ショスタコーヴィチ:交響曲第7番『レニングラード』

第3章 米国初演をめぐるバトル・ロイヤル

 
              ショスタコーヴィチ タイム誌表紙

                       TIME誌の表紙を飾ったショスタコーヴィチ


 この曲の米国初演の翌日付のTIME誌(1942年7月20日)の音楽欄にはショスタコーヴィチの交響曲第7番についての記事が「ショスタコーヴィチと銃」というタイトルで3ページに渡って掲載されています。あの有名な消防隊の帽子をかぶったショスタコーヴィチの絵が表紙を飾った雑誌です。以下にその抄訳をご紹介します。

TIME誌(1942年7月20日)
 ロシアには、「銃が物言うとミューズ(音楽の女神)は沈黙する」という古いことわざがある。この前の冬、レニングラード音楽院の屋根からドイツ軍の迫撃砲の轟音に耳をそばだて、焼夷弾が弾けて燃えていないかを監視している消防隊員ショスタコーヴィチはこう息巻いた。「この地ではミューズは銃と共に口を開く。」と。・・・(中略)・・・今週の日曜日16時15分からNBCの特別番組において、ショスタコーヴィチの交響曲第7番の西半球における最初の放送が行なわれる。・・・(中略)・・・ 先月、5インチ四方に満たない小さい箱が米国に到着した。その中には100フィートに及ぶマイクロフィルムが入っていて、それにはこの曲のスコアが撮影されていた。クイビシェフから空路でテヘランに渡り、さらに陸路でカイロを経て再び空路でニューヨークへとやってきたのだ。その後10日間で、4冊、252ページにも及ぶ紙にプリントされて、スコアとして再現されたのだ。(中断)

 なお、この記事の「ことわざ」は、クイビシェフでの初演の際に配布されたプログラムに掲載されたショスタコーヴィチの文章から引用したもので、「銃が物言う時、ミューズは沈黙を守る。この地ではミューズは銃と共に口を開く。」と続けて書かれていました。「この地」とはレニングラードを指します。このことわざとされる言葉をショスタコーヴィチはよほど気に入っていたらしく、モスクワ初演の際に配られたプログラムにも「大砲が轟音をたてる時、我らのミューズはその無比なる頭をもたげる。誰も我々の手からペンをもぎ取ることはできない。」と書いています。どこか「ペンは剣よりも強し」に通じる言葉ですね。TIME誌の引用を続けます。

 このスコアとして拡大プリントされる前の段階で、米国におけるトップ3人の指揮者、艶のあるプラチナヘアのレオポルド・ストコフスキー、クリーヴランドのアルトゥーロ・ロジンスキー、ボストンのセルゲイ・クーセヴィツキーの3人がこの曲の米国初演に名乗りを上げ、この3人に限定されたかたちで、初演の栄誉をめぐって上品なバトル・ロイヤルが繰り広げられた。しばらくして、クーセヴィツキーが栄誉に一歩近づいたかのように見えた。クーセヴィツキーはスコアを見ることを待たずに、ソヴィエトのエージェントと西半球における最初のコンサートを行なう権利を得るとの契約を締結。彼は、自分が教えるバークシャー・ミュージックセンター・オーケストラが8月14日に演奏することを宣言し、ささやかな勝利を祝った。しかし実際は、クーセヴィツキーより先に演奏する栄誉を掠め取ったのは75歳のマエストロ、トスカニーニだった。この炎とも氷とも言われる老獪なマエストロと呼ばれるあの人だ。トスカニーニはクーセヴィツキーより前の7月19日に演奏することになったのである。

 クイビシェフでリハーサルが始まる前の1月に、NBCはモスクワと西半球での初演の契約を結ぶべく交渉に入り、4月には交響曲第7番を指揮する権利をポケットに収めていたのだ。しかし、その時はまだ誰に指揮させるかは決まっていなかった。当時、NBCはトスカニーニとストコフスキーと契約していた。もし、トスカニーニが振れば、音楽界におけるこの夏の大スクープになる。しかし、5年前に、NBCから要請されたショスタコーヴィチの5番の米国初演をトスカニーニは拒否している。急遽フォトスタットでプリントされたスコアがトスカニーニに届けられ、それを見たトスカニーニは、「実に面白い、人目を引くぞ」と言いさらに、「素晴らしい!」と言った。

 ストコフスキーは期待に胸を膨らませてハリウッドから東海岸にやってきたが、意気消沈して西海岸に戻った。ロジンスキーは既に候補に入っていなかった。NBCは大慌てで演奏に必要なオーケストラの人数拡大を議論し、音符を見ないで記憶で(暗譜で)指揮をする近視のマエストロ・トスカニーニは夜な夜な、きちんと座って鼻をスコアに埋めていたのだった。・・・(以下略)
 

