ショスタコーヴィチ:交響曲第7番『レニングラード』

第4章 ロシアより愛をこめて〜マイクロフィルム搬出作戦

 
                   マトリョーシカ

 ショスタコーヴィチの交響曲第7番のスコアがソヴィエトから米国及び英国にどのように送られたか、はたまたその作戦名はなんと呼ばれたか、とついスパイ映画さながらの手に汗握るドラマチックな展開を思い浮かべてしまいます。しかし、その真相はあまりわかっていないようです。関係者によるいくつかの証言はありますが、その情報はかなり食い違っていて、確たる記録が見つかっていないのが現状のようです。

 ここでは、その搬送について詳細を調べた論文 The Flight of the Seventh: The Voyage of Dmitri Shostakovich’s “Leningrad” Symphony to the West by M. T. Anderson から得た情報を元にして、確実と思われる搬送ルートをご紹介したいと思います。

 まず、この曲を西側で演奏させようとする思いつきはどこからきたのか?ドイツ軍に包囲されているレニングラードで無理を承知で演奏の実行を計画したソヴィエト政府の狙いは、レニングラード市民を勇気付けるためだったことはもちろんとして、ドイツ軍の蛮行とレニングラードの窮状やその勇敢な抵抗活動を国内だけでなくとりわけ国外に対して訴えることでした。クイビシェフでの初演のわずか2日後にロンドンの『タイムズ』紙にその記事が掲載されたのも、ソヴィエト側からの積極的な情報提供があったと推測されます。こうした中、ロンドンとニューヨークでこの曲を演奏させようとする企画はソヴィエト政府、スターリン或いはその周辺の決定機関の中枢から出てきても不思議はないと考えられます。

 1941年6月のドイツ軍のロシア侵攻の一周年に合わせてロンドンでショスタコーヴィチの交響曲第7番を演奏させようとする出来すぎとも思えるイベントまでも企画していたのには驚かされます。さらに、ソヴィエトの楽譜出版&レンタル会社であるAm-Rus Company がニューヨークの音楽出版社シャーマーと共同で全米のオーケストラによる『ショスタコーヴィチ週間』なる企画までも検討していました。交響曲第7番の初演を目玉として作曲家の初期の作品や他の管弦楽作品を演奏することをロンドンと同じようにドイツ軍のロシア侵攻の一周年の6月22日頃に演奏するというものでした。しかし、これは譜面の到着のタイミングから難しいと判断されたことや法律上の様々な問題が噴出したことなどから実現されませんでした。

 このロンドンでの離れ業を成し遂げるために必要なその曲の譜面をロンドンに運ぶこと、さらに大西洋を渡ってニューヨークにまで運ぶことが最大の難関として立ちはだかっていました。では、何時、どのように運ばれたのでしょうか?

 1942年3月30日、VOKS(ソ連の芸術家や科学者等が他の国の人々との間の国際的な交流を促進するために組織されたもの)はワシントンD.C.にあるソヴィエト駐米大使館に対して、マイクロフィルムが米国に向けて出発したことを手紙で伝えています。252ページのスコアとパート譜が写真撮影され、100フィートに及ぶマイクロフィルムに焼き付ける作業がどこで行なわれたかの記録はありませんが、おそらくVOKSの本部があり、交響曲第7番が初演されたクイビシェフであったと考えられます。

 この手紙の前日と当日(3月29、30日)に交響曲第7番のモスクワ初演も行なわれていたことからすると、譜面そのものはモスクワにあったことになります。クイビシェフでマイクロフィルム化して原譜はモスクワに送ったとするのが自然ではありますが、7月18日付けの『ニューヨーカー』誌は、米国行のマイクロフィルムはモスクワから鉄路でクイビシェフへ移動したと書いていて、どちらが出発点であったのかはわかっていません。

 なおこの手紙には、初演を望む指揮者には皆そのフィルムから紙にプリントして渡すようにも指示しています。クーセヴィツキー、ロジンスキー、ストコフスキー等がその候補者だったのですが、この時点でソヴィエト側はストコフスキーが最有力候補とみなしていたようです。

