明20年以上のベテランで雲中飛行も経験豊富で安心できた。
乱気流の中、オ−トパイロットを外し姿勢、針路、高度、速度をキ−プしていた。さすがだと思った。
後部座席の高橋、中嶋氏もパイロットでfeetとm、Mileとkmの換算やナビゲ−ションを行なって共同作業の飛行だった。
ロシアはメ−トル法を使用している。気圧もmbでしかもQFEでレポ−トされた。
GPSも1台はメ−トル法設定でもう1台は使い慣れたマイル表示で行なった。

”翼よあれがロシアだ!大陸だ!”

途中、DELOKを過ぎて雲の合間からロシアの海岸線が見えた。
砂浜でなく切り立った絶壁が続いていたが、丘は平坦で緑に覆われていた。
嬉しかった。我々は日本海をわたりきり、とうとうロシア上空に達した。
ここでエンジンが停止しても救命ボ−トは不要と思うだけで安心した。 "

”雲の合間からかすかに陸地が見えた。絶壁の海岸線に感動した。”


しかし地上が見えたのは、この一瞬で後は再び雲中飛行だった。途中ATISを聞いたが理解できなかった。
何回聞いてもダメだった。よく考えるとロシア語で私はロシア語を理解できない事を再認識した。
先行機のJA777Mより「使用滑走路は25Rで天候も着陸に支障なし」とのレポ−トが入り安心した。
我々は新潟に帰るだけの燃料は既に無かった。意地でもこの大陸に降りる必要があった。
目的地まで33マイルのDAGESでRWY25Rへアプロ−チクリアランスが来た。
周波数も予期せぬ126.0MHzにスイッチさせられた。
後方の機体に周波数とDAGESからストレ−トイン(アプロ−チチャ−トにはアウタ−マ−カ−"KW"で高度処理の
ホ−ルディングが記してあった。)との情報を流し、急降下してアプロ−チしたがKWでもかなり高く、
結局最後までGSを確立できなかった。しかしKWで既に3500mの長い滑走路25Rは視認していたので余裕で着陸できた。

”3500mの25R しかしタクシ−ウェイはこの先2500mまで無し”


グランドコントロ−ルらしき周波数にスイッチしたが何言っているか不明だった。
フォロ−ミ−カ−を期待したが、あたりには車どころか、人一人いなかった。
仕方がないので以前の調査フライトのパ−キングにタクシ−していくと先行機がならんでいた。
着陸後のタクシ−情報を後続機に伝えエンジンをとめた。

”ロシア人と対面”

ドア開けるとロシアの入国審査官みたいな女性にパスポ−ト拝見といわれ、私はカ−ゴに入っているので取りにいこうとすると、
入国審査が終わるまで機体を降りるなと厳しい表情。怖い!ロシアに来たと実感した。

”エンジンを止めてドアを開けらたら、そこは外国だった”


飛行時間は3時間20分、高層を飛行したマリブは2時間50分ほどで、
白人社会のこのような国が存在していたとは改めて驚きを感じた。
近くて遠い国へ来たと思った。

”ウラジオストック空港にAOPA-Jの機体が勢ぞろい”


雨は相変わらず、強く降っていてガソリンを入れるのに手間取った。
結局、全機ガスアップするのに3時間以上かかった。

”日本から運んだドラム缶からどしゃ降りの中、給油。見守る井野上氏”


これが「天気がいい」なのか、確かに雲は高いし視程もいい。
しかし、このどしゃ降りの雨は一般的には「天気は悪い」と表現する。

”ウラジオストック市内”

やっとの思いで給油を終えて、2台のバスで市内に入った。道路は渋滞して1時間ちかくかかった。
我々の泊まるホテルは韓国のヒュンダイ自動車の資本で経営されているヒュンダイホテルで、
従業員は全員、英語が堪能で西側のそれとなにも変わらず、不自由はなかった。
しかし、市内は暗く夜も活気が無かった。店の看板が小さく何処が店で何処が民家か区別がつかなかった。
時差は北西に飛んだにも関らずウラジオストックの方が早かった。これは日本が明石(東経135°)を基準にしているが、
ここはもっと北東(東経150°)の何処かを基準にしてるためと理解した。
さらに夏時間採用で結局日本より2時間、早い時差となっていた。従って北緯43°のわりには遅くまで明るかった。
夏時間まで採用して明るい夜をロシア人はどう過ごしているのか興味深かった。
白人は太陽の恩恵をより多く受けたいと願っているのだとも思った。

