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彦根城⇒市街 | |||
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5月18日、彦根へ。彦根城は2、3年前から見てみたいと思っていました。ゆるキャラ「ひこにゃん」が有名ですね。大阪からは遠い場所になるので早めに家を出ます。 山科を越え、滋賀県に入ると田んぼが多くなります。滋賀県は米どころです。滋賀県は東に山脈を控え、雪の降る県。お米はきれいな水、空気、土壌のほかに昼夜の寒暖差が大きいほうがおいしく実ります。近畿の北端に位置する滋賀県にはその条件が整っているのでしょう。 野洲で乗り換え、彦根へ着きます。この日も天気がよく、暑いくらいです。陽射しがまぶしいので、頭髪保護のためにも(私事ですが、薄くなってきているのです)帽子をかぶってこればよかったと思いました。 ![]() 彦根駅を降り立つと、姫路ほど広くはありませんが大通りがお城に向かって伸びており、はるか遠くに彦根城天守が見えました。 彦根城は豊臣方が東上した場合の第一の抑えとしての意味もありました。名古屋城も、万が一豊臣軍が東上しようとした場合、阻止する為に築かれたと言われています。 しかし現実にはこの東上の押さえの城は、機能しませんでした。豊臣方は大坂にて滅んだため事なきを得ましたが、250年の後、幕末に京都で王政復古の号令をかけた薩摩・長州を中心とする新政府軍に、彦根井伊家も名古屋の尾張徳川家もはやばやとなびいてしまったからです。 徳川幕府からすれば譜代大名の筆頭ともいえる井伊家、身内であるはずの尾張徳川家に託した江戸を守るための城が、闘わずして相手方に寝返ってしまったということになります。 激動に翻弄された彦根城ですが、その思いをずっと胸にひめているかのように静かな雰囲気です。しかしこの道の先には由緒ある城が控えているんだぞ、という空気がこの辺りから早くも肌に伝わってきました。期待感大です。 堀にかかった橋を渡ると、爽やかな緑の木立に沿って堀が続き、道の先には白く立ちはだかる城門が見えてきます。(佐和口)これだけで、彦根城跡は城郭の多くの部分が残されているんだなと思いました。もっと狭い範囲しか残っていないと思っていましたので・・・。 埋木舎![]() お城に入る手前に観光案内所がありましたので、そこでパンフレットの類を大量に取ります。そして風格ある堀と石垣、城門を眺めながらお城に近づきます。すると、井伊直弼(いいなおすけ)が部屋住み(藩主の子だが、世継ぎではない男子のこと)時代に過ごした「埋木舎(うもれぎのや)」の立て札を見つけました。 お城に入る前にまずここを見ていこうと思いました。 幕末が好きな私は井伊直弼にも興味があったからです。井伊直弼は幕末の開国をめぐる状況で幕府大老となり、安政の大獄で開国に反対する者を弾圧、桜田門外の変で斃れた彦根藩主です。一般には、頭の旧い頑固な人というイメージがあるのかもしれません。 ですが直弼は部屋住み時代にもくさることなく茶道、居合道、禅、和歌などに心を注ぎ、いずれも名人級の腕前に達していた教養人でした。決して堅物の頑固者ではなかった。そのイメージギャップにも興味をそそられる人物です。 直弼は彦根井伊家35万石の第11代藩主、直中(なおなか)の14男として生まれました。藩主の息子とはいえ兄が13人もいるのですから、まず家督相続は無理です。そうした男子は、旗本や他の大名家へ養子へ出たりするのですが、直弼には養子のつてがあったにもかかわらす、断られてしまいました。 ![]() 年に300俵(一俵は大体お米60kg)の宛行扶持(あてがいぶち:生活資金)を藩からもらい、埋木舎で暮らすことになります。300石以上知行を与えられれば上級武士です。それを超える俸禄ですから、貧乏ではありません。下級武士からすればうらやましいくらいの暮らしでしょう。ですが大大名の子息に生まれて、養子としても望まれず、何の役目も与えられず生活費を与えられて過ごす。ひけ目と屈辱感は深かったことと思います。 江戸時代の大名は、よく養子を取りました。