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篠山城⇒市街 | ||||||
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6月4日、篠山へ。JRの快速と普通を乗り継いで1時間半。三田を越えるあたりから、緑の田園の風景へと変わり、爽やかです。大阪を少し離れたところでこんな風景が見られるとは思っていませんでした。気分よく窓の外を眺めていました。鉄道沿線に有名なお城が並んでいることに気づきます。鉄道が通るだけあって、昔も主要な街道だったのでしょう。 ![]() 篠山駅に降り立ちます。まずは駅にある観光案内所へ。中に訪問客は誰もいなかったので、おそるおそる扉を開けると、奥に座っていた案内の方から声がかかりました。「お城と城下を見たいのですが・・・」と告げると、バスの乗り方からどこが見所かを地図を広げながら丁寧に教えてくださいました。案内所自体は地味でしたが、案内の方の対応から、篠山は観光に力入れてるなと思いました。 駅前からバスに乗り、20分ほどで篠山城の近くまで行きます。バス停を降りるとすぐにお城へ続く道があります。街の雰囲気は明るく上々です。山あいの街に来たという空気を感じました。 お城への道を行くと、左手に『大正ロマン館』という建物がありました。洋館風の建物の中に入ると、人力車の展示や土産物、レストランがありました。レストランは旧いホテルのような雰囲気で、食べていく誘惑にそそられましたが、先を急ぐことにしました。ここの店員さんも自分から声をかけておられ、やる気が伝わってきました。 ![]() そこを過ぎると、正面にお城の入口が見えてきました。お城の周囲を見てまわる予定だったので、お城には入らず、右に折れてまずはお城の北側にある堀沿いの道をいくことにします。 100メートルほど行くと、『青山歴史村』という展示施設がありました。数種類の施設に入ることが出来る共通券をここで購入。ここでも受付の方はすすんで見どころなどを説明してくれました。 ここは旧城主の青山家の別邸だったところだそうです(建物は別の場所からの移築)。青山家は徳川幕府の老中もつとめる譜代大名の中でも格の高い家柄でした。まずはその別邸の家屋に入りました。部屋の中には羅紗織の陣羽織や笠などが飾られてありました。何よりも居心地がとても良かったのが印象的でした。外の光を取り入れる間取りで、座ったら動きたくなくなるような・・・。しかしまだ見たいものはたくさんありますので、訪問の記帳だけして外に出ました。 ![]() 離れにもうひとつ建物がありました。ここでの目玉は書物の原版となる版木です。そこに墨を塗って紙をあてて刷っていくためのものです。そのため版木に字を左右逆に彫ってあります。活版印刷の代わりですね。桜の木で彫られた版木が、建物内部の壁一面に飾られていて壮観です。なんでも合計1200枚ほどあるそうです。そしてこれだけの数の版木が残されているのは全国でもここ篠山だけだそう。とても貴重です。墨の色がのこって黒光りしているのですが、まるで漆塗りのような味わいがあります。 目を近づけて見ると、美しい筆文字が柔らかに浮き出るように彫ってあります。ものすごい技術と根気だと感じました。城主の命を受けて20名を越える侍が、4年かかって彫り上げたものだそうです。多くは家中の子弟を教育するための漢籍(中国の古典)です。そんなに大きな家ではないのに、篠山城主青山家の教育にかけるエネルギーはかなりのものがあったようです。 ![]() 明治維新後は学問といえば洋学(西洋の科学技術を中心とした学問)に大きくシフトし、漢学は古く役に立たないものとして忘れられた存在になりましたが、その中で大切に版木を保存した篠山の人々はよほど学問を大切に考えていたのだと思います。藩政日記(政治に関する日々の記録)も現存しています。これも全国的に珍しいそうです。 もちろんこのような文物は国内の各地にたくさんあったのでしょうが、保存には手間もお金もかかりますし、明治維新のどさくさなどもあり破棄してしまったものも多いのでしょう。それを大切に遺そうという姿勢がここ篠山の精神風土なのだと思いました。また山あいの街のため、戦災を避けられたという理由もあったかもしれません。 