 では、マイクロフィルムとはどんなものなのでしょうか。マイクロフィルムはひとことで言うと「重要な文書を撮影し、それをフィルムのかたちにしてコンパクトに保存する」ことです。これは現在も政府機関や図書館(文書や書籍)、多くの製造業(設計図)、とりわけ軍事関係機関で利用されています。重要な書類を、火災、災害や戦争、紙の劣化などから守るために通常は安全な場所に保管されています。マイクロフィルムにすることによって保管場所の大幅な省スペース化ができ、停電やサーバーのクラッシュ、ウィルス攻撃とも無縁でしかもフィルムの寿命は100年から500年とされているために幅広く利用されています。フィルムの形状は、ロール状のもの(幅が16mmと35mm)、アパチャーカードと言われるパンチカードに一枚ずつ埋め込まれたもの、1枚のフィルムに数十コマの被写体を収めたマイクロフィッシュなどがあります。米国では1930年代から実用化が進み、特に軍関係機関ではロールタイプが多く使用されていました。
 
        マイクロフィルム  Oce 3050
     マイクロフィルム(35mm ロール)
     右は現在のマイクロフィルムスキャナ
           (オランダ旧オセ社製アパチャーカードスキャナ、これをプリンタにつなぐ)

 既述の手紙から少し遅れて4月9日に、マイクロフィルムは外交行嚢に入れられて、パンナム機に乗った当時の米国の駐ソ大使ウィリアム・ハリソン・スタンドレイによってクイビシェフを離陸したことになっていました。この大使は、その年の2月に着任したばかりで、元米海軍提督という肩書きの保持者でした。一部の資料ではパンナム機のパイロットが運んだという記述がありますが、それは間違いだそうです。しかし、スタンドレイがどこまでマイクロフィルム持って行ったかはわかっていませんが、クイビシェフを出た飛行機の行き先はテヘランでしたので、おそらくそこのソヴィエト大使館の誰かに手渡しのものと考えられます。実際に搬送の作業を請けたのはVOKSの出先機関と考えられます。芸術を通じて交流を図るというVOKSでしたが、その実態は情報収集活動を行なうことであったとされています。

 5月23日になって、当時駐アメリカ大使館参事官だったアンドレイ・グロムイコが米国務省にマイクロフィルムの行方について質しています。「ソヴィエト大使館はこの音楽を受け取ることに最大の懸念を抱いています。貴省がどこにあるかを見つけ出すために調査を開始されることをここに強く望む次第であります。」つまり、クイビシェフを出たマイクロフィルムがこの時点で行方不明になっていたことになります。この間、米国務省とソヴィエト大使館では呆然自失状態に陥ったのかもしれません。なおこのグロムイコですが、のちに出世して米ソ冷戦時代のソヴィエト外務大臣のポストに28年もの間君臨し、米国をそして世界を翻弄させた人物です。年配の方なら「ミスター・ニエット」のあだ名を思い出されることでしょう。

 直ちに国務省のヨーロッパ問題担当局はパンナム社に調査を依頼します。パイロットは何も荷物を預かっていないし、他のどの乗組員も米国向けの荷物を運んでいないと回答しています。ただ、何か荷物を運んでいることは認識していたようです。

 それにしても、駐ソヴィエトのアメリカ大使自らがテヘランまで運び、その行方を駐米ソヴィエト大使館員が米国務省に調査させるという、ショスタコーヴィチのスコアを収めたマイクロフィルムの扱いはまざに国宝級のVIP並だったことになります。

 『ニューヨーカー』誌(1942年7月18日)には、モスクワから鉄路でクイビシェフへ、空路でテヘランへ、陸路でカイロへ、空路で南アメリカへ、再び空路で米国へと書かれています。しかし、他の報道機関、『ニューヨーク・タイムズ』紙 や 『ボストン・グローヴ』紙などには南アメリカの経由地は書かれていませんでした。
 
         マップ01
 クイビシュフ(現在のサマラ) ⇒ テヘラン ⇒ カイロ ⇒ アクラ & カサブランカ ⇒ ロンドン

 なぜ、わざわざ中東や北アフリカ、南米を経由して運んだのでしょうか。これは当時、世界が第二次世界大戦の最中にあったために最短距離を選んで搬送することができなかったからでした。ヨーロッパを西に向かって飛ぶと敵国や交戦地域の上空を通過しなければならないし、給油も頻繁に行なわなければならいため、真っ先に却下されたことでしょう。シベリア鉄道でウラジオストックへ向かい太平洋を飛行機で渡る案は日本の存在があって外交上も戦略的にも困難とされました。ソヴィエト北方のムルマンスクから北極圏ルートは空も海も悪天候とドイツ軍の存在があって危険と判断されました。