血をひいた子息が病弱や幼いなどで当主の座を譲るにはこころもとない時、交際のある大名家からしかるべき男子を跡継ぎとしてもらいうけるのです。ですから貰い手は人格もしっかりし、大名としての素養を持った男子をほしがります。そこにはおのずから選別がありました。ですから養子として望まれないということは、暗に劣った人物と思われたのと同じだとも言えるのです。 跡継ぎとしていた兄たちがあいついで亡くなるなどの事情で、兄である第14代藩主直亮(なおあき)の養子として直弼が次期藩主の座につくまでが15年ですから、相当の期間です。実際は諦めとともにこの期間をけっこう楽しんでいたのだと私は思います。ひたすら屈辱をつのらせながら15年も、いろいろな活動に打ち込むことは人間の心理としてできないのではないか。先に自分の気持ちがまいってしまいます。ただこうした生活から常人にはない忍耐と腹ができていったことは想像がつきます。 直弼も国学(こくがく:天皇中心の日本の国の成り立ちを論ずる学問)を学んでいましたから、攘夷(外国人を日本から追い払うこと)が理想だったでしょう。ですが状況を考え、大老という立場から開国の推進を選ぶ。外国から催促を受け勅許(ちょっきょ:朝廷の許し)を得ずに条約調印を決行したのです。 ![]() その直後、勅許を得なかったことに怒った水戸藩の徳川斉昭やのちに徳川幕府最後の将軍となる徳川慶喜などが江戸城におしかけて直弼を責めたてました。大名には江戸城の登城日というものが定められていて、その日以外に江戸城に入るのは御法度でした。だから相当怒っていたのだと思います。 その時の対応に直弼の真骨頂が現われているように思います。厳しいとがめだてをうけながら、何を言われても直弼はひたすら「畏れ入りまする(おっしゃるとおり、申し訳ありません)」と頭を下げて繰り返して受け流したといいます。 その後で有名な安政の大獄を実施します。この時頭を下げた相手も、不時登城(決められた江戸城への登城日ではないのに許可無く登城する)を理由に軒並み蟄居謹慎・あるいは隠居へ追い込んでしまいました。 大老なら言葉を尽くして論破するぐらいでないと頼りないじゃないか、やり口が陰険だと思う人もいるでしょうが、直弼なりの戦術だったのでしょう。火の玉のように気が強かったり、頭の回転が速く弁の立つ相手に、機転をきかせた対応のできない自分がぶつかっても仕方がない。外国に膝を屈する屈辱はもっともだが、国の現状を考えれば耐えるしかない。いろいろな思いを抑えつつ正しいと信じる道を貫くにはそれしかないと考えたのだと思います。 ![]() 日本的な腹芸と言えばそれまでですが、直弼だからできたことだと思います。他の人間が同じ対応をしても決して相手は引き下がらなかったと思います。埋木舎での15年が直弼の人間を磐石のものにしたのかもしれません。 埋木舎は彦根城中堀のほとりにあります。目の前のお城の雄大な雰囲気とは反対に、木が繁り鬱蒼とした感じでした。日陰の身の住まいという感じです。中は清潔な武家屋敷という感じで、広くはありませんが、一人であればゆったりと過ごせそうな住まいです。直弼がここに起居していたと想像すると、感慨深いものがありました。 直弼が暗殺された後の彦根井伊家の運命は辛いものでした。現役の大老が白昼堂々暗殺されたとあっては武門の名折れ、改易(かいえき)すら免れません。そこはなあなあの呼吸で表向きは自然死とされましたが、減封を受け、石高は25万石へ減らされたのです。第2回の長州征伐では芸州口(広島からの攻め口)の幕府軍先鋒を務めますがあえなく敗退。後ろに控えていた幕府軍の参謀や兵士に嘲笑されます。鳥羽伏見の戦いではとうとう徳川家を見限って新政府側についてしまいました。 徳川家の為に常に矢面に立たされながら、肝心の幕府には慰労されるどころか厳しい咎めを受ける。井伊家のなかには、徳川家への憤懣がかなり蔓延していたといいます。貧乏くじをひかされた思いは強かったでしょう。 このような仕打ちを見て、幕府の為に骨を折っても利用されるだけでいいことなんか何もないぞ・・・と他の大名家に思わせたと考える人もいます(『最後の京都所司代』 日川好平著)。徳川幕府はどちらかといえば大名を褒めて治めるよりも罰則と締め付けに偏っていた政権だったような気もします。