歴史村を出て、堀沿いを西に向かいます。お城の西側には、武家屋敷が何棟か残る地区があります。立て札には「御徒士町通り(おかちまちどおり)」とあり、身分としてはそれほど高くない侍の屋敷が集まっていた場所だとわかります(御徒士とは馬に乗る身分ではない侍のことです。東京にも御徒町(おかちまち)という地名がありますよね)。 ![]() 道を南へと曲がると真っすぐな通りがあります。その途中に武家屋敷の案内板がありました。両側に数軒ずつならんでいます。電燈や郵便受けなどが付いていて、末裔の方でしょうか、今も住んでおられる家があるようです。 そのうちの一軒が『安間家住宅』として、一般公開されています。その中へ入ります。玄関の奥には台所としての土間があり、竃(かまど)が見られました。台所の先には庭があります。庭に面した縁側では中学生らしき男の子が弁当を食べていました。挨拶をします。課外活動で何か手伝いにきたのでしょうか。 ![]() 住居の中は、ここも風通しと採光がよく、中庭に面した部屋であぐらをかいて座るととても快適です。しばらくそうしていました。日本は四季がはっきりしていて、夏は蒸し暑く冬は寒い。冷暖房器具のない昔は、寒暑をどうしのぐかが問題でした。ですが相反する二つを両立することは難しい。日本人は夏の蒸し暑さを避けることに重点を置きました。だから昔の家屋は風通しがいいのです。今でも、夏に田舎を訪れた時に民家に案内されて、冷房などかけていないのにとても涼しく感じた人は多いかと思います。その分、冬は冷たい風が吹きぬけて寒いのですが・・・。五月にもかかわらず暑い日でしたから、夏仕様の快適さが存分に発揮されたのかもしれません。 中には槍や陣笠、鎧などが飾られています。その中でも目をひいたのが、ろうそく立てでした。昔の人はこういうもので灯りをとっていたのかと妙に感心してしまいました。 外は暑いですし、気持ちの良い家屋でもう少し過ごしたかったのですが、20分ほどで外に出ました。 次はいよいよ城内へ入ります。もと来た道を引き返して大手口へ向かいます。 ![]() 大手口はかなり大きいものでした。ここは二の丸の入口です。旧城郭はさらにひとつ外側に三の丸があり、それを囲む堀もありました。大手口には枡形があります。すでに石垣のみで、かつてそびえていたであろう土塀や櫓はありませんが、それを頭の中で想像するとかなりのスケールだったことがうかがわれます。彦根城の佐和口までとはいきませんが、かなりの迫力はあったと思います。 先にも述べたように篠山城は江戸末期は青山家の居城でした。1748(寛延元年)にお隣の丹波亀山から転封(てんぽう)で移ってきました。石高は六万石。もともとは徳川家康が大坂城に健在だった豊臣家、豊臣秀頼と山陰路の連絡を断つために関ヶ原の戦いの後に築いた城でした。徳川家康は大坂城にいる豊臣秀頼を包囲する形で関西一円に大きな城をいくつか築いていきました。後に紀州徳川家の居城となる和歌山城も、もともとは包囲網の一環として浅野氏が築いた城だったのです。姫路城も同じ目的で築かれたものです。 主要な城の配置を見ると、徳川家康の周到な性格がよくわかります。しかも家康はそうした城を天下普請(てんかぶしん)で築きました。天下普請とは、将軍家の命令で全国の諸大名を動員して城を造ることです。家康に評価されようと大名たちは競いますから工期の短縮が図れますし、大名に散財させることもできるという一石二鳥の策でした。 この篠山城も天下普請の城です。中国地方の大名を中心に20家ほどを動員して築きました。築城の名人の一人、藤堂高虎が総責任者でした。もとは笹山と呼ばれた小山を城郭の地と定めました。地盤が岩だったので、掘ることが大変だったようです。完成が遅れたため、家康が江戸まで高虎を呼びつけて叱ったという話もあります。その後本当に工事のピッチがあがったということです。また完成間際の篠山城をみて、家康が「堅固すぎる!」と慌てたということで、その為に天守閣を建てることをやめたというエピソードもあります。 どうも家康は、本当かどうかわかりませんが「百姓は生かさず殺さず・・・」と家臣に諭したという逸話といい、この篠山城の話といい、自分の立場を保つ為のバランスを始終気にしてこと細かにコントロールしていたような気がします。もし篠山城が占拠されたら!