 1941年3月に、フランクリン=ルーズヴェルト大統領の提案によって、アメリカ議会はイギリスなど枢軸国側と戦う国に対して、武器・軍需物資を貸与することを定めた武器貸与法 Lend, Lease Act(レンド・リース法)を施行され、米国から軍事物資や食料などが米国から同盟国へ送られるようになりました。6月に独ソ戦が始まるとその対象をソヴィエトにまで拡げ、これによって戦車や航空機が北海ルートや中央アジアルートでソ連に送られはじめました。もっとも、ソヴィエトがドイツの攻撃に耐えられそうになく、与えた武器がそっくりドイツ軍に奪われるのではないかという懸念もあったようです。

 この時米国からの運送ルートとして海路と空路が開拓されたのでした。米国から船の場合、南大西洋を渡って喜望峰を周り、ペルシャ湾に荷を降ろし、そこからテヘランへはトラック又は列車という海のルート。航空機の場合は、米国から南下して、ブラジルと南大西洋のアンティル諸島で給油してから大西洋を横断し、カイロ、テヘランと飛びます。マイクロフィルムは、まさにこのレンドリース法によって始まった米国からソヴィエトへの物資の流れの逆を辿ったものと考えられるのです。

 イランのテヘランが最初の国外における経由地となったのは、前の年1941年夏からソヴィエトと英国がイラン王室への影響力を強めていたからです。イラン国営鉄道の存在もありますが、これは元々ドイツの企業によって敷設されたもので、これが利用されたことはなかったと思われます。マイクロフィルムがテヘランに到着したちょうどその頃、テヘランのソヴィエト大使館ではカイロへの陸路には民間の運送業者を雇っていたという記録があり、マイクロフィルムもそのように運搬された可能性があると言われています。テヘランからエジプトのカイロに向けてのルートは英国の管轄地域にあたり、自動車で運ばれたとされています。なお、テヘランの前にタシュケント、アシガバートを経由したと記述している資料がひとつだけあります。

 話は逸れますが、ハリソン・フォード主演の映画『レイダース 失われたアーク《聖櫃》』は、このマイクロフィルム搬出作戦の4年前の1938年のカイロを舞台としたドイツ軍と《聖櫃》の争奪戦を繰り広げるアドヴェンチャー物語です。輸送機に《聖櫃》を積んでベルリンを目指すドイツ軍を阻止し、今度はトラックでカイロに運んでからベルリンに空輸しようとするところを主人公インディーは馬で追いかけ、そのトラックごと奪ってカイロで英国向けの貨物船に乗せて出航します。しかし、ドイツ軍のUボートに拿捕されて《聖櫃》は再びドイツ軍の手に落ちます。

 もちろん、実際にはマイクロフィルムの争奪戦などなかったのですが、もしあったとしたらこんな手に汗握る大活劇を繰り広げたのかなと想像するだけでも楽しくなります。この映画の音楽を担当したジョン・ウィリアムズがショスタコーヴィチの交響曲第7番のコラージュを映画音楽の中にこっそり入れてはいまいかと耳を澄ましましたが、残念ながらそれはないようです。なお、ジョン・ウィリアムズが若い頃好きだった作曲家は、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、バルトーク、そしてショスタコーヴィチだったそうです。
    インディー・ジョーンズ カサブランカ カサブランカ
            『インディー・ジョーンズ』 と 『カサブランカ』

 民間の運送業者であったのか軍関係者だったのかは不明ですが、テヘランを出発したマイクロフィルムはエジプトのカイロに到着します。当時カイロには英国の対ロンメル戦車隊の作戦を指揮する総司令部があり、米国は自国の輸送拠点として航空輸送の中心部隊を確保するなどカイロでの存在感を示していました。マイクロフィルムが英国向けと米国向けの2つのパッケージがあったことを語る資料はないようですが(どこかでそうなっていなければ、英国と米国での初演はできなかったはずです。)、もしあったとすると、英国と米国と行き先がここで分かれた可能は十分あると考えられます。或いはカサブランカだったという説も存在しますが、はっきりしたことはわかっていません。

 もしカサブランカにも立ち寄ったとなると、映画『カサブランカ』(1942年製作)でハンフリー・ボガード扮するリックがドイツ軍の目を掠めて昔の彼女と共にマイクロフィルムを飛行機に乗せ、あのトレンチコートを着て飛行場に残るシーンを思わず想像してしまいます。なお、この映画はまさに同じ年の1942年に製作されましたが、ロケ地はモロッコではなくハリウッドでした。一説によるとドイツ軍が各地で優勢だった当時、米国の戦時情報局が主体となった「ホワイトプロパガンダ」と呼ばれる宣伝工作に関連する作品のひとつという見方もあります。つまり、映画を通じて国民の戦意を鼓舞させる意図を持って製作されたという説です。ドイツ軍を故意に悪者に描いているのもそのためとされています。ショスタコーヴィチの交響曲第7番も映画『カサブランカ』も同じ目的でソヴィエト、米国それぞれに利用されたということになります。