ただ褒めようとしても与える領土はないですからね・・・。形にできません。戦いを本分とする武士が平和的な秩序を維持しなければならないというジレンマがそうさせたのかもしれません。 開国後も表向き貿易を独占した幕府は陸軍と海軍をいち早く強化していました。装備でも薩摩・長州などに劣ることもなく、兵数では上回っています。また巨大な軍艦も外国から購入しており、海軍力では諸大名家を完全に圧倒していました。 ただ権威主義はどうしようもありませんでした。立場が強い時はいいのですが、徳川幕府には倒れる直前まで、江戸城にふんぞりかえって顎の先で物を動かそうとする姿勢が見え隠れしていました。後に最後の将軍となる徳川慶喜(将軍後見職)や会津松平家(京都守護職)・桑名松平家(京都所司代)を京都に置いて活動させましたが、江戸の老中以下は特別な用が無い限りほとんど江戸に張り付いていながら、最後まで疑心暗鬼で肝心なところでは彼らを信用しませんでした。 京都には政治を動かす力のない朝廷と攘夷派がうごめいているけれども、開港地も長崎を除けば横浜など東日本に偏っていて外国との交渉も幕府が一手に行っていましたし、江戸は百万都市で将軍家のお膝元。多くの幕末のドラマのように京都に焦点をあてて描いた作品を見れば、江戸にこもって何してるんだ・・・と感じますが、江戸と同じように日本最大の都市である現在の東京の繁栄を見るにつけ、その中にいれば感覚も麻痺してくるのでしょう。それはそれで一理あったのかもしれません。 ですが幕府を信頼していた孝明天皇が崩御した後は、朝廷工作によって倒幕派が台頭、一気に倒幕の機運が生まれてきます。大名家の多くは幕府に従うそぶりを見せながら、日和見に徹していました。鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れると、西日本の大名家は一部を除き、一斉に新政府側になびきました。 最後には大名家は従うのだという傲慢、そんな横柄さが最後に徳川幕府の致命傷になったのかもしれません。幕末の歴史を見ているとそのことを強く感じます。時代の流れはあるのですが、幕府の中にも滅ぶべき理由があって滅んだという気はします。これはどこか今の日本政府とも共通するような気もします。とりわけ東日本震災復興の対応を見ていると・・・。情報網の発達した現代とはいえ、東京にいて現地のことがどれだけわかるのでしょうか。それはさておき、直弼自身は幕府瓦解の過程を雲の上からどう思ってみていたのか気になるところです。 彦根城内![]() 埋木舎を出て、佐和口大手門へ。門をはさんだ両側の堀沿いには、そのまま多聞櫓が続いています。大きな枡形があって、巨大な入口です。防御力はかなり高そうです。城を訪れた者はまずこの大きさにも圧倒されるでしょう。堂々たる構えで迎えてくれます。中に入りまず彦根城の展示室が目についたので中へ。彦根城の成り立ちや全体の模型を見ました。 次に近くの細長い建物が目につきます。「馬屋」とあり、現在特別公開中とのこと。武士が乗る馬をつないでいた厩舎のようです。中は二十数頭分の馬房(ばぼう:馬をつなげるスペース)があります。当然ですがすべて木造で、厩の床も板張りであることには少し驚きました。床の中央には穴があいてます。馬糞などの処理に使ったのでしょうか。 ![]() 日本馬は小柄でしたので、ひとつひとつの馬房は現代からすれば小さめです。ただ丁寧な造りで清潔でした。騎乗が許されるのはそれなりに身分の高い侍だけですから、登城に使った馬をつなぐためのものだったかもしれません。 次に足をすすめると、本丸御殿があります。今は博物館にもなっており、能楽場などもあって手が入っていますが、建物のほとんどは残されているようです。城主の住居と庁舎を兼ねた建物で、35万石の大名のものですから立派です。 一番強く感じたことは、広くて明るいこと。庭に面した部屋は光が差しています。茶室もあるのですが、埋木舎の薄暗いひなびた感じとは正反対で美しい庭に面した光のそそぐ部屋です。藩主の居室などもありますがそれも同じ。大老になるまでの数年、直弼もここで過ごしたことと思いますがその時の感慨はどうだったのでしょうか。うれしさと戸惑いが交錯していたのでしょうか・・・。 御殿の中には、甲冑の展示がありました。有名な「井伊の赤備え(あかぞなえ)」です。これは藩主着用のもの。全軍を朱塗りの甲冑で固めていたのはもともと甲斐の武田家(武田信玄の家)でしたが、それを徳川が滅ぼし、井伊家が武田の遺臣を家来として召し抱えたことから始まるようです。
