86 難波宮の研究

 難波 難波報告
朝日新聞2016年12月1日号に「後期難波宮役所跡か」という記事がでてます。
難波宮の所在を明らかにした故・山根徳太郎先生の偉業がなければ、多分この辺りは高層ビルによって破壊されていたでしょう。日本のシュリーマンと言われ、自らも1954年の「大阪城の研究」弐の「大阪城址の文化的研究」論文巻頭で「大阪城はギリシャ史のトロヤである。」と記されているように、その遺跡を精力的に終生発掘調査されたおかげで今日の結果があるわけですから、記事にはお名前がないのでここに記しておきます。
そして先生と私の父は京大在学当時からの縁で、この難波宮の発掘調査報告書発行のお手伝いをさせていただき、第6巻1970年まで16年以上にわたって出版いたしました。初期の頃は報告書の予算がなく、先生が教え子の企業を回って寄付を募り、私の方への支払いに充てていただきました。第七巻以降は大阪市が市内印刷業者でするということになり、こちらの手を離れました。納得のいかない仕打ちとなりました。編集権や出版権をないがしろにするものだと今も思っています。
さて山根先生は素晴らしい方でした。いつも東福寺の南のお宅に寄せてもらうと、私のような若造にも親しく接していただき、奥様ともども可愛がっていただきました。お孫さんと卓球して遊んだこともありました。
当時京大で父がであった山根先生をはじめ、末永雅夫先生や福山敏男先生方が終生綜芸舎を援助いただいたこと今でも感謝いたしております。最近は出版はあまりできなくなりましたが、考古学や建築史に多大な業績を残された方々に少しの間でも身近に接しられたことはとっても嬉しいことです。
右のコピーは「大阪城の研究(研究豫察報告第弐)」(大阪城址研究会 昭和29年発行)綜藝舎納の序文転載。
 難波序


85 三国遺事三国遺事


「三国史記」は三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。朝鮮半島に現存する最古の歴史書で、1145年完成、全50巻。そして「三国遺事」は『三国史記』に次ぐ朝鮮古代の歴史書で13世紀末完成。『三国史記』にもれた事項を収録した。朝鮮における『三国史記』と『三国遺事』とは、ほぼ日本における『日本書紀』と『古事記』とに相当する、古代史の基本文献です。
綜芸舎は朝鮮史の研究者・三品彰英先生の知己をえて、「朝鮮研究年報」と「三国遺事考証」を1958年からハーバード・燕京研究所からの研究費で出版しました。(HP拓本・データ)






84 日本の風 町家でオープンと藤袴

 日本の風4  「日本の風」という日本の文化を海外に紹介するグループがあります。ずーっと東京の真ん中で活動されてこられましたが、和は京!ということで、京町屋に活動場所を移され、オープンされました。
かって主催の西邑さんをリーダーにイギリスに日本文化を紹介する活動に参加した縁で、少し京都進出のお手伝いをさせていただきました。
オープニングに私の所蔵する平家物語の舞台を描いた六曲一双の屏風を持ち込みましたが、大きすぎて半双を置いてもらいました。また鉢植えの藤袴をおもちしました。
 日本の風
 屏風  日本の風
 藤袴  日本の風中
藤袴
 1998年、京都市西京区大原野の古池の堤防で発見された藤袴の野生種を大原野神社の境内と長岡京市・光明寺近くの畑で育てられてきました。この絶滅危惧植物をKBSはプロジェクトを立ち上げ、秋の今頃京都中に花を咲かせています。今年も梅小路公園や京都御所、寺町通等に何百鉢を置き鑑賞できます。藤袴は平安時代から河原や野辺に咲く山野草として親しまれ、乾燥させた藤袴は香料としても用いられ、往時の女性達は藤袴を香袋に入れ、十二単にしのばせていたようです。
紀貫之は
「やどりせし 人のかたみか 藤袴 わすられがたき 香ににほいつつ」
と歌っています。また『源氏物語』五十四帖の第30の藤袴の巻では玉鬘を想う夕霧が詠んだ
「同じ野の露にやつるる藤袴あはれはかけよかことばかりも」
と詠んでいます。
写真はKBS敷地内で撮影、いっぱい蝶々が舞っていました。どうしてここに花があるとわかるんでしょうか。やはり夕霧のように匂いに誘われたのでしょうね。(161010)


83 餓鬼草子とメッケナム

   国立東京博物館で公開されていた「餓鬼草子」(国宝)は後白河法皇(平安時代末期)が三十三間堂に納めた「六道絵」の一部の中の餓鬼編でこの絵は食糞餓鬼です。糞を食しています。
ところで後白河法皇は傑出した人物でしたが、地獄極楽を見たからこういう絵巻を奉納したのではないでしょうか。

国立西洋美術館にも行きました。そこではドイツ初期版画家メッケナムの作品が展示されています。その中で目を引いたのが「狩人をあぶるうさぎたちのオーナメント(大英博物館)です。いつもは狩りでかられるウサギ達の反撃です。狩人をあぶり、犬を煮ています。痛快ですね。これも社会風刺です。(2018.8.8)

 
 


82 この海のつづきの海を

 この海  黒田
東大寺大仏殿大屋根に跨る黒田f義
 悲しい便りが逗子から届きました。弊舎から出版した「この海の続きの海を」を出された黒田康子(しずこ)さんが去年十月百歳で亡くなられたというお孫さんからの便りです。九十歳くらいまで毎年終戦記念日に靖国神社に行き、戦争反対の活動をされていました。それは戦争という暴力が新婚間もない黒田夫妻を引き裂き、前途洋々の若き学者を帰らぬ人としてしまったからです。

黒田f義(のりよし)さんは大正三年(1914)静岡県生まれ、昭和二〇年(1945)フィリッピンで戦死。名古屋高等工業学校建築科(現・名古屋工業大学)卒業後、奈良県古社寺修理室勤務となり技官として調査研究し、特に興福寺東金堂台座の中から仏頭を発見し、それがのちに飛鳥の山田寺白鳳仏とわかり国宝となりました。また春日大社建築の研究は将来の博士論文との思いで書かれましたが先の大戦で応召、未刊のまま戦死。戦後親交のあった京大名誉教授・故福山敏男先生と奈良大学教授・故岡田英男先生はその論文の素晴らしさを思い、世に出ないことを惜しみ、春日大社(春日顕彰会)の援助を得て、「春日大社建築史論」として昭和五十三年(1978)弊舎で出版されました。ありがたいことに完売し、現在は絶版となりました。

さて奥様・黒田康子さんは戦後一人息子を抱え、困難な中生き抜き、夫君の業績を惜しみ、福山先生や岡田先生など多くの援助で「春日大社建築史論」を出された後、黒田f義さんのもう一つの才能・歌を遺詠集として「この海の続きの海を」を再び私のほうで昭和五十五年(1980)出版されました。カバー写真は遺児・黒田史夫さん。残念ながらご子息はずいぶん前にお亡くなりになり、お孫さんに看取られて逝かれたそうです。夫君とご子息二人の歳を合わせて貰い、百歳まで生きられたのでしょうか。

今年(平成二八年)一月末、天皇皇后陛下がフィリッピンを訪問、戦没者墓地に行かれました。日本人墓地の記念碑は石で作った遺骨箱、康子さんの戦死の公報のあと、戦後三年後に遺骨箱が届きましたが中は空でした。(2016.2.2)