”ウラジオストック市内、軍港の街だけに軍艦も数隻見える”


走っている車は殆ど日本車で日本から中古車が主らしい、なかには「○○産業」等、漢字で社名が書いている車も珍しくなかった。
何故、このような日本語を消さずに使っているのかと訪ねたところ、
「別にどうせ読めないし気にならないので・・・ペンキ代も・・・」。
我々が車や飛行機を買ったら自分なりの色にしたり、車の前で写真をとったりするが、ロシア人にとってはどうでもいいらしい。
所得も月8000円ぐらいらしいが、決して我々の姿や現金を見ても羨ましがったり、すり寄ってはこない。
どうやら物やお金にたいする価値観が我々とは違うようだ。
私どもは、アメリカを中心とした資本主義の物質文明に洗脳されているような気がした。
物やお金を持っている人間が偉いような錯覚すらしている。1960年代に人類史上はじめて、アメリカがまだ使える品物を捨てた。
現在日本人が捨てた車をロシア人が使っているのを見て、なんの資源もない日本の消費社会について考えさせられた。
フリ−マ−ケットみたいな所で、野菜や日用雑貨等が露店販売されていたが、売っている人も買っている人も服そうはしっかりしていた。
奇麗なワンピ−ス着たお嬢さんが露店販売している風景は東南アジアのそれとは全く違っていた。

”ホテルで晩餐会”

ホテルにつきシャワ−をあびて、すぐ夕食となった。事務局の畑仲さんが完全に団体旅行の添乗員状態でみんなを仕切ってくれた。
この会は畑仲さんがいないと成り立たない事を再認識した。

”晩餐会、誰が何処にすわるかもめている。高橋氏は悠々と先に着席”


夕食会にロシア民族衣装をつけたバンドが素晴らし歌や踊りを披露し歓迎してくれた。
皆は悪天候の日本海横断フライトの話で盛り上がっていた。
会長が3人のロシア人を連れてきた。ウラジオストック空港の管制官の面々だった。私は彼らと席を共にして話した。
ロシア人は愛そうがなく、無駄な笑顔はみせない。どっかのハンバ−ガ−屋みたいに笑顔の安売りはしないのだ。
しかしウオッカを小さなグラスで一気飲みを3〜4回一緒にやったところ、話題も盛り上がってきた。
ウオッカは一気に飲み干すらしい、確かに極寒の地方で早く体温を上げるにはいい方法だと思う。
また日本酒やブランデ−みたいに香と味をちびちび味わって飲めるような品物でもなかった。
薬を飲むようにエタノ−ルを胃粘膜より吸収させ、血中アルコ−ル濃度を高める行為そのものだった。
いずれにしても5杯くらいやったらロシア人も私もいい気分になっていた。
管制官の所長が「今回のフライトは日本とロシアに友好の足がかりで、日本海に橋がかかった。」と言っていた。
また「ロシアでは単発飛行機での洋上横断は禁止されている。」ともいった。
私は「今度来るときは、小型の扇風機を窓の外に出して来ます。」と言ったらロシア人は笑っていたが、瀧田会長は妙に関心していた。
本当にやると思っているのだろうか?


”熊みたいなロシア人に囲まれてもひけをとらない筆者(中央)”


若い管制官が私に1枚の写真をくれた、ロシア製の星形エンジンの自家用機らしい、
裏に「From Russia with love」と英語とロシア語で書いてくれた。こんなでかいエンジンの飛行機を操縦してみたいとも思った。

”From Russia with Love. 一番左がゲストの若い管制官27歳”


ロシア人が帰る頃には完全に出来上がっていた。私はマイケルジャクソンの踊りを披露したが、
何をやっているか理解されていないようだった。

”市内観光”

