水子貝塚の調査と研究

発見
大正5年(1916)安部立郎(あんべたつろう)氏は「水子 大応寺前 貝畑」に遺跡が存在することを報告しました。この「貝畑」という文字に注目した酒詰仲男氏は昭和12年(1937)の秋にこの地を訪れ水子貝塚を発見しました。当時は、市街地から離れた畑の中に点々と貝殻が散るばかりの土地でした。
第1回調査
昭和13年の暮に東京考古学会が発掘調査を実施し、貝塚2ヶ所=竪穴住居跡2軒が調査されました。「五号竪穴住居跡(2J)」は発見当時日本最大の竪穴住居跡として注目されました。平成5年の再調査で、焚き火をした跡が確認され、寒厳しき中での調査がしのばれました。
第2回調査
昭和14年(1939)10月には東京大学人類学教室によって最も大きな貝塚とその下の住居跡が発掘され、調査中に東京人類学会の遠足会も催されました。これら2回の調査は酒詰氏と和島誠一氏が中心になり、戦前・戦後の考古学界を支えた多くの人々の参加と協力を得ました。水子貝塚は縄文時代前期中頃の地点貝塚16ヶ所からなる大規模な環状貝塚=環状集落跡であることなどが明らかになり、縄文時代前期を代表する遺跡として全国に著名になりました。
「水子式」土器
東京大学の調査で出土した土器は江坂輝弥氏に注目され「水子式」という土器型式名が提唱されました。
第3回調査
昭和42年(1967)第3回目の調査がおこなわれ、1ヶ所の貝塚=竪穴住居跡と2軒の前期後葉の住居跡などが発掘され、貝塚が作られなくなった後にも村が継続していたことが分かりました。また、遺跡全体を測量し地点貝塚が50ヶ所を越え、環状分布の中央は浅く凹んでいることも分かりました。
第4・5回調査
昭和52・53、59年(1977・78、84)に保存計画を立てるための調査を実施しました。地点貝塚の正確な数と位置の確認、遺跡を縦断する試掘溝による遺構分布の確認などを実施し、縄文時代前期以外の時代にも集落が営まれてたことなどを明らかにしました。
第6回調査平成4年調査風景
平成3〜5年(1991〜1993)には整備事業に関わって展示館建設予定地の発掘調査、貝塚2ヶ所の発掘調査などを実施しました。展示館予定地からは縄文時代早期、前期後半、中期、古墳時代、平安時代の遺構が現れ、各時代にわたる遺跡であることがあらためて確認されました。貝塚の下からは竪穴住居跡3軒が現れ、埋葬された人骨と犬骨などが発見されました。貝塚が分層発掘され、ひとつの地点貝塚が数年間で堆積したことがわかりました。合わせて周囲の低地のボーリング調査をおこない、周囲の自然環境を明らかにしました。

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