81 拓本の作り方

拓本の作り方・墨



季刊誌「墨」秋号に「拓本の作り方」が紹介されました。「墨」には20年以上前からお付き合いがあり、私自身の紹介や、記事を載せていただきました。近年書道界が少子化で少し下降気味ではありますが、毎号豪華なグラビアで頑張っておられます。これからも書道の活性にますますの健闘をお祈りします。(2015.11.11) 











80 水中考古学研究水中考古学


綜藝舎で1967年、編集・販売した「水中考古学研究」は京都教育大学考古学研究会・小江慶雄教授著で、水中考古学という名を世に出した書籍となりました。それから半世紀、先日朝日新聞で海洋文化学者・岩淵聡文が取り上げられ、現在の水中考古学の現状が紹介されていました。ここ50年の技術の進歩で水中の多くの遺跡や遺物が発見され調査されてきましたが、2001年ユネスコで「水中文化遺産保護条約で遺物の引き上げが禁止となり、近年九州で発見された元寇船は引き上げられないそうです。かっては地中海の海に沈んだ船から黄金を引き上げ大儲けしたなんていうのは夢になりますね。
なお本書は主に琵琶湖の水底の遺跡や遺物の研究報告ですでに絶版となっています。
(2015.8.8)







79 七夕 北野天満宮

三光門うさぎ   茅の輪
 七夕  三光門  
今年の七夕はあいにくの雨です。先日北野天満宮の本殿にある七夕飾りに短冊をぶら下げてきました。天神さんは菅原道真公をお祀りした神社で、学問の神様です。早朝夏越のお詣りしたのですが、修学旅行生でいっぱい、みなさん正式参拝されていて流石学問の神様です。(ミニ茅の輪をいただきました)
さて本殿に入る門は中門で、ここでは三光門という名称ですが別名「星欠けの門」と呼ばれます。。三光門とは三つの光・日月と星を指しますが、この門には太陽と月と三日月の彫刻がありますが、星がありません。これは平安時代、内裏の真北にある門の上に北極星が輝いていたので、彫刻は不要とされたと言われています。雨の七夕は星欠けの七夕でもあります。(2015.7.7)


78 
御霊祭神輿

 御霊神輿1  御霊神輿2 御霊神輿3 
綜芸舎の地域の氏神様は上御霊神社、葵祭の3日後18日に祭礼、数年前から御所内の通行が許され、朔平門前で神輿担ぎです。昔は天皇など殿上人にも賑わいは聞こえたのでしょうか。そういえば上杉本洛中洛外図にもこの祭りが描かれているそうです。いつもは我が舎の前で行列が通り抜け、神輿も台車に載って進むだけの祭りなのですが、御所では三基の神輿がそれぞれ掛け声で肩に担いで練りまわります。砂塵も舞っての大騒ぎ。特に最後の末広会の神輿はてっぺんに神社の屋根と同じ千木(我が孫が最初に覚えた古建築用語ちぎ)をつけ、胴回りは神が依っているので赤い布で隠して、大きな鈴を鳴らしながら「えらいやっちゃ!えらいやっちゃ!」と担ぎまわります。御霊祭りとしては京都最古だそうです。外国人もたくさん見ておられました。一時は担ぎ手が無くなっていたのですが復活して嬉しいですね。
最後は北門を抜け、相国寺と同志社大学の横を通り社に戻ります。上御霊神社は桓武天皇から始まった神社ですが、中世応仁の乱の端緒になったところでもあります。(15.6.6)
  


77 醍醐寺藤戸石

 藤戸石  史迹と美術
 史迹美術同攷会1010例会は総会を兼ねて醍醐寺でおこなわれました。私は監事として再任され、これからも本会のお手伝いをします。鴨東史談でも述べていますように、本会の創設者で石造美術の名付け親・川勝政太郎先生と私の父薮田嘉一郎は中学の時からの親友でお互いに切磋琢磨して日本の美術、歴史の研究をしてきました。その縁で私も微力ながらお手伝いをしています。本会の会誌「史迹と美術」851号からこの一年、私の採った「飛鳥祝戸如意輪観音石仏拓本」が表紙を飾ります。
総会の後は醍醐寺三宝院、特に特別史跡・名勝の庭園を修復に携わった本会の現会長・尼崎博正さんとと会員・吉村龍二さんのお話と報告のあと見学しました。本庭は豊臣秀吉が慶長三年(1598)醍醐の花見の後、設計し五月に完成するも八月に秀吉死去、その後醍醐寺座主義捐准后により二〇年かけて作られた名園で日本有数のスケールの大きい華やかな庭です。中でも庭の中心にある「藤戸石」は管領細川から信長、秀吉、家康と渡った覇王の石と言われるものです。もとは能・藤戸で語られるように源平合戦からのいわれのある変輝緑岩です。斜めから見るとその存在感はすごいものです。
さて3月8日1011回例会は万福寺です。(2015.3.3)


76 平等院鳳凰堂

鳳凰堂  平成26年10月修復なった宇治平等院に今年1月史迹美術同攷会1009回例会として参加しました。まず宇治上神社で正式参拝、ここも昨年末屋根の修復が終わり、日本最古の神社建築として蘇りました。年輪年代測定から1060年創建の国宝本殿と拝殿、本殿は三内社と覆屋からなり、覆屋のおかげで内社は綺麗に残っています。また拝殿は1215年建築された寝殿造で、平安時代の住居遺構としては唯一のものです。次に訪れたのは橋寺、ここは「拓本」の「夏秋独り言63宇治橋断碑」でご覧ください。
さて午後は世界文化遺産宇治平等院に参りました。平等院は1052年、藤原道長の別荘を頼道が寺院に、翌年には阿弥陀如来を安置する鳳凰堂を建て、極楽浄土を再現しました。実は今から45年前綜芸舎で「古建築細部語彙」を出版するにあたり、著者であった父薮田嘉一郎と宇治上神社と平等院に訪れ撮影し、本に掲載しました。この本はおかげさまでロングセラーとして今も売れています。今回修理された鳳凰堂を見るととっても落ち着いた朱色(丹土)と黒瓦葺で日本の美意識にあったものになっています。当時はモノクロでの写真でしたから良かったもののカラーだったら再販出来なかったです。かっては閑散としていた宇治上神社も、修復なった鳳凰堂も多くの人が来ておられて賑わっていました。  なお宇治上神社の板蟇股は藤原時代の貴重な遺構です。なお平等院梵鐘は「拓本」のギャラリーをご覧ください。

左モノクロ写真は「古建築細部語彙」より。
宇治上神社内殿と蟇股  古建築細部語彙
 古建築細部語彙鳳凰堂  宇治上神社内殿



75 Myご朱印帖

 朱印帖Myご朱印帖です。ちょっと前の1日講座で見本に作ったものです。秋の京都北と東を巡りました。
右から西賀茂の正伝寺、鷹峯の光悦寺、小野の随身院、そして醍醐寺本尊と三宝院。醍醐の紅葉を添えて・・・。

 正伝寺
洛北西賀茂にある正伝寺は臨済宗南禅寺派 吉祥山 正伝護国禅寺。重文の方丈と小堀遠州の獅子の児渡しの庭園で有名で、比叡山を借景に、枯山水に石を置くのでなくサツキを配置するという斬新な発想です。
 光悦寺垣
洛北鷹峯の光悦寺は本阿弥光悦のお寺です。1615年徳川家康からこの辺りを拝領し、光悦を中心とする工芸村として栄えました。茶室大虚庵を取り巻く光悦垣にもみじが映えます。
お隣の源光庵は今年JRの「そうだ京都へ」のポスターになったため多くの観光客が押し寄せました。
 
