ショスタコーヴィチ:交響曲第7番『レニングラード』

第1章 曲の成立と初演

 
           ショスタコーヴィチ サッカー

サッカーの観戦を楽しむショスタコーヴィチ


『ムツェンスク郡のマクベス夫人』
 交響曲第7番の成立について考察するにあたり、1930年代におけるショスタコーヴィチの作曲活動を振り返ってみましょう。1930年から1932年にかけて作曲したオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が1934年1月22日に初演されます。初演当時は大好評を博し2年間で83回の上演を記録、ショスタコーヴィチの作曲家としての地位は揺るぎないものとなりました。しかし、1936年1月26日に、スターリンと側近たちがこのオペラを観に行ったところ途中で帰ってしまうという事態が発生します。その2日後のソヴィエト共産党中央委員会機関紙『プラウダ』に匿名の論説が掲載されてソヴィエト芸術界に衝撃が走ることになります。ショスタコーヴィチの作品はこの上なく下品で社会主義リアリズムを欠くブルジョワ・形式主義的な音楽であると糾弾されたのでした。ショスタコーヴィチは、ソヴィエト若手作曲家の中でもっとも輝けるスターの座から、文化を堕落させる有害人物というどん底に一夜にして引きずり下ろされたのでした。


交響曲第4番
 『ムツェンスク郡のマクベス夫人』に次いでショスタコーヴィチが取り掛かったのは交響曲第4番です。その「プラウダ批判」が出る前の1935年9月13日から作曲が開始され、「プラウダ批判」が出てから4ケ月後の1936年5月20日に完成されました。シベリア送りどころか銃殺されてもおかしくないところまで追い詰められにいたわりには、その4ケ月の間筆を止めず完成させているのはタフというか超然としているのか何とも興味深いところです。

 しかし、交響曲第4番は「ショスタコーヴィチが過去の批判を無視して、形式主義がぎっしり詰まった、とてつもなく難解な交響曲を書いた」という噂が広まっていて、リハーサル中にオーケストラ側からの演奏拒否もあり、初演は中止となってしまいました。「たとえ完璧に演奏されたとしても、この堂々としたマーラー派の作品は形式主義の典型であり、党の慈悲深い指導に対する、傲慢な挑戦行為であると思われたことに、疑問の余地はない。(『ショスタコーヴィチ ある生涯』ローレル・E・ファーイ)。」結局、この作品は1961年に初演するまで封印されることになります。ショスタコーヴィチの作曲の仕方からすると「プラウダ批判」が出る前には頭の中ではすべて出来上がっていたと推定すると、その批判の影響は曲に反映されていないものだった考えると、その噂はある意味正しかったとも言えます。

 なおこの5月、指揮者のオットー・クレンペラーがプラハ、ブダペスト、モスクワと演奏旅行を行なった際にショスタコーヴィチに会っています。その時、ショスタコーヴィチがピアノでこの曲をクレンペラーに弾いて聴かせていて、クレンペラーはこの曲を南アメリカで演奏することを誓ったとされています。なぜ「南アメリカ」と言ったのかは不明ですが、当時ロサンジェルス・フィルハーモニーの常任指揮者だったクレンペラーが南アメリカへの演奏旅行を計画していたのかもしれません。


交響曲第5番
 続く交響曲第5番はこの「プラウダ批判」を受け止めた上での作曲ということになります。1937年7月20日完成され、11月21日にエフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で初演されました。「勝利の栄冠に輝いた長い精神的戦い」というプログラム中の短い解説から窺い知れるように伝統的かつ理解のしやすい交響曲形式をとっていたことからも初演は大成功を博しました。芸術問題委員会のふたりの役人がレニングラードに急派されてその公演を観たところ、その交響曲が大成功を収めたという明白な証拠がありながら、「コンサートの普通の常連ではなく、その作品を必ず成功させようとして集められたさくらが観客になっていると」結論づけたとされています。

 しかし、ショスタコーヴィチ自身がこの交響曲について「正当な批判に対するひとりのソヴィエト芸術家の実際的かつ創造的な回答である」と表明したことから、当局としても評価せざるをえなくなったというのが事実のようです。批評家たちはこの新しい交響曲を熱狂的に受け入れるようになり、ソヴィエト作家同盟議長だった作家アレクセイ・トルストイは情熱的な語り口で「社会主義リアリズム」のもっとも高尚な理想形などと美辞麗句を並べた文章を書き、それはのちに多くの批評家たちが手本とする言い回わしになったとされています。こうして、ショスタコーヴィチの作曲家としての名誉は回復していきます。なおアレクセイ・トルストイは、『アンナ・カレーニナ』、『戦争と平和』などで知られる文豪レフ・トルストイとは別人であることは言うまでもありません。

 ヴォルコフが書いた『ショスタコーヴィチの証言』にはショスタコーヴィチの言葉として次のように掲載されています。「多くの人々は第5交響曲のあとにわたしが復活したと考えているようである。そうではなく、わたしが復活したのは第7交響曲のあとだった。」周囲はともかく、これがショスタコーヴィチ本人の偽らざる気持ちだったのかもしれません。


交響曲第6番
 1938年9月末にショスタコーヴィチは、交響曲第6番に本腰を入れて取りかかりたいと発表しました。マヤコフスキーの詩『ウラディミール・イリイッチ・レーニン』を用い、ソリスト、合唱団、オーケストラによる壮大なスケールの作品にするつもりだと語っています。しかし、1939年1月末にラジオでの声明の中で、「書く準備を進めている」交響曲第6番について語ったときは、レーニン、あるいは何であれ、音楽以外の意味合いについてはまるで言及しませんでした。その後になってもテキストやソリスト、合唱のことなどが話題に上がることもなく、いつの間にか交響曲第6番は当初の『レーニン交響曲』とは別のものになっていきました。

 1939年11月21日、ちょうど2年前の同じ日に交響曲第5番が初披露されたときに比べれば、はるかに危険の少ない状況のもと、レニングラードでムラヴィンスキーの指揮で交響曲第6番ロ短調作品54の初演が行なわれました。演奏は大変すばらしく、最終楽章はアンコールされたとされています。同地のある批評家はすぐさまその新作を歓呼でもって迎え、「ショスタコーヴィチは交響曲第5番以降さらに進歩を遂げ、形式主義的影響が薄くなった」と太鼓判を押しています。

 では、交響曲以外の作曲の方はどうだったのでしょうか。この頃、弦楽四重奏曲というジャンルへの最初の試みとしての弦楽四重奏曲第1番(1938年)がありますが、その他は2、3の例外を除いて映画音楽ばかりが並びます。『友人たち』(1938年)、『銃を取る人 』op.50(1938年)、『ヴィボルグ地区』(1938年)、『偉大なる市民第2部』op.55(1939年)、『おろかな子ねずみの物語』op.56(1939年)、『コルジンキナの冒険』op.59(1940年)。この『コルジンキナの冒険』op.59 はその作品番号を観て分かるように交響曲第7番 op.60 のひとつ前の作品となっています。1936年の「プラウダ批判」以来、思い通りの作曲が許されなくなり、批判の対象にならなかった映画音楽にその不満のはけ口を求めたとも考えられます。あるいはそうせざるを得なかったのかもしれません。これらの映画音楽には、軽快な行進曲やワルツなどが織り込まれたり、様々な楽器を用いたり、ジャズの要素を取り入れたりと見方によっては実験的な試みをしていたのではないかとも考えられます。転んでもただでは起きないショスタコーヴィチのタフなところが垣間見えるところです。


『ボリス・ゴドゥノフ』
 ムソルグスキーの代表作、歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』がこの時期のショスタコーヴィチの心を捉えていたことも注目に値します。ムソルグスキー没後、リムスキー=コルサコフはムソルグスキーの管弦楽法が未熟と考え、これをオーケストレーションし直して最終的は1908年に改訂版を出版しています。これ以降、このオペラはこのR=コルサコフ版で演奏されるのが通例となっていました。しかし、ムソルグスキーを尊敬していたショスタコーヴィチはこのR=コルサコフ版には満足していなかったようです。

 ロシアの作曲家モデスト・ムソルグスキーが1872年完成されたオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』は、皇子暗殺により帝位簒奪の嫌疑の渦中に戴冠したロシアの実在したツァーリのボリス・ゴドゥノフ(在位:1598年 - 1605年)の苦悩を描いたアレクサンドル・プーシキンの劇詩に着想を得たものです。

 ボリス・ゴドゥノフ プーシキン ムソルグスキー
    
ボリス・ゴドゥノフ         プーシキン         ムソルグスキー

 後に交響曲第7番の初演の指揮者となるサムイル・サモスードにけしかけられて、1939年の終わりにショスタコーヴィチは、ムソルグスキーの傑作オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』の再オーケストレーションに乗りだします。1941年5月1日付けの『イズヴェスチャ』紙にはこの編曲作業についてショスタコーヴィチはこう語っています。

 「ムソルグスキーをわたしは心より尊敬しているし、ロシア最高の作曲家だと思っている。その天才的な作曲家の初めの創作意図をできるだけ深く探求し、それを明らかにし、聴衆にとどける、これがわたしに課された仕事である。・・・わたしは、この『ボリス・ゴドゥノフ』の編集作業の仕事には胸をおどらせながら従った。文字とおり昼夜区別なく総譜のまえで仕事した。近年、最も熱中した仕事のひとつといっていい。もうおおよそのところ終わったが、・・・(『ショスタコーヴィチ自伝〜時代と自身を語る』)」

 ショスタコーヴィチと知り合いだったYuly Vainkopは1941年の5月の記録で、「ショスタコーヴィチは交響曲第7番を近々完成させるのは間違いない。この作曲の作業が伸びたのは、1940年のムソルグスキーの歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』のオーケストレーション改変作業があったからだ。」と書いています(『Shostakovich Reconsidered』 Allan B. Ho and Dmitry Feofanov p.157)。ボリショイ劇場との契約で、1939年から1940年にかけてショスタコーヴィチは『ボリス・ゴドゥノフ』のオーケストレーションを行なっていたのは確かで、戦争によってその公演は中止されたのでした(初演は戦後だいぶ経過した1959年11月4日)。ということは、ショスタコーヴィチが交響曲第7番を作曲し始めた、或いは開始できたのは1940年の後半から1941年にかけてであったと推定でき、それはドイツ軍のレニングラードへの侵攻(1941年6月)よりも早い時期ということになります。

