青春13階段

                    「その時、Y氏は・・・」(その1)

  私と、Y氏の付き合いは長いものです。よく有楽町のK喫茶店や、ガード下のヤキトリ屋
さんで彼の子供のころの話を聞かされたものでした。
最近は特に過ぎ去った思い出をたどっているようです。「今や将来に思いはないのか。」と
聞くと「それにも格別な思いがある。」とのことであるが、将来の話になると若干肩が落ち
るのが気掛かりであります。・・・・・
そんな、彼の思い出話の中で印象に残ったところを照会していきます。暇な人は気休めにみ
てください。・・・・・」

 昭和22年(1947年)の秋です。その時、Y氏は、G県のN町というところで誕生し
たそうです。
 N町は、G県の北西部に位置し、郡の行政機能と、四万(しま)温泉や、沢渡(さわたり
)温泉の玄関口となっている、小さな盆地の町であります。
 誕生した時、記憶がある訳ないので、その月日が定かであったのか、戸籍に記録されてい
るものに頼るしかありません。母より、「頭が大きかったので頭がつかえて大変だった。」
聞いたことがありますが、今でもY氏の頭が大きいことから、本当のことであったのだろう
と思います。それから、数年して、妹ができました。木の盥のお湯の中でフギャー・フギャ
ーと泣いていたのを記憶しています。Y氏もそのようにして姉に見られていたのでしょう。
 Y氏の父は、大東亜戦争に参加。終戦時、南方で捕虜となり、収容所生活を2年ほどして
1947年新春に復員してきたそうで、約10か月後に誕生したY氏と父とのつながりは、
時間的な数値も一つの証として本人は認識したそうです。
 Y氏が、誕生以前の戦争のことを意識したのは、誕生してからズーと後に映画やTVで映
像をみてからでありまして、「何故、水泳の出来ない父が、南方で船に乗っていて、生きて
帰れたのか。」などの疑問を抱き、父から「危ない時は、体を樽にロープで巻き付けていた
。」などの理由を聞いたとき、「父はマメで要領がいいな。これが、生き残りの一つの哲学
であるのか。」と思ったそうです。だが、Y氏は母方似であるのか、マメでも要領がいいほ
うでもありません。なお、父と戦争に関して、茶色の水筒、衛生兵の腕章、英文で書かれた
身分証明書などがY氏の脳裏に記憶されているそうです。

       (次回へつづく)
                        DE 7L3・・・(浦和市)

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