 
京都山科と伏見の境にある醍醐寺は弘法大師の孫弟子理源大師が874年創建した真言宗の総本山です。幾度かの再建を通して今日まで続いています。つとに有名なのは豊臣秀吉の醍醐の花見ですが、紅葉も素晴らしい処です。
五重塔、金堂は国宝です。また境内にある三宝院の唐門や書院も国宝。秀吉設計と言われる庭園は国の特別史跡・名勝になっています。
 醍醐寺池
醍醐寺の奥に行くと弁天堂があり、池に写る紅葉にうっとりします。
 瑠璃光院 朱印  瑠璃光院のご朱印

京都八瀬にある瑠璃光院は昭和の初め建築家中村外二と庭師佐野藤右衛門によって造られた数寄屋建築と庭園です。さてここは東本願寺系のお寺でもあるのですが、人手不足なのかご朱印は各自印を押してくださいとのこと。
これってスタンプラリーですよね。ちょっとがっかり。源光庵でも朱印を押した紙が売店においてありました。有難味がありません。(2014.12.12)


74 鞆の浦・尾道の文化財

対潮楼

史迹と美術同攷会1006回例会のお知らせ。今回は私が担当します。興味のある方、お近くの方はご参加ください。詳しくはお問い合わせください。定員締め切りました。(141005)











73 史迹と美術
史迹と美術
父藪田嘉一郎と昔からの友人であった故川勝政太郎先の創刊した雑誌「史迹と美術」の今月発行の841号に、昨年6月岡山の鬼の城に行った例会報告を出しました。また巻頭の写真も掲載されました。
そして今から40年ほど前こちらを頼って大牟田から来た九州男児、数年こちらに住んでいましたが京都の魚はまずいと言って故郷に帰り、文化財調査の仕事に従事し、このたび本誌に論文が掲載されました。(確かに当時の京都の魚はまずかった。
「熊本県北部、鎌倉時代造立 五輪塔様式の変遷について(上)」佐藤誠)
なお史迹と美術同攷会の例会は4月で1000回を迎えます。998回は京都智積院など。








72 森浩一さん
森浩一
たまたま我が舎のホームページ編集中、北九州松本清張記念館で始まった「松本清張と邪馬台国展」に父との往復書簡が出ていることを書いていたら、ニュースで同大名誉教授森浩一さんのご逝去を知りました。かって我が家にも来ていただき、「終末期古墳」森浩一編(塙書房)では父の益田岩船考の一編を載せてもらっていたり、何かと関係がありました。最近では「森浩一の考古交友録」をとっても興味深く読ませていただいたのですが、あとがき(今年2月記)を読むと右足切断されたとのことビックリ、案じておりました。深く哀悼の意を表します。(20130809)








71 卒業アルバム

卒業アルバム 
先日、ピンポーン・・・戸を開けると「Yの娘で、先日遺品を整理していたら、そちらに借りた卒業アルバムが出てきましたのでお返しします」裏見ると確かに私の名前、数十年前に貸したものが帰ってきました。日本中が貧乏な時代懐かしい!
今は統廃合で小学校は無くなりましたが、建物は残り、21日の参議院選挙投票所として使われています。ここには三千家や狂言の茂山さん宅があったりしましたが、なかでも織り屋が圧倒的に多かったですね。通学途中武者小路通を通ると両側から手織機でおるガチャコンガチャコンと...いう音が聞こえてきました。また窓際に座った職人さんが下絵を描いている姿や、小学校の前を流れる小川という名の川(京都にしてはいい加減な名前)があり、友禅染の工場から流れる赤や黄色の排水でまるで錦のようでした。同級生にも機屋が多く、賃機で織っている親とそれをかす大店もあって、小さな子どもたちの中にも階級観が漂っていたと思いす。そのなかで私の父は学者でしたから皆とはわけ隔てなく付き合えたようです。
さてY君は織り元の家で裏千家のすぐそばにありました。いつの時代どこのクラスにもヒーローがいるように彼も賢く、運動でき、男前、人気者でした。先生までも贔屓していたのは小さくってもわかりました。さてその後は彼は同志社卒業後事業家になりましたが、60代で亡くなってしまいました。
返しに来た彼のお嬢さん、かって斉王代にも選ばれた方、名刺をみるとなんと政治家の秘書です。その政治家は私のすぐ近くに住んでいて、パーティーでよく見かけていたのです。今夏の選挙は非改選なので出ていませんが、テレビには出てきます。よく秘書が次の選挙に出るみたいですから、ひょっとしたら出るかな。
京都西陣は賃機の人は共産党に、織り元は自民党を応援する構造が長く続いてきたのが自民党と民主党という構造になり、また再び共産党が・・・さて? 故小川小学校の投票所にはウサギステッカーつけて行こう!
(20130716)
 卒業アルバムよせがき
 卒業アルバム表紙


70 水刷毛

 刷毛  刷毛2
表具や拓本および染色に使う水刷毛は鹿の毛でできています。 特に冬毛より夏毛の方が柔軟です。毛の中が空洞になっていてやわらかく水分を保持します。刷毛として造る時も空洞が塞がらないようにするため手間がかかります。
他の刷毛の毛は抜け落ちたりしますが鹿の毛は抜け落ちるのでなく空洞があるためストローのように折れてしまいます。それを防ぐのには水の中につけておけばいいわけですが、たまにしか使わない場合は今度は柄が腐りますのでそういうわけにも行きません。使わないときは時々湿らせてください。
写真は比較的新しいものと使い古したものを比較しました。なお横に広がっているおかげで、作品のしわを伸ばしても柄の部分でいためる恐れがなく、また紙に密着しないのでとっても伸ばしやすい刷毛です。すべて長く使われている伝統的な道具には理由があるわけで、他のもので代用しない方がいいでしょう。(130503)水刷毛注文


69 アキラ 大友克洋

 芸術新潮
 漫画家大友克洋は海外では圧倒的な支持を受けています。特にアニメになった「アキラ」世界に日本のアニメーションの先駆けとなった作品です。
1981年「気分はもう戦争」での描写の素晴らしさで私も注目してきました。
「芸術新潮」2012年4月号で表紙を飾ったのも漫画がアートとし認められたからでしょう。
5月23日夜秋葉原の3331artschiyodaでの原画展を観ました。予約制にしたのは多くのファンが来るからでしょう。確かにほとんどが若い人たちでした。
展覧会としては物足りないものでした。もう一人の漫画界の勇・井上雄彦の「最後のマンガ展」を4年前に上野の森美術館で観ましたが、こちらの方が展覧会としては遥かに良かったとおもいます。
あとは森ビルで開催中の尾田栄一郎OnePiece展を観たいです。(2012.6.1)
 童夢  童夢の穴
 「童夢」の一画面  展覧会場に作られた壁


68 
One Piece

 ワンピース 素敵な年であったはずの兎年! 私の年でもあったうさぎ年、3.11東日本大震災で未来永劫忘れられない悲しい年になってしまいました。
この日は悲しんだウサギも、原発事故とそのあとの東電、政府の対応で怒り心頭、最近の民主党政権と官僚の言動に怒りは収まらず、竜のとしになっても続いています。龍が世の中を変えてくれないかしら!