 ここで、ヴォルコフが書いた『ショスタコーヴィチの証言』からショスタコーヴィチの言葉を引用します。偽書として論争の種となった著書ですが、『ボリス・ゴドゥノフ』についての言及はヴォルコフの創作ではないと考えられます。なお、この著書はショスタコーヴィチの死後出版されることを前提としてショスタコーヴィチの許可を取って執筆されたものとされています。

 「交響曲第5番と第7番でわたしが歓喜の終楽章を書きたいと望んでいたなどと、およそわたしの思ってもみなかったことを言っているのだ。この男には、わたしが歓喜の終楽章など夢にも考えたことがないのもわからないのだ。いったい、あそこにどんな歓喜があるというのか。第5交響曲で扱われている主題は誰にも明白である、とわたしは思う。あれは『ボリス・ゴドゥノフ』の場面と同様、強制された歓喜なのである。それは鞭打たれ、「さあ、喜べ、喜べ、それがおまえたちの仕事だ」と命令されるのと同じだ。そして鞭打たれた者は立ちあがり、ふらつく足で行進をはじめ、さ、喜ぶぞ、喜ぶぞ、それがおれたちの仕事だ、という。」

 この発言にある「この男」とは指揮者のムラヴィンスキーのことで、これについては別の項目で述べたいと思います。ショスタコーヴィチは何時どこでこの発言をしたのかは不明ですが、交響曲第7番と『ボリス・ゴドゥノフ』との間に何らかの関係を示唆しているものと見なすことはできます。この「強制」について簡単にご紹介します。

 ムソルグスキーはこのオペラで、権力者から「言わされていること」と「本心」をしっかり区別して書いている、すなわち、前者はオペラティックな詠唱で表現し、後者をロシア語特有のイントネーションで歌わせる(どちらかと言うと非オペラ的)という手法を取っているのです。まさにこの手法を、ショスタコーヴィチは自作の歌劇『ムツェンスクのマクベス夫人』に取り入れていることが指摘されています。第2幕第4場で、主人公のカテリーナは、不倫の現場を押さえられた舅ボリスを毒殺した後、集まった司祭や使用人たちの前で「ああボリス・チモフェーヴィチ、どうして逝ってしまわれたの?あなたは私たちに誰に頼れとおっしゃるの。(訳:小野光子)」と、しらじらしく嘆いてみせる場面があり、ここでその手法が採用されているのです。しかも、この箇所はムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』の冒頭の合唱の旋律がそっくり引用されているのです。

 ショスタコーヴィチはこの『ボリス・ゴドゥノフ』のオーケストレーション作業を通じて、ムソルグスキーの作曲手法を解明し、ソヴィエト共産党に追従する音楽と自らの主張する音楽を書き分ける手法を編み出していったのではないでしょうか。なお、この管弦楽編曲はムソルグスキーの管弦楽版やR=コルサコフの編曲版からではなく、作曲者自身のピアノ版から編曲されたもので、そのためか、ショスタコーヴィチは編曲物であるにもかかわらず、自分の作品番号58を与えています。同じムソルグスキーの歌劇『ホヴァーンシチナ』の管弦楽編曲版とシューマンのチェロ協奏曲の編曲に対しても作品番号を付けていますが、他の編曲作品には付けていません。つまり、『ボリス・ゴドゥノフ』の管弦楽編曲は編曲という片手間の作業ではなく、ショスタコーヴィチにとって極めて重要な作曲行為であり、ムソルグスキーの畏敬と賛同そして自らの主張を織り込んだ作品として自信をも抱いていたということになります。

 同じくヴォルコフが書いた『ショスタコーヴィチの証言』で、次のようにショスタコーヴィチは言っています。「ムソルグスキーの作品とかかわりをもつたびに、わたしにとってなにかきわめて重要なものが、わたし自身の仕事のなかでも明確になっている。『ボリス・ゴドゥノフ』を管弦楽に編曲する仕事は、第7と第8交響曲に多くのものを与えてくれたし、その後の第11交響曲にも反映していた。」


交響曲第7番の萌芽
 交響曲第6番が別の方向を向いてしまったあとも、彼は『レーニン交響曲』を断念したわけではありませんでした。1939年8月に彼は次の交響曲の内容をおおまかに述べています。「第1楽章:レーニンの青春時代、第2楽章:十月動乱の先頭に立つレーニン、第3楽章:ウラジーミル・イリイッチの死、第4楽章:レーニン亡きあともレーニン主義の道を、すでに断片的に音楽はできていますので、次の段階として、これを人道的な天才指導者を記念する交響曲第7番に組み込むつもりです。これは近年の私の作品中、もっとも重要なものとなるでしょう。」

 ショスタコーヴィチが何故こうまで自分の作品とレーニンとの関係を強調していたのでしょうか。ショスタコーヴィチに作曲の指導を受け、恋愛関係にあったといわれるほど濃密な関係にあったガリーナ・ウストヴォーリスカヤの証言によると、ショスタコーヴィチはレーニンをとても尊敬していていつも自分の作品を捧げたいと言っていたとされています。(O. Gladkova "Galina Ustvolskaya: Music as Bewitchment", 1999, P. 31) しかし、ローレル・ファーイはこれをショスタコーヴィチによる「都合のよい宣伝、煙幕の役割」という見方しています。つまり、当局に対して現在書いている作品は偉大なるレーニンに捧げる曲なのだと言うことで、批判をかわそうとしていたとも考えられるのです。

 『レーニン交響曲』に関する経過報告は、1941年になってもかなりのあいだ続き、5月下旬には、まだ完成されていないにもかかわらず交響曲第7番がレニングラード・フィルハーモニーの1941-1942年シーズンの演奏計画に入れられました。しかし、ドイツ軍がロシアに侵攻したことが契機かどうかは不明ですが、『レーニン交響曲』を世に送り出すというショスタコーヴィチの考えは突如としてどこかに消えてしまいます。その頃から後、ショスタコーヴィチが『レーニン交響曲』を作ろうと努力していたという明白な証拠は何も見つかっていません。このレニングラード・フィルハーモニーの新シーズンのプログラムついては5月31日にレニングラードの作曲家組織で会議が開かれ、ショスタコーヴィチの交響曲第1番、第5番、『ハムレット』からの組曲、ピアノ協奏曲第1番、および、ショスタコーヴィチの新作である交響曲第7番・・・」などの曲が挙げられたとされています。(『Shostakovich Reconsidered』 Allan B. Ho and Dmitry Feofanov p.157)

 また、ウストヴォーリスカヤによると、「1939年か1940年のある日、交響曲第7番がほぼ出来上がったとショスタコーヴィチは私に伝えに来て、この作品を『レーニン』か『レーニンスカヤ』と呼ぶか決めかねていると言った」としています。この曲の初演時に題名はついていませんでした。初演後、しばらくして『レニングラード』と呼ばれるようになり、ショスタコーヴィチもそれを認めたことになって今日に至っていますが、題名にまつわる記録としてこれは貴重なものと考えられます。交響曲第7番を『レニングラード』と一般的に呼ばれていますが、ショスタコーヴィチは都市の名前である『レニングラード』ではなく、その呼称の元となった『レーニン』を意識していた時期があったということになるからです。

                 ウストヴォーリスカヤ       ウストヴォーリスカヤ
                                     ガリーナ・ウストヴォーリスカヤ

 実際に交響曲第7番が完成したのは1941年の暮れですからこの日付はウストヴォーリスカヤの記憶違いと言えますが、ショスタコーヴィチの作曲の仕方が「考えるのはゆっくりだが、書くのは早い」(息子のマキシム・ショスタコーヴィチの証言)ということから、ショスタコーヴィチの頭の中で交響曲第7番が出来上がった時期とすると彼女の言い分は正しい可能性もあります。但し、このショスタコーヴィチの「出来上がった」という言い方は、「紙の上に譜面が出来上がった」ということではなく、曲の冒頭からフィナーレまでのすべて音楽が明確な形で整えられて、彼の「頭の中で出来上がった」ということを意味していたと考えられます。

 ウストヴォーリスカヤの日時の記憶とYuly Vainkopの記録を合わせると、『ボリス・ゴドノフ』のオーケストレーション作業の合間には少しずつ交響曲第7番の構想を頭の中で膨らませ、その作業が終わった後の1939年から1940年にかけて彼の頭の中では交響曲のおよそのかたちは出来上がっていたと考えるのが妥当ではないでしょうか。ヴォルコフが書いた『ショスタコーヴィチの証言』においてもショスタコーヴィチは「第7交響曲は戦争のはじまる前に構想されていた」と語っています。

 ボロディン弦楽四重奏団のメンバーの1人でショスタコーヴィチとも知り合いだったロスティラフ・ドゥビンスキーによると、「交響曲第7番の第1楽章は戦争が始まる1年前、すなわちスターリンとヒトラーとが仲良がよかった頃には出来上がっていたということを、ソヴィエトの評論家たちは都合よく忘れている。」と書いています。(『Shostakovich Reconsidered by Allan B. Ho and Dmitry Feofanov』p.158 - Stormy Applause: Making Music in a Worker's State by Rostislav Dubinsky 1989)


ドイツ軍の侵攻
 1941年6月22日、ヒトラー・ドイツの国防軍は、2年前に締結された「独ソ不可侵条約」を破る奇襲作戦(バルバロッサ作戦)を展開してソヴィエトに侵入します。その日は日曜日で、当時人気のあったレニングラード・サッカーの「白夜シリーズ」が盛り上がっている時でした。レニングラードにいたショスタコーヴィチは、友人のグリークマンと大好きなサッカー観戦に出かけ、そのダブル・ヘッダーを見てから夕食を食べにいく計画をしていました。まさにその競技場へ向かう途中、ラジオの放送からドイツのソヴィエト侵攻を伝える声明を聞いたのでした。

        ショスタコーヴィチ サッカー
             息子とサッカーを楽しむショスタコーヴィチ

 1937年からショスタコーヴィチはレニングラード音楽院で教鞭を執っていました。1941年は作曲審査委員に名を連ねていたと同時に、ピアノ科の試験委員会の議長も務めていたため多忙をきわめていました。それに加えて、音楽院の年度末の行事である卒業試験も重なっていました。その間、時間をひねり出しては楽しみであったサッカーの試合を観に行っていたとされています。