井伊家は徳川の名門中の名門で、戦の時は先鋒をつとめます。幕末の長州征伐では戦国以来のしきたりにのっとり法螺貝を吹きながら赤一色で進みましたが、西洋式の軍制を取り入れた長州藩の前に敗走してしまいます。戦国の世なら相手に恐怖心を与えたであろう赤い甲冑も、近代の戦いでは効果なし。かえって目立ちすぎて駄目ということのようです。 天守へ![]() 本丸御殿を出てどんどん天守閣のほうへ向かって足をすすめます。姫路城とは違って道幅は広いですが、ゆるやかな曲がりが多く見通しはつけづらくなっており、また傾斜もあって息切れがしてきます。小さな門が多かった姫路城とは逆に大きな門と櫓がいくつも、どしんと構えています。 櫓は内部に入れるものが多く、入ってみます。広々としています。ただ外からの姿とは違い、中は太い梁などがむきだしで無骨な印象です。しかしここで泊まりこんだり兵が入ったりすることは当然ながら余裕をもってできそうでした。 櫓は戦時には兵が入り敵兵を狙撃するためのものですから、窓から外を見てみます。眼下に通路が視界におさまります。また壁は下の部分がいちだんと厚くなっていました。大砲などに耐えるため、中に瓦礫などを詰めて厚みを増し、強化しているのだということです。 いくつもの坂を上り、櫓を越え天守閣へ。折からの陽気もあり汗ばんできました。高い場所に位置する天守台からは、周囲が見下ろせます。天守閣はもともと同じ滋賀県の大津城のものを移築したと言われています。三重(屋根と外壁が三枚ある)の天守です。写真では小さく見えましたが、間近にみるとやはり400年を経た本物の天守は美しく感じました。琵琶湖が見下ろせました。( ![]() 天守の中は案外せまく、階段も急。もちろん普段の生活に耐えるような場所ではありません。また戦時の司令部としても使いづらいのではないかなと思いました。展望が効くことは間違いありませんが、包囲されて本当に城におしこめられた場合にしか使用しないのではないかと素人考えで思いました。天守閣を使用するような厳しい実戦を経験した城は現存のものでは稀ですし(今に残るお城は関ヶ原の戦いの後に造られたものがほとんどだから)、またそれぞれの国の考え方があるのでなんとも言えないのかもしれませんね・・・。 天守閣を降ります。天守台から下ると裏側の堀沿いに庭園がありました。城主の庭園です。庭園からは天守が仰げます。池と橋を配した庭園ですが、先ほど見下ろした周囲の風景が頭に残り、見上げるより見下ろすほうが気持ちいいな・・・と不謹慎にも思ってしまいました。 庭園の隅で20メートル四方の田んぼを鍬で掘り返している4、5名の男性がいました。土は水を含んでドロドロなので、足はぬかるみにはまり、汗びっしょりでとても大変そう。たずねると、「ここはもともと田んぼがあったところなので、昔のお米を植えるんです」と答えが返ってきました。機械を使わない農作業は重労働です。実るまでの手入れも大変でしょうけれど、そのぶん秋の収穫の喜びが大きいのでしょうね。 ![]() 一旦お城から出て、中掘沿いを旧大手口(正門)へと歩きます。城はその国の顔ですから、正面は常に主要な街道に面するように造るのが普通のようですが、城下町の整備に伴って街道がつけかわることもあり、そうした事情などで大手口が変わることもあるようです。 見たかったのは登石垣(のぼりいしがき)です。山の上からふもとまでを通して、斜面に造られた石垣で、防御効果は高かったとのこと。山上の石垣とふもとの石垣を一体化し、まとまった防御線を築く意味がありました。秀吉の朝鮮出兵時に半島で多用された実戦向きの強力な造りといわれていますが、国内の城には少ないようです。 城の全周をまわりたかったのですが、時間の関係もあり本日は断念。彦根城はさすがに大大名の城郭です。城域の多くが残されていることもあり見ごたえは充分でした。 街へ![]() 京橋口から城の外へ出ます。