「ワンピース」は現在64巻2億5千万部、最新刊初刷400万部というお化けのような漫画、作家の尾田栄一郎は私と同じ「兎年」、60巻まで読み終えました。出版不況の中一人気を吐いている感じですね。2月3日には65巻発売、さて初版記録更新か?
この作品は子ども以外にも大人たちに支持され、いろいろ評されてもいます。
七人の侍がヒントだそうですが、私にはギリシャ神話の「オッデセイ」が思い起こされました。ユリシーズともいわれた英雄の壮大な冒険談、映画にもなってます。
そしてもちろん海賊話ですから、最近では「パイレーツ・オブ・カリビアン」が下敷きのような気もします。
ところで小さなころ、私は海賊が大好きでした。絵を描けば髑髏を描き、腰には竹の剣を差し、飛び回っていました。もちろん映画は海賊モノ 大活躍が終わり、海賊船が遠ざかっていき、ランプの明かりが消えていくラストシーンに酔いしれていました。
なんとそれが高じて、高校時代フェンシング部に入り、なんと1年の練習で、全国大会京都代表として新潟までいったほどでした。結果は散々でしたが。(2012.2.1)  
 ワンピースうさぎ  うさぎ


67 光・音・寂・絆

東京タワー   ミッドタウン Light
 この日曜日、六本木ミッドタウンのクリスマスイルミネーションを見に行きました。年々趣向を凝らして、今年も素晴らしい光のページェント。4階のイタリアレストランボタニカでの食事の後、イケメンボーイさんの案内でテラスからのイルミネーションも観られました。
 タイラー  ドーム音 Sound

月曜日の夜は 東京ドームで「エアロスミス」結成40周年!今なおオリジナル・メンバーで君臨する世界最高峰のロックバンド、7年振りに来日!だそうです。ドームにはポール・マッカートニーを聴きに行ってから20年ぶり、純粋なロックを生で聴くのも初めて、おまけにアリーナ席の舞台から10メートル、ほぼ満員の観客席。舞台、演出は比較的シンプル、でもスティーブン・タイラーは最初から最後までぶっ飛ばし、二時間スタンディングで、老兎にとっては楽しくってちょっとつらい・・・ということで今も足が痛い。日本では有名なアルマゲドンの主題歌も歌われましたが、他の曲もよかったです。本物のロックは凄い!

上の

寂 Silent

一夜明けた昨日は、上野の国際子ども図書室、もとは帝国図書館として1908年ルネサンス様式を取り入れた建物で明治期洋風建築、隣には昭和初期の黒田清輝記念館もあり黄葉する銀杏に映えていました。ここは現在東京国立博物館所有で、子ども図書室は国会図書館分館です。さてここで展示してある「ヴィクトリア朝の子どもの本」のアリスの本を観ました。静かに感激。

 東博

絆 Bonds

23日に訪れた東京国立博物館「法然と親鸞展」に出ていた国宝「西本願寺本三十六人家集」を発見された明治の著名な歌人書家古筆家・大口周魚さんのお孫さんと親しくなりました。
京都は今西本願寺も東本願寺も多くの信者のバスで埋まっています。いろいろな方との絆の中に生きていることを実感しています。
ところで博物館の黒門(旧池田屋敷・東大にある赤門と対比)が開いていて中から上野公園の銀杏が見えました。(2011.12.10)


66 空海の美仏

仏像   1 東博の空海展「聾瞽指帰」などの書を観ようと遅々と進まない最初の方はあきらめて、立体曼陀羅を表した展示も、東寺の本物と比べようもなく、大英博物館の無料に対して、高すぎる入館料に不満を残しながらの観覧でしたが、たった一点 国宝「蓮華虚空蔵菩薩坐像」神護寺(9C)のあまりの神々しさに我を忘れて眺め入りました。
東博のもう一つの特別展「孫文と梅屋庄吉」(誰モ見テナイ写真)明治初期の日本と中国の景色が写っています。私もミテナイ写真・東大寺南大門の前が草ぼうぼう、同じように故宮のなかも草ぼうぼう、100年で多くのものが変わったようです。図録には別売の3D眼鏡をつけてみると立体に見える維新前のステレオ写真を観ていると、3Dあまり変わっていない気もしてきました。 
まだ少し時間があったので、西洋美術館の「古代ギリシャ展」にもよりました。大英博物館ではエジプトとアッシリアで満足したのでギリシャは見なかったのです。目玉の「円盤投げ」は写真と違ってあらゆる方向から観られ、破たんのない造形には感服しましたが、じっと見ていた手がなんだか動いたような気がしてどことなく生っぽく感じてしまいました。あんなやさしげな手で投げられるか心配、やはり金剛力士像のような体躯の方が好みです。ところで私にとって新発見は紀元前600年ころの黒像式陶器です。本などでは細部が分からなかったのですが、素晴らしい造形です。さてこの美術館が世界遺産に登録申請されたということらしいがどこがいいのかわかりません。ル・コルビュジエ設計だからなのだそうだが、日本にはもっと登録したいものがあると思うんだが・・・。 (2011.10.22) 
 天安門
展    なお名古屋では愛知芸大の「国宝・
至宝模写作品展」を松阪屋でみました。
素晴らしい模写作品でした。



65 大英博物館

大英博   大英博
 大英博
 大英博物館に入って、中庭の円形建物の左側のドアを入ると、ガラスケースに入ったロゼッタストーンがあります。博物館では一番混雑する場所です。その奥はメソポタミア=アッシリアのコレクション。素晴らしい!壁面に顔をひっつけて見られるし、写真採り放題。あまり人もいないのでずーっと見ていました。紀元前8世紀の作品なのに、ライオンの雄たけびが聴こえてきそうです。
イラクにあったら戦争で破壊されていたでしょうね。

私の夢はインドのサーンチの仏蹟石彫とこのメソポタミアの石彫、どちらにも会えたのでこれで思い残すことありません。
(2011.0723)


64 物不足巻物

東日本大震災で、多くのものが不足しました。最初は水や牛乳、ガソリンなど、また電力不足が追い打ちです。
先日、東京の講座で、印刷用紙が不足していてチラシが刷れないので、こちらの一日教室も出来なくなりました。

そして掛軸の裏につける上巻絹・・・これは福島県川俣が産地です。事故の起きた福島原発に近いので避難勧告が出ています。これからどうなるのでしょうか。
京都に住んでいても何かと影響が出ています。東日本の方はどれほど不便な暮らしをされているのでしょうか。また物が生産できなければ将来の生活も不安です。一日も早く復旧することを祈るのみです。

←掛軸の裏の一番上の薄青の絹が上巻(福島絹とか川俣絹)、巻かれたときに軸全体を保護します。関連記事「掛軸と屏風」(2011.4.20)



63 博物館詣で

展   花うさぎ  梅
ということで遅まきながら正月26日東京博物館で兎の展覧会観ました。それほど大きな展示でなくって残念でしたが、兎のことですから小じんまりでした。

ここで一番勉強になったことは、大好きな「花兎」文様が、実は中国の竜に雲気文のデザインを間違って、兎に花として生まれた文様だったということ。日本人が兎好きだということの一端だそうです。龍を好む中国と兎を愛する日本、日本人は平和主義者ですよ。

ついでといってなんですが「平山郁夫と文化財保護」展を観ました。日本だけでなくアジアの文化財保護に尽力された平山さんの業績はすごいと思いますが、描かれた絵は茫洋としてどこかピントの合わない風景画に思われます。風景画なら東山魁夷の方がシャープだし、インドの絵なら秋野不矩さんがすごい・・ということであまり興味はありません。

さてお昼時、いつも食事をする東洋館は修理中、法隆寺宝物館のレストランで食事、ここに来ると必ず訪れるのがここの庭にある「旧十輪院宝殿」、横を観ると紅白梅が咲いていました。