 舞台裏を詳細に取材したドキュメンタリー調でありながら、鋭い人物描写も交えた面白い記事です。これはショスタコーヴィチの交響曲第7番の米国初演にまつわる話の元ネタと思われます。スコアを写したマイクロフィルムをソヴィエトから搬出し、空軍の飛行機まで動員してテヘラン、カイロ経由でロンドンとニューヨークに届けるというスパイ映画さながら作戦は当時の新聞紙上を大いに賑わしたことと思われますが、新聞のゴシップ欄も「誰がこの曲を指揮するか」と盛り上がったことも想像に難くありません。記事に書かれているように、レオポルド・ストコフスキー、クリーヴランド管弦楽団のアルトゥーロ・ロジンスキー、ボストン交響楽団のセルゲイ・クーセヴィツキーの3人がこの曲の米国初演に名乗りを上げたことになっていますが、結果的にはイタリアの巨匠アルトゥーロ・トスカニーニは割り込むかたちで3人を蹴散らし、最終的には、放送初演はトスカニーニ、公開初演はストコフスキー、初録音はクーセヴィツキーと決着したとされています。
 
 しかし不思議なことに、トスカニーニの放送初演以外はその通りにはなりませんでした。

               セルゲイ・クーセヴィツキー
                  セルゲイ・クーセヴィツキー

セルゲイ・クーセヴィツキー
 このバトル・ロイヤルをこのタイム誌の記事は「上品な(polite)」と形容していますが、それはゴシップ誌が騒ぐような金と女が飛び交い、銃が血を吸うといったドロドロしたものではなかったからでしょうか。ロシア系ユダヤ人であったクーセヴィツキーは、1933年にトスカニーニが米国内のユダヤ人音楽家を代表してドイツの民族政策、とりわけユダヤ人音楽家追放策を非難したことに感動してトスカニーニに手紙を送り、「あなたは偉大な音楽家としてだけでなく、偉大な人物として行動されました。これほど自分が音楽家として誇らしい思いをしたことはありません。神のご加護がありますように。」と賛辞を述べています(ニューヨーク公共図書館で展示されたトスカニーニの書簡に関する記事 The New York Times, November 16, 1987)。この記事を読むと、当時68歳だったクーセヴィツキーが尊敬する73歳の先輩マエストロ・トスカニーニに米国初演の栄誉を快く献上するのは当然だったと考えられます。

 1942年1月に早くもクーセヴィツキーは米国初演の権利を得ようと動き始め、主にロシア人作曲家の新しい作品の譜面を米国の演奏家に販売・レンタルするThe Am-Rus Music Company と交渉を開始します。その交渉の中でクーセヴィツキーはこの曲を“future Symphony”と呼んでいたようです。ショスタコーヴィチの交響曲はこの時点では呼び名も分かっていない、まだ完成されていない曲とされていたようでです(実際は1941年12月27日完成)。そのため、クーセヴィツキーは口頭でのコミッションを得たのにすぎなかったのかもしれません。なお、この会社はニューヨークのカーネギーホールの隣にあったそうです。

 クーセヴィツキーがバークシャー・シンフォニック音楽祭において、この曲の西半球最初の公開公演を振るという契約が締結されたということがニューヨーク・タイムズ紙上で報じられています(6月15日付)。この時演奏したオーケストラは当時常任指揮者のポストにあったボストン交響楽団だったとされることが多く、この演奏に若きレナード・バーンスタインが大太鼓奏者として参加していたこともつとに知られています。しかし、実際演奏したのはボストン交響楽団ではありませんでした。

 Christopher H. Gibbsは、ローレル・E・ファーイ編纂の『Shostakovich and His World』の中で、財政的な理由を始めとする諸般の事情でその夏のバークシャー音楽祭は中止となり、その代わりにクーセヴィツキーが「クーセヴィツキー財団」を創立してその資金で学生オーケストラを組織し、バークシャー・ミュージック・センター・オーケストラとしてこの曲の演奏を行なったと書いています。その際、ボストン交響楽団から主席奏者を招いてトレーニングを行なっていますので、ボストン交響楽団員もエキストラとして参加していたことは大いにありえることと思われます。また、学生オーケストラだからバーンスタインが太鼓を叩くこともできたのでしょう。演奏会は8月14日、「ロシア戦争慈善募金コンサート」として開催され、悪天候にもかかわらず5,000人もの聴衆を集めたされています。