 不思議なことに、このマイクロフィルムの西側へのドラマチックな搬送について語る多くの音楽関係書やショスタコーヴィチの交響曲第7番の解説書の中に、英国への搬送についての記述を見つけることができません。英国は米国よりも早く演奏されている、つまり、西側或いは西半球における初演を果たしていて、しかもドイツ軍によるレニングラード包囲一周年記念に合わせた鳴り物入りの企画であり、西側最初のラジオ放送でもあるにもにもかかわらずです。実際はどんなルートで英国に渡ったのかは明らかになっていません。英国から米国に送られたという説、米国から英国に送られたという説などもあるようです。ソフィヤ・ヘーントワの著作 "Voynï " by Sofia Khentova によると、英国ではこのような搬送ルートについての興味は起きなかったとしています。一方米国での騒ぎは、ジャーナリズムによる扇情的で興味本位のセンセーショナリズムといった米国文化特有の現象としています。さすが「紳士の国」英国ということだったのでしょうか。

 当初、英国では6月4日に演奏されることになっていました。ロイヤル・アルバート・ホールにおけるBBCコンサートで、エルガーのコケイン序曲、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番と組み合わせたプログラムでした。しかし、譜面の到着がリハーサルに間に合わなかったために、代わりにショスタコーヴィチの交響曲5番が演奏されました。その後、譜面が到着し、6月29日、ヘンリー・ウッドが指揮するロンドン・フィルハーモニーで西側初となる交響曲第7番のお披露目が実現しました。アルバートホールの席(約8,000席)は売り切れ、ホール内の観客もBBCラジオのリスナーは大いに魅了されたとのことでした。

 米国向けのマイクロフィルムが、カイロからどのようなルートで大西洋岸に出たかの詳細もわかっていません。英国向けはカサブランカ経由の可能性はありますが、米国向けはカサブランカでなかったらアクラであろうと考えられます。これについて、The Music of Dmitri Shostakovich(Roy Blokker and Robert Dearling)によると米国向けの旅程にカサブランカが入っているのは間違いだろうとしています。当時、カイロからの空路として米国がよく使ったのがガーナの首都アクラで、大西洋横断のために西アフリカから飛び立つポイントとして知られていました。アクラは長らく英国の支配下にあって、その西アフリカ植民地の拠点でもありました。
 
 マップ02
              アクラ ⇒ レシフェ ⇒ マイアミ ⇒ ニューヨーク

 大西洋を横断したマイクロフィルムが次に降り立った地は、ブラジル東北部の港湾都市レシフェとされています。1942年5月に間に合わせの滑走路イブラ・フィールドが建設されていますので、よもやこのマイクロフィルのためだったということはなかったとしても、その飛行機が降り立つのにはギリギリ間に合ったことになります。イブラ・フィールドはこの2、3年後には強固な米海軍基地として発展し米国の重要な軍事拠点となっていきます。

 マイクロフィルムは6月23日にブラジルから米国に向けて軍用艦で運ばれたというソフィヤ・ヘーントワの記述があり("Voynï " by Sofia Khentova)、それをソロモン・ヴォルコフ等が引用していますが、どうやらその日付も運送手段も間違いで、実際は米海軍の軍用機で空輸されたことがわかっています。実際、アメリカの土を踏んだのはマイアミと思われますが、そこから米国内をどのように運ばれたのかは不明のままです。国務省のヨーロッパ問題担当局に残る資料によると、ワシントンDCにマイクロフィルムが到着したのは1942年5月30日でした。遠くソヴィエトを出発した2ケ月余りの旅がここで終わりを告げたことになります。マイクロフィルムは直ちにソヴィエト大使館に持ち込まれ、VOKSを通じてAm-Rus Companyの社員によって6月2日にニューヨークへと運ばれました。