それにしても最近の博物館も大変ですね。正月二日から営業、デパート顔負け!(2011.02.20)



62 惜別 城南山人古代文字

私にとって唯一の仲人をした友人が亡くなりました。彼とは2年ほどあっていませんでした。知らせがないのは元気な証なんて決め込んでいたのですが、一昨日奥様からメールで亡くなったという知らせ・・・茫然自失!
今から30年ほど前、女子大を出る学生が教授の紹介で就職活動に来ました。当時人を雇うほどの仕事をしていなかったのでお断りしたのですが、たまたま展覧会の受付を依頼、そこに手伝いに来た友人とあって紹介、縁あって結婚することになり、間を取り持った私が仲人を仰せつかったのです。
彼は当時すでに書家として、また陶芸家として活動していましたが、重度の花粉症のため陶芸や書作が制限されたこともあって、文字の研究に没頭していきました。成果は1980年代から現れ、いくつかの出版社から古代文字の字典等を出すようになり、誰も成しえない緻密な字典を次々出版しました。今回その集大成となる「古代文字字典全集」全6巻が発行される直前に帰らぬ人となりました。本人が書店に並んだ本を観られぬのは残念ですが、完成しての他界で少しは良かったのではないかと思います。
それにしても惜しい人を失いました。彼は新たな思いで書作も始めようとしていたそうです。また素晴らしい歌も詠んでいますのでそれらが何らかの形で世にでればと思います。

「春霞 日毎覚悟を決め直し」 「死神と貧乏神と花の宴」 「十月は光明あるか秋白し」

私も1句 「不義理重ね 逝く人会えぬ無念かな」 老兎  南無!   
(2011.1.1)


61
恩師 前川道介先生ドイツ怪奇文学

先日知人が、「大変お世話になった中学校の先生が、人づてに亡くなっていた話を聞いてショックを受けた」と聞きました。それを聞いて突然私の恩師前川道介先生を思い出しました。長らくご無沙汰していました。そうだインターネットでわかるかなと見てみると、6月他界しておられました。同志社大学の名誉教授だったので京都新聞には出ていましたが、購読していないのでわからず、おまけに本人の意思で葬式も墓もなしということだったそうです。
不義理です!情がないです!申し訳ないです・・・お宅に飛んで行って、奥様とお嬢様にお悔やみとお詫びをしました。すぐ行けるならどうして御存命の間に行かなかったのか慙愧に堪えません。いっぱい話したいことがあったのに。ご家族からはとっても優しく対応していただき、先生は生前「藪田くん、とっても忙しいんだね」と話しておられたと聞き、「スイマセン!センセイ」、ご家族と若き日の尽きぬ思い出を語り、別れ際には少しは重荷がとれました。

先生の教え子だった奥様、若き日ドイツ語の同僚だったある先生が遊びに来て、玄関に出た奥様に、「お父様はご在宅ですか?」といった話もほほえましく思い出しました。

先生はドイツ文学者で、学生時代ドイツ語を受講していた私はできの悪い生徒だったのですが、卒業後何かの縁で、生徒先生の関係でなく、友人のように接していただき、出版人として仕事を始めると、大学を移られた先生はさっそく原稿を書いていただき、出版できました。当時は生意気にもこの言い回しは難しいので少し優しく書いたらなんていって、困らせたりしました。
その本もいつの間にか絶版となりました。でも今その本「ドイツ怪奇文学入門」が稀書となり、webサイト「復刊ドットコム」で復刊してほしい本に選ばれ、古書で高値が付いているという状態です。先生の素晴らしさを再認識しています。いつか復刻したい本です。
バロック音楽が好きで、FM放送に原稿を書いておられた先生、天国でバロック音楽聴きながら、大好きな本に囲まれておられることでしょう。南無!

(追)なお兄上の前川誠郎元西洋美術館館長も一月に亡くなっておられます。学生の時九大教授として京都に来られて授業を受けました。かさねがさねお悔やみ申し上げます。(2010.09.08)


60 装画の力

展
装画という言葉はあまり一般的ではありません。私は装丁(ブックデザイン)の一部と考えてきましたが、今回この展覧会で装画のことを真剣に考えてみました。本を出版するとき、著者、編集者、印刷、製本を通して生まれます。本の形を決めるデザインは多くは編集者の領域ですが、現在は造本家が加わって、より内容を表し、人の目につくデザインが施されます。その一翼を担うのが、装画というわけです。装画はブックカバーの絵もしくはデザインと考えてよいでしょうが、書名・タイトルはイラストレーターや書家が担当する場合もあるでしょう。
私もかって出版した本の自分で考えた装丁を気に入ってブックデザインの公募展に出品したという若気の至り的思い出があります。

さて今回京都みやこめっせ(21,22日は我々の「ひょうほゑ展もあります)で11日から16日まで「装画の力展」が開催されています。サブタイトルは「太宰・清張を描く」です。20名のイラストレーターが参加した今までにない本の展覧会です。
奇しくも東京の知人の亡くなったご主人の遺作展「飯山勇小品展」が神保町の檜画廊で月初めにありましたが、岩波書店などの装画家として活躍されたそうです。(2010/03/14)


59 神々の乱心

展
2010年1月9日〜3月31日まで北九州市小倉の松本清張記念館で開かれている「神々の乱心展」の図録をいただきました。
「神々の乱心」は松本清張最後の作品絶筆です。
内容は
昭和初期、新興宗教と天皇、軍部をも取り込もうとした男の野望を描いた話です。
そういえば大ヒットの「1Q84」も新興宗教がテーマでしたね。完成していたら代表作になったかもしれません。(2010/02/11)










58 平城遷都1300年

虎
藤原京から遷都したのが710年ということで今年は1300年になりますが、70年の短いみやこでした。
しかし奈良の都=南都として、多くの神社仏閣が其の歴史を刻んでいます。
綜芸舎が出版を主の業務としていた昭和代は其の得意先がほとんどが奈良で、幾度も奈良には通いました。
特に長谷寺、岡寺、飛鳥寺にはお世話になり、又天理教にもお世話になりました。
また近畿日本鉄道の文化事業に参加し、多くの研究性の高い「近畿日本ブックス」という冊子を出版し今のブームの先駆けとなりました。
雪が降ったという電話で、早朝長谷寺まで重い大型カメラを背負い撮影したり、桜咲く吉野山を何度も訪れて表紙の写真を撮りました。
拓本を採るようになってから、東大寺昭和大修理のお手伝いで、寺内のほとんどのものを採拓、そして「東大寺展」の出品作として全国回って展示しました。
ことほど縁のある奈良の遷都祭り、成功を祈ります。
この写真はオープニングイベントが元旦「四神」玄武:奈良公園、青龍:室生寺、白虎:信貴山朝護孫子寺、朱雀:金峯山寺で行われるなかで、虎の寺として有名な朝護孫子寺というより国宝「信貴山縁起絵巻」のこのお寺を紹介。
余りにも遠いので、京より寅年の今年の平安と繁栄を「ウオー」と拝んでおきます。(2010.1.1)


57 とらや

とらや 綜芸舎のお隣の老舗羊羹の虎屋さんがオープンして2か月経ちました。菓寮のご招待が今日までとのことで、昨日よせてもらいました。まずとっても明るい雰囲気で、南北ともにガラス張りで涼しさも感じました。お庭も、日本庭園でなく現代っぽくってより明るさが強調されています。

