水子貝塚を包む世界

 富士見市には貝塚の有る遺跡が15ヶ所見つかっています。これらの遺跡は縄文時代早期後半から前期前半(約8000〜5500年前)にわたるものです。早期の貝塚は6遺跡ですが、いずれも小規模なものです。ただし、早期終末(約6500年前)の打越遺跡は数十軒の住居跡が残される拠点的な集落跡です。前期の貝塚は12遺跡で、数軒から十数軒の住居跡の一部に貧弱な貝塚を持つ遺跡、貝塚を持つ住居跡が十軒前後の遺跡、貝殻がたっぷり詰った住居跡が数十軒の遺跡の3種が有り、貝塚の無い集落跡も有ります。水子貝塚は打越遺跡とならび富士見市の縄文時代を代表する大貝塚で、打越遺跡が早期終末から前期前葉に栄えたのと入れ替わるように前期中葉に栄えました。

水子貝塚が栄えていたころ、海岸地帯には多くの貝塚遺跡がありましたが、その分布は一様ではなく、5〜10kmおきに貝塚が集中する「貝塚群」が有りました。一方、赤城山山麓などの丘陵地帯には山の資源を活かして暮らしていた遺跡群が有りました。水子貝塚は東関東に展開する貝塚群のネットワークと西関東の山の遺跡群のネットワークをつなぐような位置にありました。海の幸と山の資源が交易される場として栄えていたとも考えられます。

前期後半になると、大河によって海が埋め立てられ、富士見市から貝塚が無くなります。しかし“水子貝塚”は大規模な集落として続きます。山の村にならった、海の資源にたよらない生活をしていたようです。

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