水子貝塚−概要

水子貝塚

地形模型

 富士見市は、日本最大の平野である関東平野の一角にあります。関東平野は富士山などの火山灰が堆積した台地と、利根川や荒川などの大きな川が流れる低地からなります。富士見市は、西半分が武蔵野台地、東半分が荒川低地の上に広がっています。この低地に、縄文時代は海が広がっていました(→縄文海進)。海の幸を求めて集った人々は台地の上に多くの貝塚を残しました。その中でも最も大規模なものが水子貝塚です。

 水子貝塚は、昭和12年(1937)に発見され、昭和13年(1938)・14年(1939)・42年(1967)の3回の調査によって縄文時代前期中頃(約5500年前)の小貝塚が環状に分布していることや、小貝塚は竪穴住居跡に貝殻が捨てられたものであることなどが明らかになりました。(→調査の歩み
 これらの成果から、昭和44年(1969)に

「縄文時代前期の多くの小貝塚からなる大規模な貝塚群のひとつであるとともに、小貝塚の分布から貝塚形成当時の集落の規模形態を推測しうる遺跡として学術上価値が高く、また遺跡の遺存状況も良好である。」
として、国史跡に指定されました。
 平成3年(1991)から“ふるさと歴史の広場”事業として整備事業を実施し、平成6年6月、水子貝塚公園(愛称「縄文ふれあい広場」)としてオープンしました。(→公園施設

 「水子(みずこ)」という地名には「水が有る所」という意味が含まれています。その名にたがわず、富士見市水子地区には多くの湧き水が有りました。この湧き水に引かれて、古くから、人々が集って多くの遺跡を残し、現代まで多くの村が作られ続けました。

 水子貝塚には小貝塚が約60ヶ所、竪穴住居跡が100軒近く残されているようですが、この総数は何回も建替えられた結果ですから、同時に建っていたのは5〜10軒位でしょう。住居に囲まれた部分は、広場として、共同作業や憩い、祭りなどに使われたようです。
 水子貝塚が作られたころの地形を復原してみましょう。貝塚から北に100m位行くと崖になり、その下は海でした。南に100m位行くと、こんこんと水が湧き出る泉が有りました。湧き出た水は小川となって北西に流れ海に注ぎました。小川にはカワニナが棲み、夏には蛍が飛び交いました。川は所々によどんでになり、タニシや鯉が採れました。
 は浅く、潮が引くと干潟が現れました。干潟には多くの生物が生きづき、人々は急いで貝や海草を集めてまわりました。鯛やスズキは丸木船からヤスで突き、しとめました。
 台地の上には季節の変化に富んだ落葉広葉樹林が育まれていました。森を切り開いて直径約200mの空間に村を作った人々は、どんぐり・栗・くるみ・栃といった木の実を石器で砕き、土器で調理して主食としました。
 小さな谷を挟んで、まわりには小さな村がいくつもあり、ひんぱんに人が行き来していました。時には船を駆って海を渡り大宮台地の村々と交流し、時には黒曜石を求めて山の村に向いました。(→交流

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