本来は8月20日は航空ショ−で皆それに参加予定だったが、事故が多いとの理由で当局から中止されたようだ。
潜水艦の事故も絡んでいるとの噂もあったが、中止が決まったのは潜水艦の事故の前だったらしい。
ともかく全員、市内観光となった。そもそもあまり観光ビザを発行しないロシア政府なので外国人観光客の施設などほとんどないようだ。
湾内を見下ろせる丘でバスを降りるが、土を積み上げた、ただの小高い丘。
琵琶湖で行われる「鳥人間コンテスト」のプラットホ−ムを土で作ったような所で、天気が悪く寒いだけだった。
その後ウラジオストック駅に行った。有名なシベリア横断鉄道の終点だ。これがモスクワまで繋がっていると思うと感動した。
駅はヨ−ロッパ風の建築物でなかなかおもむきがあった。

”駅に飾ってあった蒸気機関車とガイドのロシア娘、駅の待合室”


土産屋によった後、昼食となった。森のなかの洒落たレストランでボルシチュ−はうまかったが、
鳥の空揚げとライスは口に合わず食べられなかった。毎日こんな食事なら痩せられると思った。

”湾内クル−ズ”

一旦、ホテルに戻った後、有志だけ湾内クル−ズに行った。はしけのような船で30分程のものだった。
甲板でAOPAのプリンス野村さんとタ−ボプロップの話をしてタ−ビン機が欲しくなった。

”ウラジオストック港、クル−ズと貴公子 野村さん”



”博物館となっていた潜水艦。潜望鏡をのぞこうとしたらロシア子にとられた
「潜望鏡を返せ」でなく「北方領土返せ」と言ってやった。(うそ)”


クル−ズの後、第二次大戦で活躍した潜水艦を見学。陸に揚げてあったので安心して乗り込んだ。
ロシアの潜水艦は潜ったら浮き上がらない可能性もある。油断できない。

”キャビア事件”

キャビアは無いという噂だったが、売ってるかもしれないのでマ−ケットに行くことになった。
通訳のイワニツキさんが「ここで¥1000のキャビアが日本に来ると¥10000になる」と言ったもんだから、皆キャビアに殺到した。
集団心理は怖いと思いつつ私も群がった。ス−パ−のキャビアを全て合わせても32個しかなく、我々44名分はなかった。
一旦全て購入してホテルで分配すると言った。
それは、さしずめ限られた餌に群がる子犬達に姉犬が「待て」をさせて配るといった風だった。。
結局クル−ズに行かなかった何人かはキャビアを購入できなかったらしい。

”最後の晩餐”


”韓国料理でロシア最後の夜、総領事が「日露友好の意義が大きい」と挨拶”


20日の夜はウラジオストックの日本総領事の方をゲストにお呼びして、ホテル内の韓国料理で食事した。
外は強い雨で、皆翌日のフライトを気にしてか初日より盛り上がらなかった。私もお酒をひかえた。
理由は帰路は機長ということよりも、私は深酒すると翌日おなかが下る傾向にあるため控えた。
井野上さんや同乗者は「機内で” 大”をしてもいいよ・・」と言っていた。
しかし、もしそんなことをしたら孫の代まで酒のつまみの笑い者にされる事は目に見えていた。
た ” 小”はともかくとして”大”だけは避けねばならなかった。

”帰国”

21日、雨は相変わらず強く降りいくらIFRでもこんな天気には離陸したくなと思った。
私は計器証明取得して1年未満の「青葉マ−ク」なので、一人だったらこんな天気で離陸しないだろうと言った。
計器ベテランの方が「何年たってもこんな天気飛びたくないですよ・・」と言った。もっともだと思った。
離陸前のブリ−フィングにパ−ティで知りあった管制官の顔があった。今度は笑顔で握手した。
彼らがSID(Standard Instrument Departure)とは多少違う出発方式と天候について説明してくれた。
周波数は126.0MHzでClearance,Ground,Tower,Departureをやってくれるようだ。ありがたい話である。
RWY 25R で2000feetまでRWY Headingで上昇しPERASへ直行してよいとの事だった。
前線を伴った低気圧が北を通過中で雷も予想されていたので、通常のSIDより多少南なのでありがたかった。
フライトプランを書いて駐機場に向かった。
一番機のJA4010がエンジンを始動して準備にかかっていたが、CIQが来なかった。
出国届をせずに一番機がタクシ−をはじめたが呼び戻されていた。
おくれて役人がバスで来て、結局全員CIQを済ませる事ができた。離陸してから呼び戻されたらたまらないので一安心した。