ある程度のスペースをとって、和の豪華本や、京都関係の本、和菓子の本などが置いてあり、自由に閲覧できます。

大好きなかき氷(みつ)をいただきました。おいしかった!
和菓子の店に男性の欧州系のボーイさんがおられたが、これもおしゃれですね。

虎屋がこの地に創業したのは1628年以前らしい。380年の老舗なんですね。1854年に立つ蔵は今回改修されたそうです。
昭和13年の写真がありました。かすかに覚えているところがわたしも苔の生える年代になったのかしら?
そういえば戦後、砂糖が配給の時代に、当時大臣になられた当主黒川さんが、近所に方に砂糖を分けると言われて、一条通りが長蛇の列だったと生前母が申していました。
大番頭の方と仲良かった母はいろいろお世話になったみたいです。

さて問題は駐車場、我が舎の北隣に虎屋の駐車場がオープン、排気ガスと騒音でこれからが思いやられます。

では綜芸舎にお越しの節は、虎屋菓寮で粗茶いやいや高級茶菓子で一服いかがですか?  駐車場もございます。(2009.8.20)
虎屋



56
凸版印刷
シネマ
春見た映画に「七つの贈り物」というアメリカ映画がありました。まったく予備知識がなく、30分ぐらいは筋がつかめず困りましたが、後半は涙で潤んでしまいました。
原題は「SEVEN POUNDS」、瞬時に「ベニスの商人」の「肉の1ポインド」を思い出しました。多分それをもじったのでしょうね。
話はウイルスミスが自分を犠牲にして援助していく話です。
さてここでいちばん私がうれしかったのは、心臓病を患っている女性との話です。
彼女は凸版印刷でカードを作っている仕事をしています。 彼女は彼に「女性は凸版印刷が大好きなのよ。それをねたんだ男性が、平版印刷(オフセット)を発明して、凸版印刷を抹殺したの!」という話(この説はユニーク)。
そして自分の工房に彼を連れて行きます。印刷機が二台、一つはつぶれていて誰も治せない、もうひとつを使っているのと言って動かします。

この二台の印刷機よく知っています。一つは日本では「だるま」といわれる小物の凸版印刷機、もう一つは「ハイデル」というドイツの名機です。
かって当方のほとんどのはがきやカタログはこれで刷ってもらっていました。いまもその印刷工場ではこの機械活躍しています。京都では数軒になってしまいました。当方もほとんどがパソコンで済ませていますので、出版物の再版くらいでしか使わなくなりました。それも凸版の鉛版がすり減ってきて、もうダメでしょうね。

さて映画では主人公が壊れたハイデル機を修理して、彼女をびっくりさせ、印刷機がガチャンガチャンと動く中でのラブシーン・・・いいないいな機械の音に私自身の昔を思い起こしていました。そこでは油のにおいと機械の音の中で、工場の主人と校正をしていたり、色合わせをしている姿です。今はない手造りの世界。

昨日の新聞では、日本の出版社がとうとう4000社を切ったそうです。再版しか作れなくなった綜芸舎にとっても忸怩たる思いです。でもこれからもwebサイトを通して、日本の文化を少しでも発信したいと思っています。頑張ります!(2009.07.05)


55 陽明文庫

手紙

陽明文庫
12月14日日曜日は「史迹と美術同攷会」の936回目の例会、幹事として「陽明文庫」と「龍安寺」へ47名の方を連れて拝観しました。
朝方雨が降っていたのですが、9時過ぎには上がって、午後には晴天になりました。集合は10時福王子神社境内。全員揃って「陽明文庫」へ。名和修文庫長が、文庫の前で文庫についての説明。その後庫内へ、二階に展示室があります。
この日みなさんにマスク持参を云い忘れ、それぞれハンカチ、マフラー等で口を覆っての見学。カバン等は一階に置きます。入庫と共に蔵にカギがかかって、外には出られないという厳重な管理。それも当然でしょうね。国宝、重文等20万点が二棟のお文庫に納まっているのでからです。冷暖房ありませんので少し寒かったです。47名の人が入って、湿気が気になったのですが、ここは外はコンクート製ですが、内部は5分厚の桐の板で覆われていますので、湿度も温度もあまり変化しないそうです。掛軸の桐箱や着物の総桐たんすに入っているようなものですね。
さて文庫長の説明を聞きながらの見学、まずガラスケースに入った国宝「御堂関白記」、御堂関白とは平安時代の藤原道長966-1028をさします。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠った人ですが、文学を愛し、紫式部や清少納言を庇護しました。今年源氏1000年紀と言われていますが、この世界的文学を最初に読んだのはまさしく道長で、原稿を催促したほどです。
その道長自筆の日記を、硝子ケースを開けてもらって、顔をまじかにひっつけて見られるなんて・・・もともとこの時代の日記は巻物にして、まえもって罫が引かれ、日付がかかれている、今日の当用日記のようなものだったのですね。道長はその日日に数行書き込みをしています。結構間違ったと見えて、上から書きのせたり、消したりの人間味のあるものになっています。また書き込みが多い場合は、裏にも書きこむという芸当をやっています。そのためその部分は裏打ちがされていません。
この部分を文庫長がくるっとひっくり返して見せてくれました。国宝をこんなに簡単に取り扱ってくれるなんて・・・博物館ではありえないことでしょうね。(左に見えるうっすらと映っている書が紙背文字)
ついで、その道長もワクワクしながら読んだ「源氏物語」、紫式部の自筆は世に伝わっていませんが、ここには鎌倉時代写本・重文「源氏物語」54帖があり、展示台の上に開かれています。小色紙くらいの大きさで、最初の頁「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに・・・」が何とか読めます。1000年の時を通して、栄耀栄華を極めた道長と同じ文章を超まじかに読んでいるのかと思うとゾクッときますね。信じられないほど素敵な時間が過ごせました。この貴重な文献を近衛家が1000年のあいだ、応仁の乱や明治維新、太平洋戦争という困難な時期を、多くの幸運もあったでしょうが、次代に残そうとする強い意識が、今の我々にパンドラの箱・宝箱としてもたらしてくれたのですね。(2009.1.1)



54 史迹と美術同攷会

ネズミ
石造美術という分野を創設した川勝政太郎先生は、親父の親友でありました。どちらも今は亡くなっていますが、川勝先生は「史迹と美術同攷会」という史跡や美術を研究し探訪する会を残され、78年続き、935回の見学会と「史迹と美術」という会誌を788号まで発行する、京都では林泉協会と匹敵する会として発展してきました。
私はその間ずーと末席をけがしてきましたが、今回少し余裕ができましたので再びお手伝いすることとなりました。
どうか歴史や古美術、お寺や神社、名所旧跡、そして京都が好きな方、参加しませんか。
会では例会として
119 大徳寺玉林院、真珠庵にまいります。私も久しぶりに参加します。この例会は予約なしで誰でも参加できます。
ついでわたくし担当で、12月14日 京都宇多野の陽明文庫と龍安寺にまいります。陽明文庫は民間の正倉院といえるほど多くの国宝、重文などがありますが、個人的にはいけないところです。今回も人数制限しての見学となりますので、ご予約いただければと思います。