 なお、このバトル・ロイヤルでは初録音で決着したはずのクーセヴィツキーが公開公演を行なったのはどうしたことでしょう。しかし、さらに不思議なことにその初レコード録音はこの時どの指揮者によっても行なわれませんでした。クーセヴィツキーによるショスタコーヴィチの作品の録音は、同じ年の1942年2月22日にニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団を指揮したショスタコーヴィチの交響曲5番のライブ録音が残っています。他には交響曲9番のライブ録音が3種(1946年8月10日、11月4日、1947年4月2日)があるのみです。共にライブ録音であって商業録音ではありません。また、これまで調べたところでは交響曲7番の録音はありません。

 いったい何故レコード録音は行なわれなかったのか、これについてはニューヨーク・タイムズ(1994年1月30日付)に説明がありました。

 放送初演と公開初演が行なわれた後、オーケストラの音楽家組合がレコーディングに対して反対の立場を取って、レコーディングのための演奏をストライキすることになったとされています。さらに、戦時中とういことでもあり、こうした「現代もの」の作品を録音しても販売数の見込みが立たないという懸念もあって、メジャーのレコード会社はこの企画から手を引いたのでした。ようやく終戦を迎えてレコーディング・ビジネスが再開されてもこの曲の録音話しは立ち消えとなっていました。1945年のヤルタ会談、ポツダム会談と経て米ソの対立が顕在化してくると、レニングラード包囲期間中はあれほど熱狂的に迎えられたこの曲も、その興味は次第に薄れていき、全米のメジャー・オーケストラのレパートリーからは消えていったのでした。

 米国初演から4年が経過した1946年、降って沸いたかのようにニューヨーク州バッファローでのこの曲の公演と録音が決まります。ニューヨークなどといった大都市ではなく、田舎といっては失礼ですが、有名なナイアガラの滝の最も近い都市バッファローが選ばれました。レコード会社はマイナーな Musicraftsh社が制作を行なうことになり、メジャーから忘れられた曲がここバッファローでついに商業録音が行なわれたのでした。
      ウィリアム・スタインバーグ  スタインバーグ 7番初録音
              ウィリアム・スタインバーグと7番の世界初録音レコード

 指揮者に選ばれたのはユダヤ系ドイツ人のウィリアム・スタインバーグ。1933年にナチスによりフランクフルト歌劇場から追われて演奏活動を制限されたため、当時イギリス委任統治領だったパレスチナに移住し、ヴァイオリニストのブロニスワフ・フーベルマンらと共にパレスチナ交響楽団を設立した人物です。パレスチナ交響楽団を訪れたトスカニーニはスタインバーグの指揮を大いに気に入り、自身のアシスタントとしてアメリカに招き、1938年から1940年までの間、NBC交響楽団を数多く指揮させています。終戦後の1945年にアメリカのバッファロー・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者となりました。

 1946年12月3日、バッファローにあるクラインハンス・ミュージックホールでライブ録音されたこのレコードには、「レニングラード市の門でショスタコーヴィチを攻撃した邪悪な勢力と同じドイツ人に率いられて・・・アメリカ合衆国でやっと安息の地を見出したスタインバーグが世界中を驚かした。彼の演奏から、ショスタコーヴィチへのアーティスックなシンパシーが見出されることは驚くことではない。これは共に深く傷つけられた音楽家にしかわからないものだからである。」と熱のこもったアルバム・ノートが書かれていたとのことです。また、このレコードジャケットには攻撃されて炎上するレニングラードのイラストがさりげなく描かれ、「交響曲第7番」ということが強調されています。「レニングラード」という文字が括弧付きで小さく載っていることが興味深く感じられます。

 ただ、このニューヨーク・タイムズの記事に記載されている情報がおかしなことに、「放送初演はトスカニーニ指揮NBC交響楽団で会場はカーネギーホール、初コンサートはロジンスキー指揮のニューヨーク・フィルハーモニック、初録音はストコフスキー指揮のフィラデルフィア管弦楽団」と書かれています。トスカニーニが指揮した会場はNBCの8Hスタジオであったし、初コンサートはストコフスキーで初録音はクーセヴィツキーのはずだった・・・。当時の各誌ゴシップ欄には様々な決着のパターンが憶測として書き立てられていたと推測することができます。ということは、現在一般的に流布している「放送初演はトスカニーニ、公開初演はストコフスキー、初録音はクーセヴィツキー」という決着は、この様々な報道のひとつを取り上げたのにすぎないもので、それを多くの研究者たちが無批判に引用を重ねただけなのかもしれません。