城主がもし敵方に寝返ったら!!そう考えると、本来喜ばしいはずの強力に仕上がった篠山城がむしろ恐いものに見えたのかもしれません。苦労性ですね。だからこそ天下がとれたし、その後260年もの間安定した政権を続ける基礎を作ることができたのかもしれませんが。 また家康は相当焦っていたのでしょう。自分が死ぬまでには最低限でも豊臣を滅ぼす準備だけはしておかなければいけない、ということでしょうか。それにしても、この頃の家康はすでに相当な権力を握っていたことがわかります。 ![]() 大手口を越え石垣に囲まれたカーブした通路をたどると、門の先に大きな木造建築が見えます。それが『大書院(おおしょいん)』です。篠山城には天守閣がありません。そのかわりとなったのがこの巨大な書院造の建物でした。篠山城のものは10年ほど前に再建されたものですが、京都にある二条城にも同じような広大な書院造の建物が現存しています。篠山城の大書院は二条城に次ぐスケールのものだそうです。二条城は徳川将軍家の城であり、最後の将軍徳川慶喜が大政奉還を臣下に告げた場所です。それに次ぐ規模というのですから、六万石の大名としては破格のものと言われています。 篠山城大書院は1609年の築城当時に建てられ、明治後も破却されることなく公会堂などとして利用されていましたが、1944年に焼失。復元の声が高まり2000年に当時の様式を再現する形で復元されました。 中はまだ建築から日が浅いこともあり柱や床が明るい色に光っていてとても美しいものです。旧い建築はくすんだ色をしていますのでそれはそれで味があるのですが、なかなか建築当時の雰囲気を味わうことはできません。なるほど建てたばかりの頃のお城や屋敷はこんなに美しかったのかと実際に感じることができました。ただ先ほど見た武家の屋敷のように寝っころびたくなるような気安さはありません。公的な行事に使われる建物ですので当然ですが・・・。
中にはいくつかの展示がありましたが、気になったのが源氏物語でした。青山歴史館でも同じように源氏物語や物語の絵巻などが展示されていたのですが、武家の保存物としてはすこし性格がそぐわないような気がしていました。もちろん奥方や姫など女性もいるわけで、そういう人たちが好んで読んだのでしょうが、ここまで多く残されているのは何か理由があるのではないか。それはまだわかりませんが、青山家は教育熱心だけにとどまらず、文化の薫り高い家風だったことがうかがわれます。 ただこのような山間地のため農業のほかにめぼしい産物がなく、財政は厳しかったようです。聞くところによると、もっとも高い時で年貢は七公三民!お百姓さんが米を作っても、その七割が侍に持っていかれるということです・・・。そのため一揆が多発しました。明治になってからも一揆が起きたくらいです。 当時は徳川幕府の領地(天領)ほど年貢率がゆるく、大名領のほうが取立てが厳しいという傾向がありました。譜代大名の中でも家格の高い家は幕府の要職につきますが、それにかかる経費が半端ではないのでとくに取り立てがきつかったということです。 意外かもしれませんが、江戸期の武士の社会では金銭での付け届けが重要でした。賄賂というところまではいきませんが、お中元、お歳暮を小判で渡すような感じのもの。時代劇にあるような、「そちも悪じゃのう・・・」とよだれを垂らしながら受けとるような犯罪に近いものではなく、ごく当たり前の慣行だったようです。もちろん能力がなければいけませんが、老中になろうとするならば、事前に今の老中など人事を左右する重要人物に付け届けや根回しが必要だったということです。 その上に役目に関わる経費は自腹が基本でした。現代のように領収証をきって仕事にかかった経費を会社に出してもらうものではなく、与えられた領地や禄高に経費も含まれていたのです。そのため身分は低いけれども優秀な侍を重職にとりたてるときは、役目についている期間だけ足りない分を給与として渡す制度はありました(足高(たしだか)制)が、老中クラスになると、それはありませんでした。 主君が江戸で出世すればするほど、家臣はそろばんをはじいて困ったな・・・という顔をしていたのかもしれません。きっと青山家もそうだったのでしょう。 現在の緑豊かな文化的な篠山の街の雰囲気は、時に殺伐とした空気に覆われたのかもしれません。