53 印刷博物館

岡山4月のおわり快晴の中、東京文京区にある印刷博物館(Printing museum)に行きました。ここは2000年に凸版印刷100周年事業としてつくられた、印刷の歴史博物館です。出来た時から行きたかったのですが、やっと念願かないました。
お茶の水からモダンな半円錐形の高層建築が見えますので見られた方もあると思います。でもここに博物館があることは御存じないでしょうね。
企業博物館としては北区の王子製紙の「紙の博物館」昔行ったことありますが、ここも飛鳥山に新しく建て直されてからは行っていません。さてかって出版にかかわった身からすると、日本の二大印刷の凸版印刷と大日本印刷にはなじみがありますが、最近はIT産業としても世界有数の会社です。
博物館はさすがに大企業の建てたものですから、内部も素晴らしく、展示も凝っています。印刷の起源としての版画には特に力を入れているみたいです。ユニークなのは博物館の一角にある印刷工房です。今や一般には見ることのなくなった活字を使っての、古い印刷機での印刷をしているガラスで囲まれた印刷の家です。
よくこういう施設では、お年寄りの職人が、懐メロ調にやっているものですが、ここでは若い人や中年の職人が、生き生きと働いています。なにか50年前が現代に生き返った感じの部屋でうれしくなりました。そして企画展が、「1950年代日本のグラフィック」7月までやっています。今から50年前のものなんて古臭い!なんて思ってはいけません。素晴らしいもの、創造的なものはちっとも古くないんですね。昨日作った作品だといわれても納得する力が多くの作品にはありました。永徳でも若冲でも暁斎でも古いなんて感じないのと同じです。
この博物館の問題は交通の便です。どこから行くにしても、結構の距離歩かなければなりません。でも上野駅から東京国立博物館や東京芸大に行く距離の少し多いくらいです。
さて博物館から出て、地下鉄へ行く途中に、かって毎年新刊を出版していた時、新刊書の見本をもって、飯田橋からトコトコ歩いてやってきた「トーハン」がありました。当時は出版全盛の時代です。東京出版販売(トーハン)の担当に、見本の本を渡し、「1000部お願いします」というと、ちらっと見て、500部ひきうけるわー」なんて言われ、次はニッパン(日本出版販売)にいって同じことを言って、注文をもらい、
「あーこれで3000部だせるから、なんとか商売もできた!」それから数カ月、京都のわが社にトラックがつき、ドカッと返品の山・・・これは委託販売という制度がもたらした弊害です。このころから出版過剰が始まり、活字離れが起こり、出版社や本屋が消えだしました。
そして私は、本という大量生産の世界から離れて、一品ずつ作る手作りの世界に入ったのです。
そうそう、印刷博物館では、トッパンと中国の共同企画で「紫禁城」というバーチャルリアリティー映像を上映しています。残念ながら、土日だけの上映でした。(2008.04.26)


52 出版文化

出版綜芸舎東京店「表装ギャラリー拓」を畳んで4カ月になります。いまだに、夕方電話が鳴ると「拓」からの
「今日はこの辺で帰ります」
というスタッフの声が聞こえてくる錯覚をおこします。
そして幾人かの人から、残念ですね、また再開されるのですか?・・
という言葉も頂きます。今の地価から考えるとなかなか大変です。
さて先月、朝日新聞「ニッポン人・脈・記」という記事に、家主さんであった「地方・小出版流通センター」の社長川上氏と「書肆アクセス」店長の畠中さんが出ていました。
幕を閉じた日には多くのファンが来ていて残念がっていたとか。
神保町という日本の本の中心地で、一つの文化ゾーンが閉じる瞬間であったのです。
最近、新聞でいくつか出版についての記事が出ていました。出版文化を守るという消極的で保守的なことでいいのかちょっと疑問に思います。今のニーズに合った出版をもっと積極的に宣伝し、読書の面白さを伝えることが大切ではないかと思います。
出版から少し距離をおき、和の伝統技術の継承と発展に微力ではありますが取り組んでいる、私にはえらそうなことはいえませんが・・・・。(2008.3.16)

51 狛鼠

ネズミ

2008年平成20年戊子の年が始まりました。狛犬ならぬ狛鼠で今年一躍有名になった法然院の傍、哲学の道にある大豊神社に御参りしました。
小さな大豊神社の中にもうひとつ小さな社、ここは大黒主が祀られ、それを守るネズミが、阿吽の形でならんでいます。

偽りを乗り越えて、信の年にしたく 綜芸舎頑張りたく存じます。創業者の父、藪田嘉一郎35回忌、父の年に一歩一歩近づきつつあります。今年は生まれ育った京都のために、少しでも伝統と環境を守りながら仕事をしていけたらと思います。

事始めに「和の工芸シリーズ」大阪、岡山、名古屋で開きますので、ぜひお越しください。(2008.1.1) 関連記事 「掛軸と屏風」戻り橋






50 跡書 表装ギャラリー拓 閉店

アクセス11月26日表装ギャラリー拓・綜芸舎東京店は27年間の歴史を終えました。

これは家主の地方小流通センターの小売部門の書肆アクセスが、近年の書籍離れの影響で閉店されるのに伴い、その一部を借りていた我が「拓」も閉店せざるをえなくなりました。とっても残念です。
27年前1980年当時、亡くなった父の跡を継いだ綜芸舎、当時出版がメインであったので、少しでも多くの人に本を見てもらおうと、地方の本を扱っている地方小流通センターに参加しました。しばらくしてセンターから、店の一部を貸しますがいかがですかとの連絡がきました。
当時地方小流通センターは駿河台下にあったので、本の街の一角に「拓本」のギャラリーと自社の本を置いてみたらどうだろう・・・ということで勇躍東京に乗り込みました。
1年ほどは中国や日本の拓本を展示していましたが、思ったほどは人は来ません。
そこで当時各地で教えていた拓本と裏打ちを教える教室を始めると、少しは人が来るようになりました。
しばらくして拓本より裏打ちや表装を学びたい人の方が多いことがわかりました。
そこで東京では、もしかして全国的にもあまりなかった「表装講座」がスタート。それがなんと27年にも及ぶことになろうとは思いもよりませんでした。
数年のち、地方小流通センターが販売部門を新たに作り、神保町すずらん通に店舗を移すから、二階の一角を使わないかと言われ、そうすれば教室として広く使えることになり、ギャラリーというよりちっちゃなカルチャーセンターに変身しました。
時を同じくして、駿河台にある主婦の友社経営の主婦の友文化センターで表装を教えることになりました。
他に例を見ない講座、特に京都から来た先生だということで、1クラスで始めたら、なんと40人以上の参加があり、超満員、道具の取り合い・・・なんていう状況になり、急遽講座を増やし、木、金、土6クラスに増え、やっと落ち着いて教えられる状況になりました。
当時の思い出は二階のレストランでの昼食時に、向かいのアテネフランセで講座を持っておられた、淀川長治さんと何回かお話しできたことです。
また文化学院のあったおしゃれなマロニエ通を歩けたことです。
この主婦の友文化センターも出版社の都合で10年ほど前に閉鎖され、今は本社として使われています。
廃止後ここの受講生の何人かは「拓」教室に参加されたのですが、今回の閉鎖をとっても残念がっておられました。
結婚する前に受講を始めて、子供が生れた時に少し休んだ後また参加、そのお子さんが今や高校生・・・。
また別の方は、時々子守がてらに連れてきておられた小学生、教室の端で授業が終わるのを待っていたお子さんが、今は大学生、お互いに長いお付き合いでした。
なおこの「拓」を起点に、東京での講座が増え、千葉や新宿、池袋、銀座、二子多摩川、自由が丘などにも進出、教室は10教室、講座は15講座、150人以上、25年で1万人以上の方に京表具を教えた計算になります。
その方々の御顔やお声、仕草が走馬灯のように浮かんできます。
中にはプロの表具師になった方や、表具作家になった方など、教え子が育ったことは私の財産です。
そういえば九州から飛行機で来ておられた女性は今は熊本で先生、北海道から来られていた方は表具師になっておられましたね。
また教室を始めると、道具や材料も必要になり、「拓」はギャラリーというより表装小売店の比重が増していきました。当時は素人に売る店がなくって、随分多くの方に来ていただきました。
ところがバブルがはじけ、表具の需要が減って、表具屋も減って、卸専門の材料店がなりふり構わず小売業に参入、今はとっても厳しい時代になっています。