 試験が終わって学校が夏休みに入ると、ショスタコーヴィチは軍隊への入隊を志願しています。身体検査で一度は断られ、7月2日にも再度志願しています。そこでも断られたショスタコーヴィチは、あくまで前線行きを強く志願して人民義勇軍に願書を出し、「炊事係」でもいいから前線に送ってほしいと申請しますが、再三にわたり拒否されます。なんとか与えられた任務は義勇軍の劇団の音楽監督と、火災を消火する音楽院チームで働くことでした。この消防団は教員と学生から構成され、敵軍の空襲の際、建物の屋上にあがって見張りをし、爆弾による火災を消火する役目を担っていました。この消防団に同じく参加していた作曲家ドミートリー・トルストイ(記述の交響曲第5番の項目で触れたソヴィエト作家同盟議長アレクセイ・トルストイの息子)の回想には、このショスタコーヴィチの登場が当局によって演出されたものとして記録されています。「消防用のヘルメットを頭にかぶり、屋上にいき、そこで写真を撮るように依頼された。この写真は世界中に知られている。ショスタコーヴィチが消防団の防空活動に参加したのがたとえ10分以内だったとしても、消防チームの誰ひとり自分と彼とを比較して不満を述べることはなかった。ショスタコーヴィチを守らなければならないということを、全員が理解していたからである。」(ソロモン・ヴォルコフ著『ショスタコーヴィチとスターリン』)


         消防士ショスタコーヴィチ  
          レニングラード音楽院の屋上で消防士の真似事(?)をするショスタコーヴィチ


 つまり、スターリンを始め当局の担当者たちはプロパガンダの観点から、戦時下において俳優や音楽家による文化活動がいかに価値あることであるか、そして多くの実利的な効果をもたらすかをよく理解していたのでした。ドイツ軍によるレニングラード包囲が始まった直後、芸術家のエリートたちを特別の軍用機を用意してレニングラードから脱出させていますが、脱出を拒否していたショスタコーヴィチをうまく利用して稀に見る成功を収めたことになります。

 米国において、そのスターリンの目論見は劇的な効果を挙げることになります。この時の写真をもとにして描かれたショスタコーヴィチのポートレートがまさに1942年7月20日付の『タイム』誌の表紙を飾ったのでした。戦時だというのに軍服ではなく、なぜか消防士の格好をしているのはそのためです。このイラストを描いたのは、1919年20歳の時に革命から逃れてロシアから米国に移住したボリス・アルツィバーシェフ。米国の地を踏んだ時、英語も喋れずポケットには14セントしかなかったとされていますが、1940年から商業デザイナーとして頭角を現わし、1942年から『タイム』誌の表紙を219枚も手がけた人物です。このショスタコーヴィチの表紙は彼にとってイラストレーターとしての嚆矢となったことになります。それにしても、この曲に関わる人物にソヴィエト国外のロシア人の多いことか。この表紙を描いたボリス・アルツィバーシェフの他に、米国での初演権を争うバトル・ロイヤルのメンバーのひとりセルゲイ・クーセヴィツキー、この曲の米国初演を果たしたNBC交響楽団のコンサートマスター、ミーシャ・ミシャコフなど。当時いかに多くの才能あふれる人材が祖国を追われていたかを物語っています。なお、『タイム』誌の表紙に音楽家が採用されたのは、このショスタコーヴィチが最初だとか。


    消防士ショスタコーヴィチ  ショスタコーヴィチ『TIME』
       
レニングラード音楽院の屋上で消防士姿のショスタコーヴィチと『TIME』誌の表紙
     
「消防士ショスタコーヴィチ、レニングラードで爆弾が炸裂する真っただ中、彼は勝利の和音を聴いた」


           音符1    音符2
     
  表紙の音符部分の拡大とそれを五線譜に書き直したもの


  音符2
          交響曲第7番の第1楽章の冒頭から3小節目まで

 この表紙のイラストを見ると右上に小さく音符が描かれていることに気付きます。この音符は交響曲第7番の第1楽章の冒頭から2小節目から3小節目にかけてのメロディーです。この曲のスコアのマイクロフィルムがソヴィエトから米国に送られ、紙にプリントされて米国初演をする指揮者のトスカニーニの手に渡ったのが6月14日。『タイム』誌が発行されたのが7月20日ですから、このわずか1ケ月の間にアルツィバーシェフはなんとか譜面を見せてもらってイラストの中に描き込んだと考えられます。なお、音符の長さは実際とは異なっていて2分音符が4分音符、付点4分音符が付点8分音符に変更されています。これは推測ですが、譜面を見る機会がなかったために、冒頭のメロディーを覚えた人に歌ってもらい、それを音符に書留めたのかもしれません。そのために音符の長さが相対的には正しくても、記譜上は異なったものになってしまったのではないでしょうか。


交響曲第7番の作曲開始
 「1941年7月19日、彼はある作品に取りかかった。これこそが、じきに音楽史上、独特の地位を占めることになる交響曲第7番であった。彼は熱にうかされたように集中してそれを作曲した。いっときも離れ難く、音楽院の屋根の上にまで楽譜を持って行ったほどだった。」と、ローレル・E・ファーイは『ショスタコーヴィチ ある生涯』で書いています。8月上旬には第1楽章の提示部と中心部のマーチを友人のグリークマンの前で弾いたとされています。この時、ショスタコーヴィチはラヴェルの『ボレロ』を真似たことを非難されるのは必至だと見越して、こう述べています。「勝手に非難させておこう。でも戦争はぼくの耳にそんなふうに聞こえるのだ」と。
 
 8月29日に第1楽章の草稿を書き終え、9月3日に清書が完成されます。ドイツ軍によるレニングラード封鎖が強化される中、レニングラード市内の主要な芸術的、知的機関に携わる人々は次々に避難していきました。レニングラード・フィルハーモニーのメンバーたちはノヴォルシビスクルに疎開し、友人のグリークマンも音楽院の仲間とタシケントに向かいましたが、ショスタコーヴィチは出発を拒否し続けました。9月4日にはドイツ軍によるレニングラード爆撃を開始します。この後、9月17日に第2楽章が、同29日に第3楽章が完成されます。

 これら楽章の完成日は、ショスタコーヴィチ自身の次の文章がその根拠となっているようです。1941年10月8日付けの『夕刊モスクワ』に、「レニングラード防衛戦の最中に、わたしは第7交響曲の仕事にとりかかった。第1楽章は9月3日、第2楽章は9月17日、第3楽章は9月29日に完成した。いま、第4楽章、最終楽章を終えようとしているところだ。」と掲載されています(『ショスタコーヴィチ自伝〜時代と自身を語る』)。この10月8日付けの新聞が発行された時、ショスタコーヴィチは既にレニングラードを脱出してモスクワに向かい(10月1日)、さらに10月15日にはモスクワも脱出しています(後述)。つまり、慌しくモスクワに到着して新聞記者の取材に応じて記事を書いた或いは語ったものか、又は、第3楽章を書き上げた9月29日かその翌日あたりにレニングラードで書いたり語ったりしたものと想像されます。しかし、第3楽章までについては友人の日記や手紙などから裏付けは取れるのですが、最後の第4楽章に関する記述には疑問が残ります。これについては後で詳述したいと思います。


ドキュメント『こちらレニングラード』
 1941年9月14日、レニングラードで行なわれた防衛基金のための慈善コンサートにショスタコーヴィチは参加しました。その3日後の17日にラジオでその模様が放送されることになり、その日にショスタコーヴィチはレニングラードの放送局に招かれています。女流詩人で戦時中はラジオの仕事を行なっていたオリガ・ベルゴーリツが彼に演説を依頼したのでした。この時点で、交響曲第7番は第2楽章までしか出来上がっていませんでした。

     オリガ・ベルゴーリツ    ベルゴーリツ
          オリガ・ベルゴーリツ(右は共に晩年のツーショット)

 放送局側はショスタコーヴィチが話すべき台本、すなわち何を語るかについての骨子を書いた用紙が用意されていました。「部隊の組織化、街路の通信網、バリケードの建設、火炎瓶との闘い、家屋の防衛、戦闘が今、首都への侵入路近隣で繰り広げられている、ということを特に強調すべきこと・・」と書かれた用紙があったのですが、ショスタコーヴィチはそれに気付かずその用紙の裏に演説の内容をペンで書きなぐったとされています。その後、ベルゴーリツの助けを得て文章化し、局側からもっと派手に脚色するようにとの注文をベルゴーリツが退け、一行たりとも手を加えないで放送する運びとなりました。この判読しがたい文字で書かれた原稿をベルゴーリツがショスタコーヴィチに所望してそれが彼女の手元に残っていることや、この時の様子が彼女の回想記『こちらレニングラード』に書かれています。(ソフィヤ・ヘーントワ著 『驚くべきショスタコーヴィチ』 )

 つまりこの演説の原稿は、ショスタコーヴィチがスタジオに入ってから放送されるまでの短い時間に、彼自身の手によって書かれたもので、ベルゴーリツによる修正・補足が多少あったとしてもそこには当局による検閲は行なわれなかったと考えられます。ショスタコーヴィチの肉声がそっくり伝えられたものとして極めてめずらしい事例と思われます。のちにショスタコーヴィチは当局に依頼で何度も公の席で演説を行ない、或いは文章を発表していますが、その原稿のほとんどは当局が書いたものとされているからです。

 マイクを前にしたショスタコーヴィチでひどく動揺していて、ベルゴーリツが「友達や私に語りかけるような気持ちで話してください。」と忠告したとされています。まず、アナウンサーのベルゴーリツがリスナーに語りかけます。「愛しいわれらが祖国よ、聴きなさい! こちらはレニングラードの町。こちらはレニングラード!」そして、マイクの前に座ったショスタコーヴィチはぎこちなく演説を開始します。