               アルトゥーロ・ロジンスキー
                  アルトゥーロ・ロジンスキー

アルトゥーロ・ロジンスキー
 「3人のバトル・ロイヤル」と言われながらも、その名前が挙げられて以来、その後どうなったのか全く話題に上がらなくなった指揮者がロジンスキーです(オーストリア領だった頃のウクライナ出身のポーランド人)。しかし、クーセヴィツキーより早く動いたのはロジンスキーでした。1941年11月より前にロジンスキーは米国にあるソヴィエト大使館と交渉を行ない、ショスタコーヴィチの交響曲第5番や『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の米国初演を行なったことを理由に、交響曲第7番の米国初演の権利を得ようとしていました。最終的には駐米ソヴィエト大使コンスタンチン・ユマンスキー(1939年5月11日から1941年5月9日まで在任 )からその口約束を得ていたとされています。

 1933年からロジンスキーはクリーヴランド管弦楽団の音楽監督となり、1935年にショスタコーヴィチの歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』のセミステージ形式でのアメリカ初演を果たしています。ソヴィエトでのこの歌劇の初演の翌年というスピード上演だったことも注目されました。1936年、ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した際にトスカニーニと知り合い、トスカニーニの依頼でNBC交響楽団の練習指揮者を務め、トスカニーニ着任までの間にオーケストラを厳しく鍛え上げたことで知られています。次いで、1938年にショスタコーヴィチの交響曲第5番のアメリア初演も果たしています(4月9日、NBC交響楽団)。これはトスカニーニが演奏を拒否したためでした。

 こうしたショスタコーヴィチのとの関わりもからも交響曲第7番の米国初演に対して食指が動いたことは想像に難くありません。しかし1942年には50歳だったロジンスキーは、アメリカでの活躍の場を提供してもらった恩義のある73歳になる老マエストロ・トスカニーニがショスタコーヴィチの交響曲第7番を指揮することになっても、異論はなかったのかもしれません。10月18日にロジンスキーがクリーヴランド交響楽団を指揮したこの曲の演奏会の模様はラジオ放送されています。また、12月3日にカーネギーホールでニューヨーク・フィルハーモニックを指揮してこの曲を演奏しています。


     レオポルド・ストコフスキー   グレタ・ガルボとストコフスキー
              レオポルド・ストコフスキーとグレタ・ガルボ

レオポルド・ストコフスキー
 映画『オーケストラの少女』(1937年)、『ファンタジア』(1940年)などの映画に出演してクラシック音楽の普及に貢献したことで知られている指揮者ストコフスキーはこのバトル・ロイヤルでは優位な位置にありながら、意外にもショーマンとしての実力を発揮することもなくあえなくトスカニーニに栄冠の座を譲ることになります。

 ロシア系楽譜レンタル会社を抑えたクーセヴィツキー、ロシア大使を抱き込んだロジンスキー、いずれも指揮者自身が主導的に動いたのですが、企業が主体となってロシアに直接アプローチを行ない、最終的にその権利を取得したのが米国三大ネットワークのひとつNBC(National Broadcasting Company)でした。1942年3月5日、ソヴィエトのクイビシェフでショスタコーヴィチの交響曲第7番が世界初演され、3月29, 30日にモスクワで再演されたという情報が賞賛をもって米国内で報道されると、当時NBC交響楽団の主席指揮者であったストコフスキーは直ちにNBCに対して米国初演の権利を得るよう依頼しました。NBCはその月のうちにモスクワのエージェントを通じて「外国との友情と文化的関係のためのソヴィエト社会連合(All-Union Society for Cultural Relations with Foreign Nations =VOKS)」とコンタクトを取り、米国初演の権利の承認を得ます(3月25日)。

 この組織はソ連の芸術家や科学者等が他の国の人々との間の国際的な交流を促進するために組織されたもので、ソヴィエトのプロパガンダ活動や海外での情報収集なども行なっていたとされています。VOKSは「米ソの文化交流を目指す優遇措置」として決定し、NBCによる金銭的な義務はなかったとされています。楽譜レンタル会社、ロシア大使、プロパガンダ組織の3者によって別個に承認された米国初演の権利ですが、結果的にはVOKSの決定が優先されることになりました。プロパガンダを目的とするのであれば放送局を利用した方が最も効果的と考えられたからと思われます。