生活がかかると文化は後回しになります。当時は不作や収入の減少は死活問題だったでしょう。不景気だと言われても、今の日本がどれだけ豊かかということがよくわかります。 最後に受付の前で売られていた大書院の解説冊子と、お城の用語が辞書風に載ったクリアファイルを購入。受付の方の対応は本当に丁寧で、気持ちがよかったです。 ![]() 大書院を出るとすぐ前が二の丸の区画になっています。現存の建物はありませんが、どこにどういう建物があったのか、実際にあった場所に大きく記してありました。 二の丸の奥にある神社にお参りをしてから、天守台へと上ります。家康に遠慮して建築をやめたいわくつきの場所です。周囲が広々と見渡せました。石垣から下をのぞくとかなりの高さで目がくらみそうでした。もし造られていれば、城下から見上げる天守は存在感あるものだったろうと思います。 天守台を下り、裏手に当たる出口から石垣の下へと出ます。そこから内堀と石垣の間を大手口のほうへぐるりと回ることにしました。石垣は高々としていますが、一方の内堀は幅もなく水が澱んでいるようでした。 気になったのが石垣に使われている石に刻まれている刻印です。これは天下普請のお城に多く見られるものですが、各大名家が自分の所有する石であることを示すために彫らせたものです。家紋や姓の文字など、どの家のものかがわかるようにしてあります。大きな石にはとくに多く見られました。
お城を出て、街へと向かいます。旧商家が並ぶ街路へ行きます。数百メートルの通りの両側に旧い商家が並んでいます。今は町屋カフェになっていたり、昔ながらの味噌を醸造する店があったりと内容は新旧様々です。平日ということもあって人通りはほとんどありませんでした。 商家の通りを過ぎると、篠山川へ出ます。川のほとりにバス停があり、ここからバスで駅へ戻ろうかと思いましたが、手元の共通券を見ると、もうひとつ訪れていない施設がありました。がめつい私は、それを残して帰るのはもったいない気がしてまたもとの道を引き返し、街の中心部へ向かいます。 ![]() 途中、歴史のありそうな料理旅館や『丹波の黒豆』で有名な丹波地方らしく黒大豆の看板のかかった豆屋さん(ページ先頭の真ん中の画像)など由緒の感じられる店が並んでいて飽きません。黒豆パンの元祖なるパン屋さんもありました。今度来る時は『料理旅館』なるものに一度泊まってみたい・・・などと思いながら歩きます。 日本酒の量り売りと張り出してある酒屋があり、酒好きな私の視線はいっときそちらへ釘付けになりましたが、施設の閉館時間があるのでなんとか脚をすすめて目的の施設へ来ます。 ここでも受付で親切に説明を受けました。面白かったのは明治時代の裁判所が現存していることでした。裁判官の席には当時の判事がかぶっていた帽子と上着が置いてあって、「どうぞこれを身につけて、当時の判事の気分を味わってください・・・」と書いてありましたので、帽子をかぶり、上着をつけて着席。あと弁護人席と被告人席にも座って当時の裁判の気分を少し味わいました(平日の昼下がりにちょっとあやしい姿・・・)。 ![]() 内部見学のできる地元の酒蔵も近くにあったのですが、折悪しくその日はお休み。先ほど見かけた酒屋さんに直行します。昔は日本酒も量り売りがメインだったようですが、今は焼酎以外には量り売りはあまり見かけません。日本酒は劣化が早いので管理が難しいですからね。 地酒の味を試したかったので、冷蔵庫にあった純米吟醸の原酒の1合瓶を購入。『鳳鳴』という名の、今触れた地元の酒蔵のお酒です。一瓶480円。端数の数円はさらっとまけてくれました。昔から商売をしているところは、さすが太っ腹です。 バスが来るまで、近くのお寺に参って、バスに乗り込んで駅へ。面白い一日でした。まずは美しい穏やかな山あいの街といった空気が良かったです。そして何といっても街全体が上品で文化的な薫りのするところでした。それは街並みの清潔さにも感じましたが、人々の物腰のなかに特にそれを感じました。そうした雰囲気は積み重ねがあるところにしか出てこないように思います。篠山が城主から庶民に至るまで教養を大切にしたということを肌で感じました。 篠山口は始発駅なので、帰りも座れて快適です。大阪から楽に行けるところにこんな街があるなんて、とても嬉しいことです。 ![]() ・・・後日談 参考文献: |