 「私は1時間前、新しい交響曲の大作の第2楽章のスコアを書き上げました。もしもこの作品が首尾よく完成されることができ、第3、第4楽章を終えることができるなら、この作品を『第7交響曲』と呼ぶことが出来るでしょう。そんなわけで私はすでに2つの楽章を書き上げています。私はこの作品を1941年7月からとりかかっています。・・・(中略)・・・私がこのことを伝えるのは、いま、私のこの話を聴いて下さるレニングラード市民の皆さんに、私たちの町生活が正常に保たれていることを知っていただくためです。・・・(中略)・・・レニングラードは私の故郷です。私が生まれた町であり、私の家です。・・・(中略)・・・ソヴィエトの音楽家たち、私の親愛な、無数の戦友たち、私の友人たち! わが国の芸術がいまや重大な危機に瀕しているということを肝に銘じておいてください。・・・(中略)・・・私たちのペン先からあふれでるひとつひとつの楽想、それは力強い文化の支えに対する不断の貢献であるということを覚えておかねばなりません。・・・(中略)・・・私はまもなく第7交響曲を完成させるでしょう。・・・(中略)・・・抑えがたい創作欲によって、私は作品の完成に向けて前進しています。そしてその時、私はもう一度この新しい作品とともに電波に乗せてもらうつもりです。・・・(中略)・・・芸術家の名において、私はみなさんに確約します。私たちは不屈であり、私たちは常に立哨中なのです。」(ソフィヤ・ヘーントワ著『驚くべきショスタコーヴィチ』 )

 この引用における・・・(中略)・・・部分は同義内容の繰り返しの表現ということで省略していますので、上記は演説の全容とみなしていいと思います。これを見ると、放送局が用意したメモは面白いくらい全く反映されていません。レニングラードを愛し、さらには音楽家としてのショスタコーヴィチの素直な気持ちが吐露されている演説と言えます。なお、このラジオ放送の音声の一部はウラディミール・アシュケナージ指揮するサンクト・ペテルブルク・フィルハーモニーによる交響曲第7番のCDに収録されています。

 この音声はYouTubeでも聞くことができます。
Propaganda Radio Broadcast 1941


 ここで注目すべきは、ショスタコーヴィチ自身の言葉で「私はこの作品を1941年7月からとりかかっています。」と言っていることです。この曲を書き始めていた時期に、様々な着想や思い入れがあり、或いは途中で破棄したりしたものもあったかも知れませんが、ショスタコーヴィチ本人のこの時の意識としては、「1941年7月」に作曲を始めたということは間違いないと考えられます。なおこのベルゴーリツは、この曲のモスクワ初演とレニングラード初演のときに再登場します。

 そのラジオが放送された晩、音楽家仲間がショスタコーヴィチの家に集まり、交響曲第7番の第1楽章と第2楽章を作曲者が弾くピアノで聴いたとされています。そこに招かれたヴァレリアン・ボグダーノフ=ベレゾフスキーはショスタコーヴィチの弾くピアノ演奏に対する感動と共にこう書いています。「ショスタコーヴィチは第1楽章を弾き終えると、神経質そうにタバコを箱から取り出して一服し、短い休憩を取った。そして第2楽章を弾き始めたが、第1楽章の印象が強すぎて、その巨大な影が第2楽章を覆いつくしているように思えた。ショスタコーヴィチが曲を弾き終えると誰もがその楽章をもう一度弾いて欲しいとせがんだが、その時、空襲警報が鳴ったため、彼は休憩を提案して、妻子を防空壕に連れて行った。しかし、すぐに戻って来てまた演奏を再開した。」(”Dmitri Shostakovich, Pianist” Sofia Moshevich p.101)

 別の資料からもその日のことを窺うことができます。1941年9月18日付けのショスタコーヴィチの母ソフィアがノヴォシビルスクに疎開していた指揮者ムラヴィンスキーに宛てた手紙にも同じ記述があり、「昨夜、高射砲の轟音のなかで作曲家の小さな集まりがありました。ミーチャ(ショスタコーヴィチの愛称)の新作は皆を言いようのないほど喜ばせました。彼は交響曲第7番の最初の二つの楽章を弾きました。全員が緊張して聴き入り、新しい傑作の誕生をことほぎました。ピアノのまわりにはポポフ、ブフダーノフ、ベレゾフスキーがいました。」と書かれています(河島みどり著『ムラヴィンスキーと私』 p.61)。

 ショスタコーヴィチのピアノ演奏がどんなだったかは、YuouTubeで観ることができます。ショスタコーヴィチの肉声やレニングラード市内の映像も付いています。

Shostakovich plays a fragment of his 7th symphony (1941)

Shostakovich Plays His Leningrad Symphony, 1942

 9月20日には、ショスタコーヴィチの親友イサーク・グリークマンや作家のニコライ・チーホノフ、教え子のユーリイ・レヴィチンやオレスト・イェヴラーホフ等を前にして再びピアノで演奏しています。このチーホノフはショスタコーヴィチの映画音楽『女友達』(1935年)のテキストを書いた人物です。同じ世代で同姓同名の政治家がいて、首相にまで登りつめた人物がいますがそれとは別人です。


レニングラード脱出
 9月29日に第3楽章が完成します。その晩、レニングラードの党本部から電話で避難命令が下されます。10月1日、ショスタコーヴィチは妻と2人の子供を連れてモスクワへと避難します。モスクワに到着すると、ショスタコーヴィチはモスクワ在住の友人たち、作曲家のアラム・ハチャトリアン、作家のエフゲニー・ペトロフ、外交官のコンスタンチン・ユマンスキーを呼んでこの曲を披露しています(”Dmitri Shostakovich, Pianist” by Sofia Moshevich p.101)。1939年5月11日から1941年5月9日までユマンスキーは駐米大使を務めていました。このユマンスキーは、交響曲第7番の米国初演をめぐる「バトル・ロイヤル」の関係者のひとりとなった人物で、ショスタコーヴィチとも知り合いであったからこそ米国の指揮者たちがユマンスキーに接触しようとしたと考えられます。(第3章『米国初演をめぐるバトル・ロイヤル』参照)

 このモスクワ逃避行には興味を惹かれる話があります。ショスタコーヴィチ一家は持ち出せる荷物を出来るだけ少なくしなければなりませんでした。そのため、ショスタコーヴィチが持って行けた譜面は『ムツェンスク郡のマクベス夫人』、作曲中の交響曲第7番、ストラヴィンスキーの『詩篇交響曲』のスコアと自ら編曲したピアノ版だけでした。また、レニングラードを脱出する際、飛行機に乗ろうとしたとき交響曲第7番の終楽章のスコアの何枚かが吹き飛ばされて飛行場に散ってしまい、探しても見つからなかったのでショスタコーヴィチは終楽章を書くためにレニングラードに留まったという説があります。この元ネタはソヴィエトのシナリオ・ライターらしいのですが、信憑性はかなり低いと思われます。避難の準備に追われたわずか3日間の間にどれだけの第4楽章が書けたでしょうか。仮に数ページ書けたとしても、ショスタコーヴィチの作曲の仕方からすると、頭の中にある音楽を五線譜に書き留めることはいつでもできるはずで、それが失われたらまた書けばいいのですから、そのために危険なレニングラードに居残る意味がないからです。

 ここで注目すべきなのは、ショスタコーヴィチがストラヴィンスキーの『詩篇交響曲』を肌身離さず持ち歩いたということです。ショスタコーヴィチはこの作品が初演された1930年の直後にスコアを入手し、それを2台のピアノ版に編曲するほど入れ込んでいたとされています。音楽院でショスタコーヴィチはしばしば生徒たちとこの曲を演奏していたようです。当時のソヴィエトではストラヴィンスキーの作品の上演は禁止されていたため(1962年のフルシチョフの雪解けの時期まで)、原曲を聴くことは適わなかったからと考えられます。

 また、ショスタコーヴィチは後になって、『詩篇交響曲』の総譜表紙にサインをして弟子のガリーナ・ウストヴォーリスカヤにプレゼントしています。そのサインにはロシア語でこう書かれていました。「親愛なるガリーナ・ウストヴォーリスカヤへ。ドミートリー・ショスタコーヴィチより。1955年3月18日レニングラードにて」。ウストヴォルスカヤにショスタコーヴィチは恋心を抱いていたとされていますが、そんな女性にプレゼントするほどショスタコーヴィチにとってこの曲は大事な作品であったと思われます。その譜面をレニングラード脱出の時に持って出たということは、『詩篇交響曲』が当時作曲中であった交響曲7番になんらかの影響を及ぼしていたと考えるのは自然なことではないでしょうか。なお、脱出の際に持ち出せなかった自分の手書きの譜面はレニングラード・フィルハーモニーに預けていて、1944年秋にレニングラードに戻って来られたときにすべて無事に取り戻すことが出来たそうです。

 モスクワに避難したショスタコーヴィチは、その滞在中にインタビューを受けたり、メディアの取材に応じたりしています。その中で、「交響曲7番の第4楽章の仕上げにかかっています。」とか「最終楽章では敵が敗北した美しい未来を描きたいです。」といったことを述べています。「勝利」とか「戦争」とかの音楽にしようとは思っていなかったことが少しばかり窺える発言です。

  地図


クイヴィシェフ逃避行
 しかし、ここモスクワでも空襲警報に脅かされ、同じ月の10月15日には妻と幼い子供2人と共にモスクワを脱出します。夜の10時、灯火管制下の真っ暗なモスクワを後にして東方へ向かいます。この時、同乗していたのは、様々なジャンルの文化人や、ヴィッサリオン・シェバリーン、レインホルド・グリエール、ドミートリイ・カバレフスキー、アラム・ハチャトリアンといった作曲家、ピアニストのレフ・オボーリン、指揮者のボリス・ハイキンなどがいました。その他にはボリショイ劇場のアーティストや関係者もいたとか。その混乱の中、ショスタコーヴィチのトランク・ケースが2個、駅に取り残されたのですが、その中に衣類や日用品と一緒に交響曲第7番の手稿も入っていたという大事件が起きます。しかし後に無事発見され、ショスタコーヴィチにもとに届けられて事なきを得ます。ショスタコーヴィチはレニングラード音楽院が疎開しているタシケントに行きたかったのですが、一行は10月22日に臨時のソヴィエトの首都の候補となったクイビシェフで降ろされます。7日間の列車の旅となりました。同じ月にソヴィエト共産党幹部、政府機関、各国からの外交官などもここに避難をしています。なお、このクイビシェフは1935年にサマーラを改名した都市の名で、1991年に再びサマーラに戻されます。