 なお、ロジンスキーが接触したロシア大使はその直後にモスクワに異動していますので、ロジンスキーは早々にバトル・ロイヤルからは脱落していたことになります。新任の大使マクシム・リトヴィノフがVOKSと深い関係にあったこともロジンスキーの頼みの綱がその時点で失われたことを意味していました。その知らせを電話で受けたロジンスキーは大声で怒鳴り、受話器を叩きつけたと伝えられています。但し、その時はまだトスカニーニに決まっていなかったか、或いはトスカニーニ自身まだバトル・ロイヤルに参加していなかった時期のことではないかと思われます。

 ストコフスキーは前年の1940年にフィラデルフィア管弦楽団とショスタコーヴィチの交響曲第6番の米国初演を果たしていて(それ以前に第1番、第3番の米国初演も指揮。)、当時はNBC交響楽団の主席指揮者でもありました。一方のトスカニーニはショスタコーヴィチの交響曲第1番の演奏経験が3回あるきりで(1931年にニューヨーク・フィルハーモニック、1937年にBBC交響楽団、1939年にNBC交響楽団)、しかも、1938年にNBCから要請されたショスタコーヴィチの5番の米国初演を拒否していたのでした。さらには、1941年にはNBC交響楽団の主席の座を降りていたこともあり、この状況では誰が考えても、ストコフスキーが最適な指揮者であったことは明白だったと思われます。

 しかし、トスカニーニが5番の演奏を拒否した1938年頃と1942年では世界の情勢は大きく変わっていたのでした。ナチス・ドイツがイギリス、フランスに宣戦布告してポーランドに侵攻したのは1939年9月と10月。1941年12月には米国の参戦と、米国民の関心は国際政治問題に向かい、打倒ナチス・ドイツと国民意識を高めていました。ところが、当時のストコフスキーはハリウッド女優グレタ・ガルボとのロマンスもあって芸能、ゴシップ欄で大いに浮名を流していた頃でした。そのネーム・バリューの高さは絶大ではありましたが、この時期の話題としてはストコフスキーではピントがずれている、メディア的な効果を挙げるのは難しいと考えられ、国を代表する放送局のイメージアップを図る上でもメリットがないと判断されたと考えられます。反ナチスという旗印を掲げるプロパガンダにとっても、音楽界における世界的なスターであり、しかもファシスト嫌いの熱血漢トスカニーニにこのイベントを振らせる方があらゆる面で効果的であると判断されたということになります。

 トスカニーニの手紙(後述)に素直に応えたのか、経営側のビジネス・ライクな方針に従ったのか、その真相は分かっていませんが、結果的にストコフスキーはすごすごと西海岸の家に帰ったことになっています。しかし、ストコフスキーはこれにめげることもなく、同年12月13日には同じNBC交響楽団をカーネギーホールで振ってこの曲を演奏し、放送録音もされています(4番目のラジオ放送)。また、1943年1月8日には9,300人という大観衆の前でサンフランシスコ交響楽団とこの曲を演奏して鬱憤を晴らしています。

 さらに、ストコフスキーはカルフォルニアの砂漠に集結した北アフリカへの出征を控えた20,000人の戦車部隊の前でこの曲の短縮版を指揮することになっているとも報じられています(Los Angeles Times 1942年9月27日)。そのイベントでハリウッドの人気俳優エドワード・G・ロビンソンが登場して次のように曲を紹介しています。「この曲はひとりの兵士によって作曲されたのです。そのロシアの兵士は今回の戦争で最大の戦闘のひとつになっているレニングラード包囲戦で戦っています。その戦いはまだ続いていて、その兵士、ドミトリ・ショスタコーヴィチはまだそこにいるのです。」と。兵士たちを鼓舞するためにこの曲は大いに利用されたのでした。ショスタコーヴィチは兵士ではないということも、既にレニングラードを脱出しているという事実も伏せられていたことになります。なお、この時、兵士たちは大人しく聴いてはいなかったようです。退屈しておしゃべりを始める者もいたようで、第1楽章の途中でストコフスキーは演奏を中断して、「諸君、まだ続けるかね?」と怒鳴ったとも伝えられています。この話を聞くとややホッとしますね。


                オーマンディとショスタコーヴィチ
                ユージン・オーマンディとショスタコーヴィチ

ユージン・オーマンディ
 フィラデルフィア管弦楽団の主席揮者オーマンディも米国初演の候補の1人だったことはほとんど知られていません。1941年の9月の時点で駐米大使コンスタンチン・ユマンスキー( Konstantin Oumansky )と接触を持っていたという情報がありますが詳細はわかっていません。大使はその後ロジンスキーと話を進めていますので、オーマンディの出番はなくなったと考えられます。メジャー・オーケストラの中にあって、フィラデルフィア管弦楽団がこの曲を取り上げたのはやや遅い方で、1942年11月27、28日になってようやくオーマンディの指揮で演奏されました。初日の演奏は放送もされていて、これは、トスカニーニ、ロジンスキーに次ぐ3番目の放送となり、交響曲第7番先陣争いの一角を十分アピールしていることになります。なお、オーマンディは後にショスタコーヴィチの交響曲第4番、13番、14番、15番、チェロ協奏曲第1番の米国初演を成しえていますので、7番の仇討ちは立派に果たしたと言えるのではないでしょうか。