この20数年、私は私で何回か個展を東急百貨店や鳩居堂でさせてもらい、これも「拓」という拠点があったおかげだと思っています。
長い間、表装ギャラリー拓・綜芸舎東京支舎を御贔屓いただいて有難うございました。20数年の間にお会いした多くの方々、「拓」は無くなりますが、綜芸舎は京都の御所の西で頑張っていきます。また教室は東京を中心にますます充実させていきます。わたしも月2回は東京にまいりますので、これからもよろしくお願いします。

(最後に、店や教室のアシスタントとして来ていただいた女性たち、結婚して子供も生まれ幸せなものや、孫が生まれておばーちゃんになった人、ロンドンで個展をする才媛もいる個性豊かな彼女たち、京男のあーでもなーこーでもない言動に付き合ってくれて有難う!
そしてこれからもよろしく・・・・。)(2007.12.15)



49 跡書 日本建築・デザインの基礎知識

coseマガジンハウス社のライフデザインマガジン「Casa Brutus」9月号で綜芸舎の「古建築細部語彙」が紹介されました。
「書名にややビビるけど、建築家や建築史家向けでなく、あくまでも一般向け。古建築を訪れたり、専門書を読んだりするときに威力を発揮する。難しい図面を排し、テキストのみの直球勝負。」と紹介されました。
本書は27年前の発行ですが、ロングセラーとして今も出ております。

本文は綜芸舎初代の薮田嘉一郎が担当し、写真は薮田夏秋が撮影しました。二人で奈良や京都の名建築を撮影したことが今でも思い出されます。当時は中型と大型のカメラで撮り、自宅で現像、引き伸ばしをし、数字を印画紙に張り込んでいきました。だれにも撮影や現像の技術学ばず独学でやったものですから、試行錯誤の世界でした。
もちろん父の豊富な知識の上に成り立った本書ではありますが、カメラマンでない私の写真がいまでも役立っていると思うとうれしくなります。デジタルカメラを使うようになって、あのカメラ黴がはえているかもしれませんね。(2007.8.13ペルセウス流星群の流れる日



48 跡書 祇園祭

鉾 粽 7月11日京の通りに鉾が建ち始めました。木組みに縄のみで組み立てる伝統技術、この組み立てのおかげで街を巡行して、ゆさゆさ揺れても壊れることがありません。超高層ビルが耐震構造に柔構造を採用する数百年前、京都の町衆は先端技術を使っていたのです。
船鉾の和がみやさんから「ちまき」をいただきました。これで来年まで安泰でいられればいいですね。
今年は京都を舞台にした映画や小説が数多く出ました。
その代表が 宮藤官九郎脚本の
舞妓Haaaan!!!」 喜劇映画のエポックとなる作品です。
そして小説二冊。
鴨川ホルモー
  万城目学著(産業編集センター)
葵祭の日、京大の学生が奇妙奇天烈な世界に巻き込まれ、活躍する物語。途中祇園祭も出てきます。
夜は短し歩けよ乙女
  森見登美彦著(角川書店)
これも京大を舞台に、天然ボケのかわいい乙女と、おくてな先輩の恋物語が、先斗町や古本市を舞台に奇妙奇天烈、台風のごときスピードで展開します。なかでも知合いの古本屋や進々堂がでてきて嬉しくなります。
ところでこの二人の作家、京大法学部と農学部出身です。文学部でないのがミソですね。
舞妓はーーんの小出早織も京都出どすえ。
さて今年の祇園祭、連休で賑やかと思われますが、台風がきそうです。(2007.7.12)
舞妓 本


47 跡書 掛軸入門

掛軸入門 掛軸 1982年今から25年まえ、上棟した本書は、各地の夏秋表装教室の初級テキストとしてずいぶん使われてきましたが、数年で品切れになってしまいました。今回、一部分を訂正して、オンデマンド印刷で再販しました。
和紙の小さな掛軸を作るテキストですが、全編イラストを使って懇切丁寧に書いています。
裂の軸や大きな軸でも基本は同じですので役立ちます。(2007.5.20)




46 跡書 21_21DESIGN SIGHT

ミッド

今月は新美術館の隣にできたミッドタウンの中の「21_21」デザインサイトに行きました。
安藤忠雄と三宅一生のデザインで作られた、新しいデザイン発信の場という触れ込みです。
私の作る表装は、技術と意匠すなわちテクニックとデザインが命です。
ということで期待していったのですが、場所があまり広くなく、企画展中心の場で、いろんなデザインを見たり、資料や図書を調べたりできない、期待していたものではありませんでした。
(2007.4.14)

ところで跡書42「母なのね」原画展があります。ココをクリック



45 跡書
 新美術館と京都国際マンガミュージアム


国美1月21日オープンした六本木の国立新美術館に行きました。国内最大級の展示スペースの新美術館、オープニング記念の「20世紀美術探検」と「日本の表現力」とこの建物の設計者「黒川紀章展」、疲れ果てて一休みをしようと思ったのに、いくつかあるカフェやレストランは満員です。空いていたのは「アートライブラリー」美術専門の図書館ここでやっと休憩できました。でもこのアートライブラリーは役に立ちそうです。
展示スペースとしてオープンしたこの美術館は館蔵品を持たないので、4月からはいろんな団体の貸し会場となりますので、見るのは今のうちだと思ったのです。
屋外から見た新美術館と屋内。三月にはサントリー美術館が隣の元防衛庁にオープン、ヒルズの森美術館と並べてアートトライアングルだそうです。




マンガ
京都国際マンガミュージアムは去年11月オープン、もとは龍池小学校だったのですが統廃合で廃校、改築してミュージアムになったのです。
行ったのは土曜なので子供たちでいっぱいです。ここのマンガは貸し出し自由です。大人も子供も椅子に座ったり、階段に座ったり、校庭は芝生がはってあって、冬の淡い日を浴びながら寝ころんで読んでいる子もいます。こんな静かなミュージアムは珍しいですね。
現在20万点マンガがあり来年には30万点になるそうです。企画展は「世界のマンガ展」、また漫画家による「百人の舞妓」もやっています。教室では昔懐かしい「紙芝居」実演もあり満員でした。
今年の年賀状に使わせてもらった「鳥獣戯画」が日本マンガの原点です。そして今や世界中に日本の漫画が輸出され、どこの国でも「Manga」でとおります。最大の文化輸出です。



跡書 44 「護王神社の亥」

護王明けましておめでとうございます。今年は平成19年丁亥の年です。
綜芸舎から歩いて10分下ったところに鎮座する護王神社は亥の神社です。
ということで12年に一回巡ってくる幸運をこの絵馬が表しています。
元旦お詣りいたしまして、このホームページを覗いていただく方の幸せをお祈りいたします。
護王神社には和気清麻呂が祀られています。奈良時代末、道鏡によって九州に流罪にあった折、刺客に襲われたが、多くの猪に助けられたことで、猪の神社になっととのことです。ご覧のようにここの狛犬は狛亥なんですね。(2007.1.1)




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