 ショスタコーヴィチ家族はクイビシェフでボリショイ劇場用に割り当てられた学校に寄宿することになります。数日後、家族用の独立した部屋とピアノが与えられますが、子供がいると作曲できないと不満をこぼしていたようです。11月29日付けの友人ソレルチンスキーへの手紙には「第4楽章はあまりはかどっていない。」、翌日の友人グリークマンへの手紙には「手もつけていない」ことを認めています。12月9日、ようやく二部屋からなる独立したアパートに引っ越すことができ、作曲家としての創造のための部屋を手に入れることが出来たことになります。まさにその翌日、ソレルチンスキーへの手紙に「交響曲第7番の最終楽章の作曲を始めた。」と書いています。


交響曲第7番の完成
 作曲の合間に、ピアニストのレフ・オボーリンと連弾を楽しんだり、隣人からレコードを借りて音楽を聴いたりしていたショスタコーヴィチは「作曲家同盟クイビシェフ支部」を組織することにも尽力します。その創作発表会で、ショスタコーヴィチは交響曲第7番第3楽章をピアノで披露しています。1941年も押し詰まった12月27日、ついに交響曲が完成されます。その時の模様を語る隣人のフローラ・リトヴィノヴァの回想は多くの解説書に引用されています。ショスタコーヴィチ家でパーティが催され、上機嫌なショスタコーヴィチはオボーリン等とオペレッタの曲をピアノで弾いて歌ったり踊ったりしていました。その集いのさなか、「先ほど交響曲第7番を完成させた。」と作曲家は落ち着いた口調で皆に告げ、ショスタコーヴィチは完成した交響曲第7番をピアノで友人たちに弾いて聞かせたのでした。その中にはピアニストのレフ・オボーリン、指揮者のサムイル・サモスード(後にこの曲の初演を振ることになります)、ピョートル・ウィリアムズ夫妻とハーピストのヴェラ・デュロヴァなどがいたとされています。

 なお、この記述は正確には2日分の出来事を1日にまとめているようです。エリザベス・ウィルソンの著作『Shostakovich : a life remembered』には、別々の日の出来事としてフローラ・リトヴィノヴァの文章を引用しています(p.183-185)。フローラ・リトヴィノヴァはショスタコーヴィチの歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』や交響曲第5番の演奏会に顔を出していた音楽愛好家で、ショスタコーヴィチがクイビシェフに逃れてきて落ち着いた先のアパートの上階に住んでいて、ショスタコーヴィチの妻ニーナと仲良くなり、程なく家族ぐるみで親交を深めていたとされています。ウィルソンの文章を以下に引用します(「・・・」は中略です。)。

 ある日の夜、ニーナは私をパーティに呼んでくれた。息子のパヴリクはなかなか眠ってくれず、歌を歌ったり本を読んで聞かせたりした。・・・階下から聞えてくる楽しそうな声やピアノの音を聞きながら私は泣きそうになった。しばらくしてやっと眠ってくれたので階段を駆け下りていった。皆歌を歌い、ウォッカを飲んでいた。・・・ショスタコーヴィチはピアノの前に座り、コンサートでしか見たことがなかったピアニストのレフ・オボーリンがその脇にいた。・・・皆は『Pupsik』(ロシア語で「可愛い人形」という意)と呼ばれるオペレッタの歌を笑いながら歌った。・・・ショスタコーヴィチは絶えず愉快な歌をピアノで弾き、笑い、冗談を飛ばしていた。・・・私は時々階段を上がって息子の様子を見に行った。・・・ショスタコーヴィチは「神経質なペテルブルク・タイプ」の人間ではなく、ウィットの富んだひょうきんな若者(当時36歳だった)に見えた。・・・突然、ショスタコーヴィチが皆に向かって「あの、知っているかな、今日、交響曲第7番がついに完成したよ。」と静かに語った。・・・12月28日の私の日記には「なんて私はハッピーなのか!私は夜通しずっとショスタコーヴィチと一緒だった。ショスタコーヴィチは交響曲第7番を完成させ、私たちがすぐにそれを聴いた。なんとも信じられない、素晴らしい夜だった。」と書き出していた。

 この時ショスタコーヴィチは、交響曲第7番のさわりをピアノで弾いたと考えられます。リトヴィノヴァはさらに次にこのように書いています。「程なくしてショスタコーヴィチは交響曲第7番のピアノ・スコアを完成させ、友人たちを招いてそれを弾いて聴かせた。私はとても興奮していて、その場に居合わせていたのがサモスード、レフ・オボーリン、ハーピストのヴェラ・デュロヴァとピョートル・ウィリアムズ夫妻で、その他の名前は思い出せなかった。・・・曲の演奏が終わると、私は息子のパヴリクをベッドに寝かせ、だいぶ夜も更けてショスタコーヴィチ夫妻だけになっていた部屋に戻り、一緒にお茶を飲んだ。そして曲についていろいろと語り合った。ショスタコーヴィチはこう言った。『ファシズム、それはもちろんあるが、ファシズムとは単に国家社会主義を指しているのではない。でも音楽は、真の音楽は、決してひとつのテーマに結びつけてはいけない。この音楽が語っているのは恐怖、屈従、精神的束縛なのだ。』」(『Shostakovich : a life remembered』 by Elizabeth Wilson)。余談になりますが、この時の様子は様々な研究書や解説文に引用されていて、リトヴィノヴァが夜中にショスタコーヴィチひとりに会いに行ってお茶を飲んだと訳されています。しかしそれは、Shostakovichesと複数形で書かれているのにその es を無視して訳しているため、「夜中にショスタコーヴィチに会いに行った」という書き方になり、それが一般に流布してしまったと考えられます。

 また、ハーピストのヴェラ・デュロヴァのその時のことを次のように思い出しています。「私と夫のアレクサンドル・バトゥーリン(バス・バリトン歌手)、レフ・オボーリン、この曲を初演すると期待されていた指揮者のアレクサンドル・メリク=パシャーエフの5人が集まった。ショスタコーヴィチが演奏を始め、オボーリンが高声部を補足して弾いていた。演奏の途中で、私たちの階下に住んでいる指揮者のサモスードから電話があって音楽が聞こえるので行ってもいいかと言ってきた。彼はこの曲を聴いて打ちのめされるほど感動し、スコアを持ち上げて、明日にもリハーサルをはじめるぞ、と言った。」(ソフィア・ヘントーワ著『Shostakovich; Life and Work』)

 ここで「5人」というのがショスタコーヴィチを入れて5人なのだと考えられ、サムイル・サモスードはこの中には含まれていなかったということがわかります。もし、ピアノの音が聞こえなかったら、サモスードはこの曲と縁がなかったのかもしれません。しかし、交響曲第7番の初演で指揮したのはサモスードでメリク=パシャーエフではなかったのは何故なのでしょうか。このことを説明する資料はまだ見つかっていません。

 なお、フローラ・リトヴィノフの夫の叔父は、1941年から1943年まで駐米大使を務めたマクシム・リトヴィノフで、交響曲第7番の米国初演においてその前任者コンスタンチン・ユマンスキーと共に少なからずその役割を果たした人物でもあります(第3章『米国初演をめぐるバトル・ロイヤル』参照)。また、彼の甥である夫の求めに応じてマーラーの交響曲『大地の歌』のレコードを持ってきてくれたことで、モスクワの多くの音楽家が彼女の家にそれを聴きに来た(当時マーラーの曲は演奏禁止だった。)だけでなく、彼女がクイビシェフに避難した後、ショスタコーヴィチもそこで隣人になってから聴かせてもらったのは間違いないと思われます。ある時、彼女はショスタコーヴィチから「その曲は何楽章あるの?」と訊かれて「5楽章よ。知っているくせに。そのレコードもあるから何時でも好きなときに聴きに来ていいわよ。」と応えたと記録しています。(『Shostakovich : a life remembered』 by Elizabeth Wilson p.190)。『大地の歌』のレコードが聴きたくてしかたないのに、本心を素直に言えないショスタコーヴィチの性格が窺えるエピソードです。

 リトヴィノヴァはさらに、ショスタコーヴィチがこのようにも言ったと記録しています。

 「その後ドミートリイ・ドミートリエヴィチは、私に慣れてきたのか私を信頼するようになった。交響曲第7番は、そういうことなら第5番も同じことだが、ファシズムについてだけでなく我々のシステムについて、あるいはいかなる全体主義体制についての音楽だと率直に語った。(『Shostakovich : a life remembered』 by Elizabeth Wilson)」

 先に掲げた彼女の記録と共にこの文章は多くの解説書、研究書に引用されている有名なくだりで、この「我々のシステム」というのが現在のソヴィエトの体制のことを指している可能性は極めて高いのですが、ショスタコーヴィチが果たしてこんな危険な発言を人前で発するのでしょうか。伝記作家ブライアン・モイニハンは「彼はそう言ったのでしょうか?ソヴィエトの体制がファシズムと同類だと他人に発言するなんて狂気の沙汰だ。ましてスターリン時代の外務大臣、駐米大使などを歴任した政府要人の姪に打ち明けるなんてその危険度は倍増してしまう。これは全くらしくないことだ。ショスタコーヴィチは注意深く自分の舌を守ってきたはずだ。(『Leningrad: Siege and Symphony』 by Brian Moynahan)」と述べています。ショスタコーヴィチの発言とされる資料の中にはもちろん真実は含まれているのは間違いないのですが、その端から端まですべてを無批判に真実と受け入れるのは研究者として戒めなければならないことだと思われます。


 各楽章の完成日は、ショスタコーヴィチ自身の次の文章によるものと考えられます。1941年10月8日付けの『夕刊モスクワ』には、「レニングラード防衛戦の最中に、わたしは第7交響曲の仕事にとりかかった。第1楽章は9月3日、第2楽章は9月17日、第3楽章は9月29日に完成した。いま、第4楽章、最終楽章を終えようとしているところだ。」と掲載されています(『ショスタコーヴィチ自伝〜時代と自身を語る』)。しかし、この文章での第3楽章までは正しいとして、第4楽章に関しては疑問が残ります。この10月8日付けの新聞が発行された時、ショスタコーヴィチは既にレニングラードを脱出してモスクワに向かい(10月1日)、さらに10月15日にはモスクワも脱出しています。慌しくモスクワに到着した時に新聞記者の取材に応じたものか、又は、第3楽章を書き上げた9月29日かその翌日あたりにレニングラードで書いたり語ったりしたものと考えられます。