”やっと役人がバスで現れた。離陸順番を待つ、サラトガ JA3897”


1番機より「高度10000feetで雨強し、気流は安定している」とレポ−トが入り、
積乱雲系の雲に入らずにすみそうなので少し安心した。
エンジンが始動するか心配だったが無事エンジンが始動して離陸前点検はコンプリ−トだった。
IFRのクリアランスをもらい、RWY25Lを2500m タクシ−バックした。視程が悪くタワ−も終点も見えなかった。
ATCは理解しずらかったが他のトラフィックが皆無なのが幸いだった。
離陸許可がでて離陸後暫くすると長い滑走路の真上を飛んでいた。ジェット戦闘機が3機並んでいるのが見えた。
1800feetで雲中飛行となったが、報告どおり乱気流は無いが雨は強かった。外気温度は10°C前後でアイシングの心配は無いようだ。
TEKUKを過ぎてから天気はよくなりIGRODでは好天となった。新潟もCAVOKでHOKKEでVFRに切換て新潟に直行した。
我々が着陸したときは一番機が鹿児島へ離陸準備中だった。挨拶をして別れた。
手荷物をもって税関と検疫の調査後、移民局で入国して終了。成田より簡単だった。


”新潟は晴天で暑い! 寒くて暗いロシアが恋しい。”


夕方関東北部に積乱雲が発生するのを恐れて、昼食もとらず燃料を入れて調布に向かった。
新潟から調布は1時間くらいで天候もよく無事帰れた。
調布のそば屋でおそい昼食と簡単な祝宴を4人であげてウラジオストックへのフライトは終了した。
しかし今回のフライトでロシアは調布から最も近い外国だと実感した。
ロシアの管制官に「また来週来るから!」と冗談を言ったが、また企画があれば参加したいと思う。


JA3897 PA-32 SARATOGA SP

調布支部 福増一浩 fukumashi@yokohama.email.ne.jp


以下、ウラジオストック新聞 8月22日の日本語訳
「神風精神を持っている日本人」
小型飛行中隊は台風にもかかわらず日本海を渡り遂げた。

土曜日、ウラジオストックのエア−コントロ−ル管制官は非常に忙しい一日であった。
定期便と交互して、日本から11機が到着したのだ。
しかしこの11機には44名しか乗っていなかった。
1〜2台のエンジンしかない小さなトンボはそれ以上の人数を乗せることはできないようだ。
AOPA JAPANの瀧田耕造会長は、外交、国境、技術等様々な問題点を
解決してウラジオストック空港のコントロ−ルタワ−でロシア人管制官と共に、
日本からの小型機が無事着陸できるよう、指示を送っていた。
1機目が着陸するのを見ながら、空港のある従業員は次のようにつぶやいた。
「まるでZHIGULI(ロシア産の"LANA"というクルマ)に翼をつけただけのようだ、
もしエンジンが故障したらどうなるだろう、本物の特攻隊のようだ」
ウラジオストックの総領事MR.YOSHIHISA KURODAは、この飛行でロシアと日本は近い隣国であり、
ロシア人と日本人の性格はとても似ているということを物語っている。
この飛行を実現できたということは我が国民が永遠に平和であるための環境をつくるために、
どこまで進んだかということを示している、と述べている。
日本海渡航の歴史では、第二次世界大戦時、
日本の戦闘機がほぼウラジオストックまで辿り着いたがRUSSAIY島近くでソ連の高射砲で打ち落とされた。
本物の神風でも射砲で狙われるより、
親切で気を配ってくれるロシア人管制官のもとで飛行したほうがいいのではないか、
たとえ、その管制官が平和条約を結んでいない国の人であったとしても。
昨日(8月21日)大雨にもかかわらず、日本のパイロット達は中隊を空へ上げて新潟へ飛び去った。
本当の男達、それに、多少神風のところもある。
2000年8月22日(火)
VLADIMIR ROZANOV
VYACHESLAV VOLRIN(写真)
ウラジオストック新聞
訳 イワニツキ和軸
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IFRパイロトへの道 〜計器飛行証明実地試験レポ−ト〜

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