その先には土産物屋さんや食事などができる、『夢京橋キャッスルロード』という通りがあります(右写真)。旧い家屋がそのまま残っているわけではありませんが、町屋風の建物が並び雰囲気を感じながら買い物や食事が楽しめます。面白かったのは、通りの端にあった銀行。『両替商』と大きな看板をかかげていたことです(下写真)。 足軽組屋敷を見ようと車道を越えます。ですがそこは普通の住宅街。地図を見ていると車に乗った女性の方が「どこに行くの?」「足軽組屋敷を見ようと思って」「それならそこの道を左よ」とわざわざ車を止めて教えてくれました。彦根の人は親切です。 道はせまく十字に切ってあります。目的の屋敷は数軒ありました。身分の低い足軽だけあって狭い区画に住居を与えられているのがよくわかります。江戸時代の城下の切絵図など見ると、どこの城下であってもお城のそばには身分の高い侍の大きな四角の線で囲まれた屋敷があり、お城を離れたところには身分の低い侍の屋敷が、虫眼鏡で見るような小さな四角でびっしり書き込まれています。身分制の時代のこと、町割りにもはっきりとそれが出ていて面白いものです(自分が身分の低い家に生まれたらちょっと残念でしょうけど)。 ![]() 最後に駅のほうへ向かいます。ここからは普通の市街です。ちょうどおなかも減ったので、途中にあった『にし川』というお店へ。近江牛を使ったすき焼きや肉巻きおにぎりを出すお店です。予算の関係上、すき焼きには手が出ませんでしたので、肉巻きおにぎりに照準を合わせ入ります。 ここ彦根の地は和牛の元祖と言ってもいいくらいの場所です。今でこそ和牛のおいしさは世界にも認められ、国内各地にブランド牛が存在しますが、仏教の縛りのきつかった江戸時代の頃は、四本脚の獣の肉は基本的に食べてはいけませんでした(例外的に畑を荒らす猪は『山くじら』と呼ばれてよく食べられていたようですが)。牛肉は『薬食い』と称して重病人などに特別に食べさせるようなものでした。戦前不治の病とされた結核などの感染症は動物たんぱくの不足も原因のひとつだったようですので、栄養状態の良くない昔では、本当に薬みたいなものだったのかもしれません。 その中にあって、彦根だけは牛肉の味噌漬けを毎年徳川の将軍に献上していたとのことで、いわばタブーの時代から公然と牛肉を食べる文化を育ててきたところなのです。日本の牛肉のルーツと言ってもいいでしょう。 なので彦根に来たらやっぱり牛(ぎゅう)だろう!ということでこのお店を選びました。二十人も入れば一杯のさほど大きくはない店内は、落ち着いた照明と木の造りでよい感じです。すでにほぼ満席でしたのでカウンターの端に座ります。 肉巻きおにぎりとうどんを頼みました。肉巻きおにぎりは今はいろんな場所で見かけますが、ここで出てきたものはちょっと様子が違いました。俵型なのですが、それを寝かせているのではなく、立てた状態でお皿にのって出てきました。ちょうど底の丸っこい湯のみを逆さにしたような状態です。それに自家製の紅しょうがと緑あざやかな木の葉が添えられて高級感がありました(写真がなくて残念です)。 あつあつのそれをひと口食べて「うまい」と思いました。肉の表面はカリっとしており、まず舌ざわりを楽しめます。ですが表面のすぐ下からは柔らかさが残してあって、次にお肉の旨みが出てきます。さらに肉にからめられた上品な甘さのたれの味が舌に広がります。ひと口噛みとると、中にはたれがいっぱいにしみ込んだおいしいご飯がぎっしり。とても満足しました。値段は400円。食べる価値ありです。うどんも出汁がうんと効いていてとてもおいしい。私は普通の出汁を頼みましたが、肉汁を加えた黒だしというものも選べます。 おなかも満足してあとは帰りです。昔の街道がそのまま車道になっているのか、ゆるやかな曲線をもつ道が伸びていました。道路のカーブがどことなく優雅な形をしているように見えます。数値計算以外の部分での何かが設計に加えられていたのでしょうか。 お城の近くと駅付近を除けば彦根の街は静かでやや地味な印象がありました。全体としてとても落ち着いて洗練された雰囲気の街でした。35万石の城下のおおらかさと、文化を大切に育てていこうとする気風が残っているのでしょう。 参考文献: |