 しかし、第4楽章についての記述は正しいのでしょうか。既に述べた通り、レニングラードを脱出してからしばらくの間、ショスタコーヴィチは作曲どころではなかったのであり、まともな部屋を与えられ、ピアノが使えるようになってようやく作曲に取り掛かったのです。この10月の段階で「第4楽章を終えようとしている」というのは明らかに間違いと言えます。ショスタコーヴィチは12月10日付けのソレルチンスキーへの手紙で「交響曲第7番の最終楽章の作曲を始めた。」とも書いていることからも明らかです。

 このようにショスタコーヴィチの肉声として掲載された文章は別のライターによるかなりの脚色が加えられていると考えるのが妥当ではないかと思われます。この10月8日付けの記事にしても、その前の部分では、「うるわしいわが街レニングラードは、高揚した気分、かつてないほどの愛国主義に息づいている。・・・わが英雄的な将兵と義勇軍とは、敵の急襲をよくはねかえしている。ドイツ軍兵士の屍体は、レニングラード近郊の道路上に折りかさなっている。・・・」とも書かれていて、どう見てもこれは大本営発表であり、ショスタコーヴィチ自身の言葉とは思えないからです。モスクワの新聞記者は政府高官が待ち望む記事を書くべく、「もうすぐ完成」というスクープをものにしたと勇んで書いたのかもしれません。なお、第4楽章の実際の完成日は12月27日になります。



交響曲第7番の世界初演
 芸術問題委員会によって初演をする指揮者としてサムイル・サモスードが選ばれます。かつて『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の初演も行なっているサモスードですからショスタコーヴィチはオペラ指揮者として敬意を抱いていましたが、本心では交響曲第5番を指揮したムラヴィンスキーに振ってもらいたかったようです。しかし、戦時下という条件のもとに、プロパガンダとして利用を目論む当局が選んだサモスードを拒むことはできなかったようです。スターリンはボリショイ劇場をソヴィエト国内だけでなく全世界における一流のオペラとバレエの殿堂にする任務をこのサモスードに与えていたとされています。サムスードはショスタコーヴィチの旧友であり、ショスタコーヴィチの崇拝者でもあったことに加えて、1936年にスターリンの逆鱗に触れた『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の指揮をしていたことからすることこの人選はいささか奇妙にも思えます。スターリンは「見る目」を持っていて、意外と現実主義者だったということなのかもしれません。こうして年内にはサモスードが指揮するボリショイ劇場管弦楽団によってリハーサルが始められます。

 ソヴィエト大使館がワシントンDCで発行している英字の機関紙に寄稿された指揮者のサモスードによる記事(1942年7月18日付け)には、「クイビシェフにおけるボリショイ劇場管弦楽団によるこの曲のリハーサルの回数は本番に先立って40回にのぼり、全曲の演奏には1時間26分かかった。通算して150回から200回くらい演奏したことになる。」と書かれています。また、「ショスタコーヴィチはいつもリハーサルに顔を出し、スコアに書かれていることに厳密に従うようにと容赦なくオーケストラに指示を出していた。特にテンポについてであった。」と作曲家の熱心な姿も明らかにしています。また、別のページにはショスタコーヴィチの妻ニーナのインタビューも掲載されていて、その中にはショスタコーヴィチの2人の子供たちも連れて来られ、この曲を「僕らの、私たちの交響曲」と呼んでいたと言っています(Information Bulletin ; Embassy of The Union of Soviet Socialist Republics #86)。なお、この機関紙の発行日7月18日は、トスカニーニによる米国初演及びそのラジオ放送の前日にあたり、その放送される時間(19日 [日] 4:15 〜 6:00 PM EWT)もしっかり告知されています。



    サモスード   クイヴィシェフ・リハーサル
           
 サムイル・サモスード     クイビシェフでのリハーサルを聴くショスタコーヴィチ


 グルジア出身の指揮者サモスードの最初のキャリアはチェリストで、パリに行ってパブロ・カザルスに師事する傍ら、ヴァンサン・ダンディに作曲を、コロンヌ管弦楽団の創始者エドゥアール・コロンヌに指揮を学んでいます。帰国後は各地のオーケストラでチェロを弾いていましたが、1917年からはマリインスキー劇場で指揮者としてのキャリアを開始します。若手作曲家たちのためのソヴィエト・オペラの実験劇場と知られるマールイ劇場の主席指揮者を経て、1936年からボリショイ劇場の主席指揮者となりそのキャリアの絶頂を極めます。戦後はシンフォニー・オーケストラの指揮も行なっていて、ショスタコーヴィチよりはプロコフィエフの曲をよく演奏していたようです。残されている録音には、チャイコフスキーの歌劇『イオランタ』(ボリショイ劇場管弦楽団 1940年)、歌劇『スペードの女王』(ボリショイ劇場管弦楽団 1937年)、プッチーニの歌劇『ラ・ボエーム』(モスクワ放送管弦楽団 1954年)、プロコフィエフの『アレクサンドル・ネフスキー』(ソヴィエト国立放送管弦楽団 1947年)と交響曲第7番(モスクワ放送管弦楽団1953年:サモスードが前年に初演)など多数あります。ショスタコーヴィチの作品の録音としては作曲者自身のソロでピアノ協奏曲第1番があり、YouTube で聴くことができます(1956年音声のみ)。なお、YouTubeにはショスタコーヴィチが弾くこの曲の映像もありますが、その映像では指揮しているのはアレクサンダー・ガウクであろうとされています。

Dmitri Shostakovich plays Schostakovich Concerto No. 1


 1942年3月5日、ショスタコーヴィチの交響曲第7番がクイビシェフで世界初演されました。その演奏の模様はソヴィエト全土に放送され、一部国外にも流されました。この時、ショスタコーヴィチは会場に集まった聴衆とラジオの前の聴衆に向かって語りかけ、その作品を書くに至ったいきさつを説明し、曲の特徴と内容を解説したとされています。

 なおこの初演に先だつ3月1日に、当局によって選ばれた人々と知識人たち向けに非公開の初演が行なわれて大成功を収め、マスターピースとして称賛されたとも報道されています(ケリー・ブリッケンスタッフ著『Re-examining the Warhorse Shostakovich's Leningrad Symphony』 p.10 )。これは「非公開初演」というより、「公開ゲネプロ」と呼ばれる、全曲を通して演奏するリハーサルに観客を受け入れたものと見做すべきでしょう。

 2020年にYouTube にアップされた『交響曲第7番初演78周年イベント』の紹介映像では、包囲されたレニングラード市内の当時の様子や現在のサマーラ(旧クイビシェフ)の町並み、傍を流れる広大なヴァルガ河などを観ることができます。ショスタコーヴィチが最初に寄宿した学校、その後移り住んで第4楽章を作曲したアパート、ショスタコーヴィチの家族、ピアノを弾くショスタコーヴィチ、初演したオペラハウス、建立されたショスタコーヴィチ彫像、子供の頃にこの曲の初演を聴いた老夫人(後にピアノ奏者となった)のインタビューと続き、最後にサマーラ歌劇場管弦楽団による全曲の演奏(2020年3月5日)が紹介されます。ロシアのSergey Baklykov氏が制作したこの映像は、英語による自身の案内にロシア語の字幕が付いたもので、もし日本語に訳されれば、筆者のこの拙文を読む必要はないくらいよくできています。

78th Anniversary of Dmitry Shostakovich "Symphony 7 (Leningradskaya)" Premiere in Samara, Russia

   ショスタコーヴィチ彫像  サマーラ
                 サマーラ市内のショスタコーヴィチの銅像と街並 


スターリン国家賞
 この初演のわずか10日後の3月16日付けの『プラウダ』紙は、第1回スターリン賞受賞者6名の記事で埋められていて、その6名のうちの1人がショスタコーヴィチでした。他の受賞者たちは次の5名で、「ソヴィエトのナイチンゲール」と称されたスターリンお気に入りのソプラノ歌手ワレリヤ・バルソワ、ソヴィエト国家のシンボルともいえる彫像『労働者とコルホーズの女性』(モスフィルムのエンブレムにも採用されている)を制作した女性彫刻家ヴェーラ・ムーヒナ、『クレムリンのスターリンとヴォリシーロフ』を描いた画家のアレクサンドル・ゲラシモフ、『静かなるドン』で知られる作家ミハイル・ショーロホフ、映画『アレクサンドル・ネフスキー』の監督セルゲイ・エイゼンシュタイン、と芸術のそれぞれの分野から1名ずつ選ばれています。

    ワレリヤ・バルソワ  ヴェーラ・ムーヒナ  ヴェーラ・ムーヒナ

                      ワレリヤ・バルソワ          ヴェーラ・ムーヒナ    『労働者とコルホーズの女性』

         アレクサンドル・ゲラシモフ    アレクサンドル・ゲラシモフ

            アレクサンドル・ゲラシモフ     『クレムリンのスターリンとヴォリシーロフ』


                   ミハイル・ショーロホフ            ミハイル・ショーロホフ

                       ミハイル・ショーロホフ                『静かなるドン』


         セルゲイ・エイゼンシュタイン        ネフスキー

                   セルゲイ・エイゼンシュタイン          『アレクサンドル・ネフスキー』


 この賞の対象となったショスタコーヴィチの作品はスターリン自らが承認したとされる交響曲第5番ではなく、ピアノ五重奏曲 op.57 でした(1940年完成)。西側の伝統に即して書かれたこのピアノ五重奏曲はソヴィエトにおいては明らかに「形式主義」と糾弾されてもおかしくない作品でした。実際スターリンに対して「形式主義」と糾弾する密告があったにもかかわらず、ショスタコーヴィチを第1回の受賞者にしなければならなかった事情がそこにあったと考えるべきでしょう。ショスタコーヴィチは対外的なプロパガンダの最も効果的で強力な武器となると見做されていたからでしうた。