 このオーマンディの演奏に対して、28日にフィラデルフィアのメディアに書かれた批評ではその評価が二分されました。「戦場で苦闘する勝利を確信するソヴィエトの人々をリアルタイムに描いている。驚くべき巨大な作品で大いに感動させられた。」と絶賛するものと、「(ショスタコーヴィチの)交響曲第5番に劣り、チャイコフスキーのイミテーション、すなわち大序曲『1812年』、交響曲第4、第5交響曲の引用ばかりか、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『英雄の生涯』、シベリウスの交響曲第5番の第2楽章を示唆する箇所があり、既に報じられているようにラヴェルの『ボレロ』との類似がある。」という批判を浴びせ、「もしプログラム・ノートの解説や作曲当時のドラマティックな状況を知らなかったら、音楽そのものについての興味は惹かれるが、それ以上のものではない。」と手厳しいものでした。

       アルトゥーロ・トスカニーニ アルトゥーロ・トスカニーニ ショスタコーヴィチ7番
              アルトゥーロ・トスカニーニと7番のCDジャケット

アルトゥーロ・トスカニーニ
 バトル・ロイヤルを制して、ショスタコーヴィチの交響曲第7番の米国での最初の指揮者となったのはトスカニーニでした。この米国初演を伝えるTIME誌には「ノン・ストップで演奏された73分後、アルトゥーロ・トスカニーニはあたかもレニングラードの包囲を通って来たかのようであった。聴衆はあたかも、ナチスの敗北のニュースを聞いたかのように、飛び上がって歓声を上げた。何千人ものラジオのリスナーは、その多くは雑音との勝ち目のない戦いをした後、ため息をつき、そしてダイヤルを回わして勝ち目のない戦いに挑んだ。」と書かれています。当時のラジオ受信の苦労が偲ばれる記事でもあります。

 1942年7月19日、ショスタコーヴィチの交響曲第7番はトスカニーニが指揮するNBC交響楽団によって演奏され、全米に放送されました。会場はニューヨークにあるNBCの8Hスタジオでした。この時収録された音源はLPレコードとして後に発売されていますが、曲の終了後には盛大な拍手が収録されています。つまり、公開録音だったということになります。入場料は取っていなかったかもしれませんが、聴衆がいたことになりますので、放送初演であり、公開演奏だったと言えなくもありません。

 イタリアからやってきたトスカニーニは、独裁者を激しく嫌悪し、独裁者たちの犠牲となった人々の味方であることを常に表明してきました。当時の指揮界にあって頂点を極めていたトスカニーニは、ナチスに支配されていたバイロイトやザルツブルクの音楽祭への出演を拒否し、ムッソリーニが支配する祖国イタリアを離れて米国に来ていたのでした。まさに反ファシズムの象徴でもあり、アドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニと関わることを断固拒否し続けた存在でもありました。

 ナチス・ドイツに包囲されているレニングラードで作曲された曲の存在を知ってなんとしてでも自分の手で最初に演奏したいと思い、さらにこれによって自らの主張を高らかに歌い上げたいと考えたのは容易に想像がつきます。当時のトスカニーニの行動を見ると、いかに積極的に戦争や政治に関わっていたかがわかります。1943年7月、ムッソリーニが失脚し、9月にイタリアが降伏すると、トスカニーニは、ベートーヴェンの交響曲第5番(5=V=ビクトリー)、ロッシーニの『ウィリアム・テル』序曲(圧政からの開放を象徴)、『ガリバルディ賛歌』(イタリア統一運動の歌)、アメリカ国歌を指揮しています。同年10月にはナチスと戦うソヴィエトにエールを送り、当時のソヴィエトの国歌「インターナショナル」を含むロシア音楽(リャードフ、グリンカ、カリンニコフ)のプログラムを振ります。同じく12月には、米国戦争情報局の要請によるプロパガンダ映画の撮影協力を行ない、ヴェルディの『運命の力』序曲、諸国民の讃歌、「インターナショナル」及びアメリカ国歌を指揮します。1945年のドイツ降伏時にはベートーヴェンの交響曲第5番、日本が降伏した時はベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』とアメリカ国歌を演奏しています。