 この時、Am-Rus Companyの社員がすんでのところでこのマイクロフィルムが入った箱を失すところだったという話しが伝えられています。その社員がどこかのホテルかレストランでランチトレイの上にその箱を置いたままトイレに行っている間に給仕にトレイごと片付けられて捨てられるところだったとか。一万マイルに及ぶ搬送作戦が情けない結末に終わることころだったことになります。この搬送作戦には尾ひれがついて様々な話しが生まれました。マイクロフィルムを入れた箱は毛布にくるまれ、ショスタコーヴィチがモスクワへのフライトに乗ったときにトイレで受け渡された、他の荷物と共にあやうくシベリアに送られるところだった、レニングラードから飛行機で脱出するソヴィエトを代表する詩人アンナ・アフマートヴァの膝の上でしっかり握りしめられていた、等々。「反革命的」詩人と当局から糾弾されていたアフマートヴァの著書は発禁処分を受けていて、スターリンによる大粛清の犠牲者に奉げた連作長詩『レクイエム』などは紙に残さず、すべて頭の中に記憶させていたとされています。共産党によるスターリン批判後、1958年にようやくその出版の禁が解除されました。

 ニューヨークに着いたマイクロフィルムは早速紙にプリントされましたが、ソヴィエトで撮影されたマイクロフィルムは露光不足であまり見やすいものではなく、ソヴィエトで作成されたパート譜には書き間違いに溢れていたそうです。戦時下の物不足もあって入手できた紙はツルツルでステージの照明にまぶしく反射し、演奏者による鉛筆の書き込みができない紙であったとされています。Am-Rus Companyは昼夜ぶっ通しで作業をして一週間で指揮者用のスコアを、パート譜を7月9日までに完成させました。トスカニーニがNBC交響楽団を指揮するのは7月19日ですから、リハーサルまでわずか10日しかなかったということがわかります。当時のオーケストラのプレーヤーたちには頭が下がります。

 スコアのプリントが出来上がって数日後の6月14日、この時点では誰が最初に指揮をするかは決まっていなかったのですが(NBCとしてはトスカニーニに決めていたかもしれません。)、Am-Rus Company の責任者が交響曲第7番のスコアをトスカニーニに個人的に見せに行きます。トスカニーニはこの曲を指揮することを承諾しますが、その数日後、トスカニーニの息子のワルターが、ストコフスキーも既にこの曲を指揮しようとしているとAm-Rus Companyに不満を訴えてきました。そこでAm-Rus Companyはショスタコーヴィチへ電報を打ち、トスカニーニが振ることのお墨付きを出してもらおうとします(息子のワルターがAm-Rus Companyで電文の原稿を書いたのかもしれません)。すると、ショスタコーヴィチから7月18日付けの返信がVOKSを通して駐米ソヴィエト大使館経由で送られてきました。もちろん、ショスタコーヴィチは英語を話しませんので誰かが訳したものなのですが、その内容はごくありふれた感謝の返信で、指揮者として最も優れた人にこの曲を指揮してもらうことへのお礼と戦争のため米国に行けないことのお詫びが綴られていました。

 この電報はトスカニーニにとってバトル・ロイヤルの競争相手を蹴散らす決定打になりえたのでしょうか。ショスタコーヴィチが電報を打った7月18日は、トスカニーニがこの曲を指揮した前日にあたっていますのでその前日では何の役にも立たなかったと考えられます。しかもパート譜が出来上がった7月10日以降にはリハーサルは既に開始されているはずですから、その時点でトスカニーニが指揮することは確定していたということになります。つまり、その電報は文字通りの感謝とお祝いであって、トスカニーニが振ることの正当性を証明するものではなかったことになります。

 ショスタコーヴィチは海の向こうで指揮台をめぐってドンパチやっていることなど思いもよらなかったことでしょう。ソヴィエトや同盟国のプロパガンダに利用されていることは薄々気付いていたかもしれませんが、自分の作品が海外で演奏されることは嬉しかったのだと思われます。しかし、そのために国家レベルで搬送計画が立てられ、中東、北アフリカ、南米と世界各地で関係者たちが様々な偶然と運に左右されながらマイクロフィルムのバトンリレーを行なっていたことまでは知らなかったのではないでしょうか(少なくともその当時は)。そして、音楽史上、世界規模でこれほどまでに重要扱いにされた作品はショスタコーヴィチの交響曲第7番の他にないことは間違いありません。

 こうして米国にスコアが届いたことによって、米国内での最初のシーズン(大雑把に言って最初の1年間)にこの曲は62回のコンサートで演奏され、1,934もの放送局からラジオ放送されたのでした。(『Leningrad: Siege and Symphony』by Brian Moynahan)




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