 このことは、『プラウダ』紙上の6名の中でショスタコーヴィチの名前がトップに挙げられていたことからも窺うことができます。さすがにわずか10日程前に初演された交響曲第7番を対象にしてしまうと審査の過程への疑問が呈される危惧があったのでしょうか。「形式主義」上の問題に目をつぶるくらい当局にとってわけもないことであり、言ってしまえばどんな曲でもよかったのかもしれません。なお、交響曲第7番は、第1回には漏れたものの、初演の興奮から冷めない1ケ月後の4月11日にスターリン賞を受賞することになります(ソロモン・ヴォルコフ著『20世紀ロシア文化全史: 政治と芸術の十字路で』 )。

 ショスタコーヴィチはクイビシェフでの初演の3週間後に、「この交響曲第7番はファシズムに対する我々の闘争、来るべき勝利、そして、故郷レニングラードに捧げます。」と『プラウダ』紙上で語っています。第1回レーニン賞を受賞しただけに、何か言わなければならなかったのでしょう。しかし、この曲のコンセプトを語る原稿はショスタコーヴィチ本人が書いたと考えるのは慎重にならざるを得ません。ただ、「故郷レニングラードに捧げる」というのは本心だったのではないでしょうか。後にこの曲を『レニングラード』と呼ぶことにショスタコーヴィチは反対しなかったとされているからです。しかし、この題名はショスタコーヴィチが書いたスコアには存在しません。

 スターリンお気に入りの作家アレクセイ・トルストイは2月にこの曲のリハーサルを聴いて感動し、すぐさま『プラウダ』紙にその評を掲載しています。彼はショスタコーヴィチを「新しいダンテ」と呼び、「作曲家がロシア人であり、ヒトラーに怖気づくことはなかった。彼の交響曲にはナショナリズムに溢れていて、そこにはロシアの怒れる良心が語られている」と絶賛したのでした。これこそがソヴィエトにおける交響曲第7番の定式化された思想になり、ドイツとの戦争においてスターリンが必要としていた民族主義と愛国主義に訴えるイデオロギー上の重要な切り札となっていきます。ショスタコーヴィチは既に国際的な名声を獲得していた数少ないソヴィエトの作曲家のひとりであったことから、東側と西側の両面においてこのプロパガンダを展開する上で最適の人物と作品をスターリンが手にしたことになったのです。

 もちろん、作曲者ショスタコーヴィチにとっては与り知らないことであったことは言うまでもありません。こうして作曲者の意図とは全く関係なく、交響曲第7番は交響曲の歴史において前代未聞と言える複数の国家を跨ぐ政治的な意味或いは価値を背負い込んでいくことになります。


モスクワ初演
 3月20日、交響曲第7番のソヴィエトの首都で上演する準備のために、ショスタコーヴィチはボリショイ劇場管弦楽団と共に空路モスクワ入りをします。3月29日、再びサモスードの指揮でボリショイ劇場管弦楽団とモスクワ放送交響楽団の混成オーケストラによってモスクワ初演が行なわれました。ショスタコーヴィチ自身の言葉によるとモスクワでの公演は5回を数えたとされています(Information Bulletin ; Embassy of The Union of Soviet Socialist Republics - Special Issue - August 10, 1942)。

 演奏された場所は、モスクワにある労働組合の家の円柱ホール( the Hall of the Columns, House of the Trade Unions, Moscow)であったとされています。この演奏会の聴衆のひとりだった作家イリヤ・エレンブルグは、ホールの外の街に空襲警報のサイレンが鳴り続けているのにも気づかず、聴衆が最終楽章の音楽に陶酔して聴き入っていて、コンサート終了後、警戒態勢を取るように言われても、防空壕に駆け出す者はただひとりもいなかった、と語っています(ローレル・E・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』 )。

 ここで再びレニングラード放送局でショスタコーヴィチの出演をサポートしたオリガ・ベルゴーリツが登場します。ベルゴーリツはショスタコーヴィチがモスクワ、クイビシェフへと避難した後もレニングラードに残り、ラジオ放送を続けていましたが、3月1日、栄養失調で激しく衰弱したため空路モスクワへ送られてきました。その後回復した彼女はこのモスクワでの演奏会を聴きに行ってこう書いています。「割れんばかりの拍手喝采にこたえて、ショスタコーヴィチがステージに現われた。聴衆は総立ちになり、レニングラードの子にして守護者である彼に猛烈な拍手を送っていた。彼は興奮し、信じられないほどはにかみ、一筋の笑みも浮かべず、きまりわるげにお辞儀をして、聴衆にむかってうなずいていた。そして私は考えていた。『この男はヒトラーよりも強い』のだ。」(『オリガ・ベルゴーリツ回想』1979年)なお、演奏会の翌日、ベルゴーリツはショスタコーヴィチと再会しています。レニングラードの放送局で会ってから半年ぶりのことでしたが、そのときの会話の内容は残念ながら伝えられていません。

 4月1日、交響曲第7番のモスクワ初演をめぐるレニングラード放送局の特派員レポートがベルゴーリツによって作成されました。「これは私たちの音楽、怒りと挑発に満ちたレニングラードの9月の日々の音楽です。これは私たちについての音楽であり、私たちの親しい人びと、都市への侵入路での戦闘で死んだ、街路で斃れた、裸同然のアパートで死んでいったレニングラードの守り手たちの、涙なき大いなる悲しみをつづった音楽です。私たちはもう長いこと泣くことを止めてしまいました。なぜなら、私たちの悲しみが涙よりも深いからです。しかし、なぐさめの涙を押し殺しても、悲しみは私たちの命を殺すことはできませんでした。まさにそのことをこの第7交響曲が語っているのです。」(ベルゴーリツ『九百日』1957年、以上ソフィヤ・ヘーントワ著『驚くべきショスタコーヴィチ』 の引用

 ベルゴーリツは周囲の反対を押し切って包囲されているレニングラードに戻ります。4月20日、彼女が放送局に入り、その最初の仕事は交響曲第7番の話をすることでした。「私は放送協会の仲間たちに、ラジオではレニングラードの市民にこの話をしました。すると私たちの心に、『レニングラード交響曲』をレニングラードで演奏するこという夢が輝きだしたのです。」

 交響曲第7番がレニングラード封鎖下で初演されるにあたって、指揮者カール・エリアスベルクの尽力、スターリン主導の下、プロパガンダを目論む当局(初演を管理下に置いたレニングラード共産党の州委員会の書記を務めていたアンドレイ・ジダーノフとその補佐官だったアレクセイ・クズネツォフ等)、レニングラード市当局(文化問題担当)などの意向などが契機となったと一般的に言われていますが、事はすべて彼女がモスクワから持ち込んだ熱い思いから始まったのかもしれません。


ノヴォシビルスク初演(ムラヴィンスキー登場)

 スターリンによって動き出したプロパガンダ・キャンペーンは、まず国内各地でこの曲の演奏を繰り返すことから始まりました。このモスクワでの演奏に続き、十分な楽員を確保できたソヴィエトの諸都市、ノヴォシビルスク、タシケント、エレバンなどがこの曲の演奏に取り組んでいきます。レニングラード音楽院が避難していたタシケントでは、交響曲第7番の初演をラジオで聴いた同音楽院の教授でピアニストのパーヴェル・セレブリャーコフがレニングラード音楽院としてもここで演奏すべきと決意し、ショスタコーヴィチの友人のイサーク・グリークマンに頼んでスコアをクイビシェフまで取りに行ってもらい(列車で10日もかかった)、1942年6月に演奏にこぎつけたとされています(『Shostakovich : a life remembered』 by Elizabeth Wilson p.199)。

 これらの演奏会の模様はラジオで放送され、この作品についての記事が新聞や雑誌に絶え間なく掲載されていきます。ショスタコーヴィチの交響曲第5番の演奏で作曲者の信頼を得ていた指揮者エフゲニー・ムラヴィンスキーはレニングラード・フィルハーモニーと疎開先のノヴォシビルスクでこの曲を7月9日から4回にわたって、ショスタコーヴィチの立会いのもとで演奏しています(9日、11日、12日、15日)。この時のことをショスタコーヴィチは次のようにインタビューで語っています。「レニングラード・フィルハーモニーが私の最新の交響曲を演奏すると知って、私は直ちに飛行機でノヴォシビルスクへと飛んだ。・・・ムラヴィンスキーが指揮するレンニングラード・フィルハーモニーの演奏は1年近く聴いていなかったが、彼らの演奏はそれは素晴らしく、わずかな時間であるにもかかわらずそのリハーサルは完璧なものになった。(Information Bulletin ; Embassy of The Union of Soviet Socialist Republics - Special Issue - August 10, 1942)。

  ムラヴィンスキー  ムラヴィンスキー
   指揮者ムラヴィンスキーとショスタコーヴィチ       ノヴォシビルスク初演


 指揮者ムラヴィンスキーと彼が率いるオーケストラ、レニングラード・フィルハーモニーに対するショスタコーヴィチの信頼は絶大で、ノヴォシビルスクに来た時、「私は懐かしいレニングラードにいるのかと思った。はるかなるシベリアの中心でレニングラード特有の豊かな音楽文化に浸ることができた。」と語っています(河島みどり著『ムラヴィンスキーと私』 p.62)。さらにショスタコーヴィチは9月10日にノヴォシビルスクの新聞記者のインタビューに対して、「わが国では交響曲第7番は各地で演奏された。・・(中略)・・しかし作者である私にもっとも近いのはレニングラード・フィルのムラヴィンスキーの演奏である。」とも答えています(前掲書 p.63)。ショスタコーヴィチのムラヴィンスキーへの賛美は10年たってもまだ続き、1953年4月19日付けのムラヴィンスキー宛てのモスクワからの手紙には、「昨夜の交響曲第7番については、ただただ感謝あるのみです。最近のあなたのコンサート(レニングラードと昨夜の)は私に力と確信を与えてくれました。あなたの感嘆すべき完璧な演奏は、私でもときには音楽を作曲できるんだという自信を与えてくれます。」と書いています(前掲書 p.114)。

