セルゲイ・クーセヴィツキー
このバトル・ロイヤルをこのタイム誌の記事は「上品な(polite)」と形容していますが、それはゴシップ誌が騒ぐような金と女が飛び交い、銃が血を吸うといったドロドロしたものではなかったからでしょうか。ロシア系ユダヤ人であったクーセヴィツキーは、1933年にトスカニーニが米国内のユダヤ人音楽家を代表してドイツの民族政策、とりわけユダヤ人音楽家追放策を非難したことに感動してトスカニーニに手紙を送り、「あなたは偉大な音楽家としてだけでなく、偉大な人物として行動されました。これほど自分が音楽家として誇らしい思いをしたことはありません。神のご加護がありますように。」と賛辞を述べています(ニューヨーク公共図書館で展示されたトスカニーニの書簡に関する記事
The New York Times, November 16,
1987)。この記事を読むと、当時68歳だったクーセヴィツキーが尊敬する73歳の先輩マエストロ・トスカニーニに米国初演の栄誉を快く献上するのは当然だったと考えられます。
1942年1月に早くもクーセヴィツキーは米国初演の権利を得ようと動き始め、主にロシア人作曲家の新しい作品の譜面を米国の演奏家に販売・レンタルするThe
Am-Rus Music Company と交渉を開始します。その交渉の中でクーセヴィツキーはこの曲を“future
Symphony”と呼んでいたようです。ショスタコーヴィチの交響曲はこの時点では呼び名も分かっていない、まだ完成されていない曲とされていたようでです(実際は1941年12月27日完成)。そのため、クーセヴィツキーは口頭でのコミッションを得たのにすぎなかったのかもしれません。なお、この会社はニューヨークのカーネギーホールの隣にあったそうです。
Christopher H. Gibbsは、ローレル・E・ファーイ編纂の『Shostakovich and His
World』の中で、財政的な理由を始めとする諸般の事情でその夏のバークシャー音楽祭は中止となり、その代わりにクーセヴィツキーが「クーセヴィツキー財団」を創立してその資金で学生オーケストラを組織し、バークシャー・ミュージック・センター・オーケストラとしてこの曲の演奏を行なったと書いています。その際、ボストン交響楽団から主席奏者を招いてトレーニングを行なっていますので、ボストン交響楽団員もエキストラとして参加していたことは大いにありえることと思われます。また、学生オーケストラだからバーンスタインが太鼓を叩くこともできたのでしょう。演奏会は8月14日、「ロシア戦争慈善募金コンサート」として開催され、悪天候にもかかわらず5,000人もの聴衆を集めたされています。
ロシア系楽譜レンタル会社を抑えたクーセヴィツキー、ロシア大使を抱き込んだロジンスキー、いずれも指揮者自身が主導的に動いたのですが、企業が主体となってロシアに直接アプローチを行ない、最終的にその権利を取得したのが米国三大ネットワークのひとつNBC(National
Broadcasting
Company)でした。1942年3月5日、ソヴィエトのクイビシェフでショスタコーヴィチの交響曲第7番が世界初演され、3月29,
30日にモスクワで再演されたという情報が賞賛をもって米国内で報道されると、当時NBC交響楽団の主席指揮者であったストコフスキーは直ちにNBCに対して米国初演の権利を得るよう依頼しました。NBCはその月のうちにモスクワのエージェントを通じて「外国との友情と文化的関係のためのソヴィエト社会連合(All-Union
Society for Cultural Relations with Foreign Nations
=VOKS)」とコンタクトを取り、米国初演の権利の承認を得ます(3月25日)。
さらに、ストコフスキーはカルフォルニアの砂漠に集結した北アフリカへの出征を控えた20,000人の戦車部隊の前でこの曲の短縮版を指揮することになっているとも報じられています(Los
Angeles Times
1942年9月27日)。そのイベントでハリウッドの人気俳優エドワード・G・ロビンソンが登場して次のように曲を紹介しています。「この曲はひとりの兵士によって作曲されたのです。そのロシアの兵士は今回の戦争で最大の戦闘のひとつになっているレニングラード包囲戦で戦っています。その戦いはまだ続いていて、その兵士、ドミトリ・ショスタコーヴィチはまだそこにいるのです。」と。兵士たちを鼓舞するためにこの曲は大いに利用されたのでした。ショスタコーヴィチは兵士ではないということも、既にレニングラードを脱出しているという事実も伏せられていたことになります。なお、この時、兵士たちは大人しく聴いてはいなかったようです。退屈しておしゃべりを始める者もいたようで、第1楽章の途中でストコフスキーは演奏を中断して、「諸君、まだ続けるかね?」と怒鳴ったとも伝えられています。この話を聞くとややホッとしますね。
ユージン・オーマンディとショスタコーヴィチ
ユージン・オーマンディ フィラデルフィア管弦楽団の主席揮者オーマンディも米国初演の候補の1人だったことはほとんど知られていません。1941年の9月の時点で駐米大使コンスタンチン・ユマンスキー(
Konstantin Oumansky
)と接触を持っていたという情報がありますが詳細はわかっていません。大使はその後ロジンスキーと話を進めていますので、オーマンディの出番はなくなったと考えられます。メジャー・オーケストラの中にあって、フィラデルフィア管弦楽団がこの曲を取り上げたのはやや遅い方で、1942年11月27、28日になってようやくオーマンディの指揮で演奏されました。初日の演奏は放送もされていて、これは、トスカニーニ、ロジンスキーに次ぐ3番目の放送となり、交響曲第7番先陣争いの一角を十分アピールしていることになります。なお、オーマンディは後にショスタコーヴィチの交響曲第4番、13番、14番、15番、チェロ協奏曲第1番の米国初演を成しえていますので、7番の仇討ちは立派に果たしたと言えるのではないでしょうか。
後になって、この曲のスコアを見てトスカニーニはこう言ったとされています。「わしは本当にこの曲を振ったのか?この交響曲を暗譜するのに2週間使ったか?そりゃ信じられない。私はバカだった。」、さらには、「このがらくた(junk)同然の曲を勉強して指揮をしたなんてマジ(really)か?」とも言ったとされています(『Shostakovich
Reconsidered』 by
Allan B. Ho and Dmitry Feofanov
p.110)。