 しかし、こうした行為は当時の世界情勢の中では英雄的行為に見えますが、平和な現代から見ると「いい年寄りが」とつい言いたくもなります。ストコフスキー宛の手紙を見るにしても、その振りかざした大義よりも大きなものをトスカニーニは失ったのではないかと思えてなりません。功成り名遂げた老指揮者だけに栄誉に目が眩んだその姿を見るととても残念でなりません。最後の花道を飾れるよう周囲から乞われて指揮棒を取ったのであればよかったのですが、トスカニーニは指揮者を引退するまでこのあと12年も活動しましたから花道には早すぎますね。問題はその後のトスカニーニが取ったショスタコーヴィチの作品への態度です。

 トスカニーニはNBC交響楽団との米国放送初演を行なった後、1942年10月14、16、18日にニューヨーク・フィルハーモニックを指揮してショスタコーヴィチの交響曲第7番を演奏していますが、これがこの曲を振った最後の公演となりました(このうち10月18日の公演はラジオ放送されています。)。それ以降はレパートリーからこの曲は外しています。トスカニーニがストコフスキー宛の別の手紙には「私はショスタコーヴィチの音楽を賞賛はしているが、君のような熱狂的な愛情は感じられない。」とも書いているのです。これがトスカニーニの真意だったとしたら、音楽家の良心として、そんな指揮者に米国初演をさせたこと自体が大失態だったということにならないでしょうか。この交響曲第7番の演奏の前にトスカニーニは交響曲第5番の米国初演を断ったことは既に述べました。確かに彼の得意とするレパートリーとしては、自国イタリアの作品は別として、ベートーヴェン、ブラームスが筆頭に挙がり、全体的に保守的傾向がありますので、ショスタコーヴィチの作品は好まないだろうとは容易に想像はつくところではあります。

 後になって、この曲のスコアを見てトスカニーニはこう言ったとされています。「わしは本当にこの曲を振ったのか?この交響曲を暗譜するのに2週間使ったか?そりゃ信じられない。私はバカだった。」、さらには、「このがらくた(junk)同然の曲を勉強して指揮をしたなんてマジ(really)か?」とも言ったとされています(『Shostakovich Reconsidered』 by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov p.110)。

 トスカニーニがこの曲の演奏に駆り立てたのは単にこの曲の「反ファシズム」的なところだけだったということが良く分かります。また、交響曲第7番の譜読みをした時トスカニーニは75歳であり、ベートーヴェンやブラームスの曲にはない拍子がめまぐるしく変わる箇所が満載されているこの曲を振ることの困難さは想像に難くありません(例えば第1楽章では7/4, 10/4, 13/4と推移します。)。しかも元々極度の近視で、譜面台に置いたスコアは見えなかったため本番もリハーサルも暗譜で指揮するのが常であった彼にとって、70分を越すこの曲を暗譜するなんて狂気の沙汰だったはずです。

 最後に、作曲者のショスタコーヴィチ自身のトスカニーニ評をご紹介します。偽書とも言われていますが、発言そのものは真実性があると思われる『ショスタコーヴィチの証言』(ソロモン・ヴォルコフ著)からの引用です。

 「私はトスカニーニを憎んでいる。・・・レコードではかなり多くのものを聞いている。・・・彼は・・・音楽をカツレツのように細かく切り刻み、それから甘ったるいソースを振りかけている。・・・トスカニーニは第7交響曲のレコードを送ってくれたが、それを聞いたとき、わたしはひどく腹が立ってならなかった。なにもかも、精神も性格も、テンポも、すべて間違っているのだ。それは不快でぞんざいな、やっつけ仕事である。わたしはトスカニーニに手紙を書いて、そのことについて自分の意見を述べた。その手紙を受け取ったかどうかは知らない。」

 トスカニーニのリハーサルでの厳しさはつとに知られていますが、ショスタコーヴィチはそのことについても嫌悪を抱いていたようで、米国での自作の初演をしてくれた指揮者に対してはずいぶんと手厳しい批判をしていたのには驚かされます。ひどい演奏だと腹の中では思っても、社交辞令くらいは送ってもいいのに、わざわざ手紙で文句を言ったのですから、よほど腹が立ったのでしょうか。それとも米国における初演競争に浮かれる指揮者たちに嫌気がさしていたのでしょうか。


