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こうして、昭和50年9月25日にワーナーパイオニアから晴れて歌手・西島三 重子が誕生した。三重子が25才の時である。昨今のアイドル歌手がデビューする 年齢は、だんだん若くなる一方で今や十代の半ばが常識となっている。それに較べ たらいささか遅いデビューであったと言えるだろう。ここでちょっとその時代を振 り返ってみると、その5日後に中島みゆきが、ポプコン等にグランプリ優勝を掲げ て華々しくデビューしている。他に同時期に岩崎宏美、大塚博堂らがいる。 普通は歌手になることを夢見てなった人が多い中で、三重子のようなケースは珍 しい。まさか歌手になるなんて考えてもみなかったのに、気がついたら歌手になっ ていたとは運命のいたずらだったかもしれない。 |
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三重子がワーナーパイオニアからデビューし、初の記念すべきファーストLPア ルバムとEPシングルが同時発売された。LPのタイトル名は「風車」とつけられ た。シングルカットはLPの中から「のんだくれ」にするか「池上線」にするかで 意見が分かれたが、結局「のんだくれ」に決定された。この年、三重子はラジオ関 東(現ラジオ日本)で杉本真人氏(作曲家)等と「昨日よりごきげん」という番組 で初めてレギュラーのパーソナリティーを経験する。残念ながらこの番組は半年で 終わってしまった。 その年、「のんだくれ」で第8回新宿音楽祭の7組の新人賞の中に選ばれ、さら に「バンバン」と共に敢闘賞をもらった。この時は事務所、レコード会社でも賞を 取れるとは思っていなかったので、歌い終わると、弾き語りで使っていたギターも マネージャーがケースに収めてしまっていて帰る準備をしていた。そのため発表さ れた時、楽屋は大慌てだったという。 また翌年の第3回横浜音楽祭にも出場し、「池上線」で新人賞5組のうちに選ば れるという快挙を遂げた。 さて、デビューアルバム「風車」に収められた曲にはどことなく演歌っぽいもの が多い。それもそのはず、実は三重子はアマチュア時代、歌手になるより、できれ ば作曲家になりたいと思っていたので、作った曲は、ほとんど自分ではなく他の歌 手を想定して作ったのである。ちなみに「池上線」は野口五郎をイメージして作っ た曲だったという。 |
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昭和51年4月25日、「池上線」はシングルレコードとして発売された。これ は三重子の代表作となった。しかし、「池上線」は発売してすぐに売れたわけでは なかった。じわじわとしみ通るように売れていったのである。それだけに当初、本 人はあまりヒットしたという感じはなかったという。実際、キャンペーンなどで地 方へ行っても「池上線」という曲は知っていても「西島三重子」を知っている人は 少なかったようだ。それが、いつの間にか「西島三重子」の代名詞になっていたの は、カラオケが流行していたことが、その原因の一端を担っているといってもいい だろう。 「池上線」が急激に売れたのではなかったことは、後で考えるとかえって良かっ たのかもしれない。よく、一発屋という言葉がある。1曲のみで次の2曲目が全く 鳴かず飛ばずになってしまう歌手のことである。大ヒットした次の曲がパッとせず にいつの間にか消えてゆく歌手のなんと多いことか。次の曲が問題で真価を問われ るという所以でもあるし、そこが厳しい芸能界で生き残れることができるかどうか の重大な境目なのだ。が、ともあれ三重子は順調な滑り出しであったと言えるだろ う。しかし、その三重子にも、最初の試練が訪れることになるのである。 |
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(元ワーナー勤務で、西島さんとキャンペーンに廻ったことがある大谷さんから・・) 西島さんの本「ヤクシ団欒.・・・」の中にも本人が書かれていますが、レコード会社に入ったばかりでハッピを着てラジカセで「池上線」を大きな音で鳴らしながら神社にお参りをしたり、沿線のレコード屋さんを廻ったりしたのは恥ずかしかったデス。 最近のヒット曲、ヒット・アーチストと違って昔はスタッが作品なりアーチストに惚れ込んで息長くプロモーションてきたので、本人も頑張り永く活躍していられるのかな?などと勝手に考えたりしています。 大谷さんのホームページ |
ここに当時の雑誌「平凡パンチ」に三重子を紹介している記事がある。 「今はやりの女性シンガーソングライターとして売り出した西島三重子だったが、 「池上線」は演歌に近い歌。別れる女のさびしさを歌っている。彼女の歌を歌謡曲 的だと人は言う。しかし、演歌であれフォークであれ、自分で納得できれば歌って ゆく、と彼女はいう。フォークって意味がせまいとも。加山雄三の10年来のファ ン、全ていいとの惚れ込みようだ。また、古賀メロディーにひかれ、つくづく自分 は日本人だと感じるようになったとのこと。何年経っても歌い継がれてゆくような 歌を残すことが、これからの夢である。自分で詩を書いても曲はつけないという。 詩がこわれるからだそうで、まず、曲を作り、作詞家(佐藤順英)との相談で歌が 出来上がってゆく。彼女のきたえられたこぶしが歌に安定感を与えている。」 新人歌手としての三重子は、当初はまず名前と歌を知ってもらわなければならな いので当然のごとくキャンペーンをやらされた。池上線の車内でキャンペーンをや ったり、池上本門寺の境内とか、しかし、三重子はこれには少々面くらってしまっ た。歌うのは好きだったが、人前に出て歌うのは全然慣れていないし、アガリ症の 三重子には何よりも苦痛であった。その三重子も何回かやっているうちに次第に度 胸がすわり、なんとかこなしていた。しかし、他の歌手のように何が何でもヒット させようという貪欲さのない三重子は常にマイペースに活動していった。 |
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