 数年前にショスタコーヴィチのオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が、米国で初演されたときショスタコーヴィチはその演奏にゆるぎない信頼を表明しています。もっともその演奏の録音を聴いたのではないと思われますので、これは社交辞令だったかもしれませんが、米国での初演競争に呆れていたのではなかったのだと思われます。実はこの時、フォラデルフィア管弦楽団のストコフスキーとクリーヴランド管弦楽団のロジンスキーが初演を争ったとされています。後者が勝利したのですが、このふたりは交響曲第7番の初演競争にも再び参戦することになります。


             ミーシャ・ミシャコフ
                   ミーシャ・ミシャコフ

コンサートマスター
 話しは逸れますが、ここでショスタコーヴィチの交響曲第7番を米国で最初に演奏したコンサートマスターについてご紹介します。トスカニーニが行なったこの曲の米国での放送初演の時に演奏したNBC交響楽団のコンサートマスターは誰だったかについて直接示している資料は今のところ見つかっていません。しかし、この期間にそのポストにいた人物はわかっています。

 この時のNBC交響楽団のコンサートマスターはウクライナ(西ウクライナにあるフメリニツキー)のユダヤ人村出身のミーシャ・ミシャコフ(Mischa Mischakoff)というヴァイオリニストです。ペテルブルク音楽院を卒業後、ペトログラード交響楽団、ボリショイ劇場、ワルシャワ・フィルハーモニーなどのコンサートマスターを経てアメリカへ脱出します(1921年)。渡米後は、ニューヨーク・フィルハーモニー(1920-1927)、フィラデルフィア管弦楽団(1927-1930)、シカゴ交響楽団(1930-1937)のコンサートマスターを歴任し、1937年からNBC交響楽団のコンサートマスターとなり、この「レニングラード」の名を冠した曲の米国における歴史的初演に立ち会うことになったのでした。もっとも、初演当時この曲は単に交響曲第7番とされ、「レニングラード」タイトルはついてはいませんでした。

 ペトログラードがレニングラードに改名されるのは1924年ですので、ミューシャ・ミシャコフはペトログラードの時代からレニングラードになる時期にその街で学び、卒業後もその街を中心にして演奏活動を行ない、トップクラスのオーケストラのコンサートマスターを歴任していたヴァイオリニストと言えます。ソヴィエトを脱出して20年近く経過してはいますが、自分が学び、活躍したレニングラードの街がドイツ軍に包囲され、多くの犠牲者が出る中、その地で作曲された同国の作曲家の交響曲を、異国の地で演奏することになったミシャコフの心中はいかばかりであったでしょうか。いずれにせよあらゆる観点から彼ほどの適任者は他にいなかったと言えます。

 ミシャコフの生まれたウクライナのフメリニツキーは、1941年9月のドイツ軍によるユダヤ人大虐殺が起きたバビ・ヤール渓谷から西南西約270キロ離れています。ミシャコフがこの事実を知るのはずっと先のことだったと思われますが、この虐殺から1年もたたない時期にショスタコーヴィチの交響曲第7番を演奏したというのは、歴史の偶然というべきでしょうか(だぶんショスタコーヴィチも知らなかった。)。ミシャコフはショスタコーヴィチの交響曲第13番『バビ・ヤール』(1962年初演)を演奏したかどうかも知りたいところですが、この曲が米国初演されたのは1970年で(オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団)、ミシャコフは1969年までボルチモア交響楽団のゲスト・コンサートマスターを務めていてその後コンサートマスターからは引退しています。この状況からは『バビ・ヤール』を演奏したということはなさそうです。

 なお、ミシャコフはレオポルド・アウアー門下生でもあり、米国へ渡る時はチェリストで友人のグレゴール・ピアティゴルスキーと一緒でした。所有していた楽器はストラディヴァリウスの1716年製の「ブース」などで、現在その「ブース」はアラベラ・美歩・シュタインバッハーが使用しています。ミシャコフはコンサートマスターとして活動するほか、ソリスト、弦楽四重奏団の一員としても演奏を行なっていて、さらにはジュリアード音楽院でも教鞭を取るなど幅広い活動をしていました。彼のソリストとしてのレコード録音は、トスカニーニの指揮でブラームスの二重協奏曲、ハイドンの協奏交響曲、ピアニストのグレン・グールドと共演したブランデンブルグ協奏曲などが残っています。

 ショスタコーヴィチの交響曲7番初演の6年後、1948年4月17日のNBC交響楽団の演奏会の模様が YouTube にアップされています。曲はリムスキー=コルサコフの『シェヘラザード』で、ミシャコフの素晴らしいソロを聴くことができます。

Erich Leinsdorf Dirige NBC symphony Orchestra 17 aprile 1948 Gluck e Rimsky Korsakov Scheherazade



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