 余談ですが、歴史的名盤と言われているムラヴィンスキーのこの曲の録音はその手紙を書いた直前の1953年2月26日に行なわれています。この時のことについて、ムラヴィンスキーは「作品の感性を新鮮にすることができなかった1月の録音のあと、私はアトモスフェアと必然性をまったく失った。いま全精魂を傾けて、それを復活させねばならない。」と2月8日付けの日記に書いています(前掲書 p.112)。2月24日付けのショスタコーヴィチからムラヴィンスキーへの手紙には「私は今でも交響曲第7番のあなたの演奏を覚えています。私の記憶力は落ちてきましたが、それでもこのことだけは、はっきりと記憶しています。稽古でも本番でも第3楽章の最後の小節でオーケストラの『ミ』の音が聴こえませんでした。・・(中略)・・ともかくチェックしてください。稽古のとき、あなたに言うのを忘れました。たぶん、これは偶然起きたことなのでしょう。あなたがしてくださったことに対して熱い感謝を送ります。」と書き、2月27日付けの手紙には「私はムラヴィンスキー指揮レン・フィルの交響曲第7番の録音を聴きました。それは素晴らしい出来でした。」と書いています(前掲書 p.113)。

 つまり、ムラヴィンスキーは1月の末頃に録音された演奏が気に入らず、作曲者からもミスを指摘されて、翌2月26日に演奏し直したということになります。ライブ録音ならともかく、手間とコストのかかるスタジオ録音をボツにして再録音しようとするムラヴィンスキーのプロフェッショナルな行為には頭が下がります。ムラヴィンスキーはこの曲を度々演奏会で取り上げていますが、録音はこの時以来残していません。その2月26日の録音が作曲者から絶賛されたからでしょうか。ちなみに、その第3楽章の最後の小節はクラリネット3本とバス・クラリネット、ティンパニで実音の「ド♯」と「ミ」だけの和音を奏することになっていまして、2番クラリネットが吹く「ミ」の音がショスタコーヴィチには聴こえなかったことになります。最後7小節間その音を吹き伸ばし、しかもディミニュエンドしつつ、さらに morendo(消えていくように)させるため、最後の小節で息が続かなかったのか或いは音にならなくなったのかもしれません。なお、全く関係のない話ですが、この録音の1週間後にスターリンが世を去ります。

     Muravinsky    Muravinsky
            1953年録音のムラヴィンスキーCD(共に演奏は同じもの)


レニングラード初演
 この国内縦断キャンペーンの最終地点がドイツ軍によって包囲され日々攻撃に晒されているレニングラードになるということはおそらく早い時期に検討されていたと考えられます。レニングラード市民を元気付けることももちろん重要なことでしたが、それより何より、レニングラードで作曲され、その街を描いたソヴィエトの作曲家による交響曲をドイツ軍の爆弾が降る最中に演奏し、その模様を国内外にラジオ放送することでこのレニングラードの惨状を訴えつつ、人道的かつ勇敢なスターリン体制をアピールする絶好の機会と見做されていたのでした。まさにプロパガンダ・キャンペーンはここで最高潮を迎えることになります。

 1941年9月に始まったドイツ軍によるレニングラード包囲は1944年1月まで続き、とりわけ1941年から1942年にかけての冬の市内における惨状は数十万人の餓死者を出すに至ります。レニングラードの放送局では音楽番組を禁止されていたため音楽に代わって一日中メトロノームの音だけを放送し続けていたとされています。それは屋内のラジオからだけでなく、街の中に配置されたスピーカーから流されていたのでした。ところが突然当局から音楽を流すようにという指示に変わります。これは当時レニングラード党委員会書記だったアンドレイ・ジダーノフの提案とされています。後に「ジダーノフ批判(1948年)」という歴史に名だたる文化芸術粛清を行なうことになる人物ですが、本人ピアノが弾けたことからすると音楽の持つ役割のいくばくかは理解していたのかもしれません。これにより、レニングラード放送局に交響楽団が再結成され、楽員には食料の配給などで優遇されることになります。その指揮者にはカール・エリアスベルクが任命され、4月5日には最初の演奏会が開催され、40〜50人の楽団によって演奏されました。曲目は、ベートーヴェン、チャイコフスキー、R=コルサコフなどの作品だったとされています。そして7月、その指揮者エリアスベルクに対してプロパガンダ上の重大な任務が課されることになります。ショスタコーヴィチの交響曲第7番の準備に入るようにとの任務でした。

 7月の上旬、交響曲第7番のスコアは医薬品など重要物資と共にクイビシェフから特別軍用機でレニングラードへと運ばれました。ドイツ軍の戦闘機が飛び交う中をかいくぐってレニングラード北西に位置するラドガ湖の水面すれすれの飛行だったとされ、詳細の日時は不明ですが、レニングラードの新聞 Leningradskaya Pravda は7月2日と報じています(Leningrad: Siege and Symphony』by Brian Moynahan)。紙やペンなど不足していたものの、複写係りの一団が昼夜を徹してパート譜作りの作業に取り掛かります。それと平行して、通常の交響曲よりも多くの金管楽器奏者を必要とする曲であるために、特に金管楽器奏者探しに奔走しなければなりませんでした。戦場に出ているオーケストラのメンバーを戦場から戻すということは既に最優先事項としてレニングラード防衛の軍総司令官は認識されていたことは間違いありません。この時の軍総司令官は砲兵部隊出身のレオニード・ゴヴォロフに代わっていて、交響曲第7番の演奏に対しては、万全の支援を行うようジダーノフにきわめて近く、スターリンのお気に入りだった補佐官アレクセイ・クズネツォフが執り行っていました。

 最初にスコアを見た指揮者のエリアスベルクはレニングラードでこの曲の演奏が可能か疑問を持ったとされています。楽器の編成から大勢の奏者が必要であり、肉体的にも技術的にも多くのこと要求する作品だったからです。また、エリアスベルクとオーケストラにとって最大の問題は、ショスタコーヴィチとのコンタクトがないことであり、作曲者や既に演奏しているオーケストラからの情報が何もないことでした。当時テイーンエイジャーだったフルート奏者の Galina Fedorovna Yershova は、音楽学校を卒業する前に戦争になり、キーロフの工場で働いていたところ、ラジオで楽器を弾ける者は放送局に連絡するように言われてレニングラードのオーケストラに参加しました。譜面を見た彼女は、「私たちはこの曲を全く理解できませんでした。・・・それは恐ろしく難しく、複雑で、正直言って吹きたくありませんでした。」と思ったのでした( Leningrad: Siege and Symphony』 by Brian Moynahan )。

 はたしてリハーサルが始まると、多くの奏者たちからはどうしてこんな技術的に難しく、しかもあまり大衆的といえない難解な曲を演奏しなければならないのかと抵抗があったされています。しかし、エリアスベルクは不満を訴える団員に対して食糧の追加を渡さないと脅かすなど容赦なく彼らの抵抗を阻止したそうです。

 現在、こうした前線から呼び戻された奏者が弾けるようにとショスタコーヴィチは易しく曲を書いたと唱える音楽関係者がいるようですが、本当でしょうか。ショスタコーヴィチは交響曲第5番の初演以来、指揮者ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルハーモニーを高く評価していて(当時ヨーロッパ大陸最強?)、この曲の初演も彼らに演奏して欲しかったとされています。作曲家は難しいとか易しいとか考えて曲を書くことなどありえないし、頭の中で響いた音楽をそのまま音符に写したのではないでしょうか。マーラーは地方の歌劇場でワーグナーのオペラをわずか20数名のオーケストラを叱咤激励しながら指揮する合間に、壮大でかつ技術的に高度な交響曲の作曲もしていました。作曲家はその時の環境に左右されることはないのではないのでしょうか。もちろん、未知の技術、例えば楽器の性能やホールの音響という時代の制約は避けられなかったでしょう。さらに、戦時下に演奏して収入を得る必要から敢えて小編成の曲を書いた作曲家もいたことは事実です。しかし、この場合のショスタコーヴィチは、包囲されているレニングラードで演奏することは夢であっても現実には考えていなかったはずですし、それより世界中のトップクラスのオーケストラで演奏してもらう方の夢は密かに抱いていたと考えるのが自然はないでしょうか。つまりわざと易しく書いたとは考えられないのです。


 レニングラード レニングラード
            聖イサアク大聖堂前の対空砲           初演のチケットを購入する兵士       
 
 ドイツ軍は、ヒトラーの指示でレニングラード占領を8月9日と指定していました。これに対してソヴィエト当局はまさにその日に『レニングラード交響曲』のレニングラード初演をする日として指定したのでした。当日は、演奏会のためにレオニード・ゴヴォロフが周到に計画された大規模な軍事作戦を発動させてソヴィエト軍が激しい砲撃(3000発にも及ぶ砲撃とも)を行ったため、ドイツ軍の攻撃が止み満員の聴衆は砲声が聞こえないことにいぶかりながらコンサート会場に集まったとされています。この一斉砲撃によってドイツ軍砲兵部隊は大打撃を受け、ドイツ軍はこの演奏会が終わるまでの時間に体勢を立て直すことが出来なかったのでした。

 コンサートには市の防衛を司る最高指導者たちも来場し、客席は超満員の観客で溢れました。ラジオ中継されたこのコンサートの前に、「ドミートリー・ショスタコーヴィチが、闘いを訴え、勝利への信念を確信させてくれる交響曲を書きました」という短いアナウンスが流されました。この中継はレニングラード市内に設置された拡声器からも流されました。「てんでばらばらな服装を着た団員たちからなるオーケストラは、意気揚々と、緊張感をもって演奏をした。これらをすべて統率し、熱気を発散させていたのは、皮と骨ばかりになったエリアスベルクで、畑の案山子のような彼の体はいまも、ゆるゆるの燕尾服から飛び出しそうだった。(中略)最終楽章の演奏中、会場内の全員が立ち上がった。座って聴いていることなどできなかった。」(ソロモン・ヴォルコフ著『ショスタコーヴィチとスターリン』)


   エリアスベルク  レニングラード初演
    指揮者カール・エリアスベルク         レニングラード初演の模様       


 ゴヴォロフはソヴィエト軍陣地にスピーカーを配置しこの演奏会の模様をソヴィエト軍兵士も聴けるようにしたのはもちろんのこと、ドイツ軍にも聞こえるようにスピーカーをドイツ軍陣地にも向けました。また、国外のラジオからもこの交響曲は流されていて、ラジオでこの曲を聞いたドイツ兵が、戦後、ソヴィエトを訪れエリアスベルクに会って次のように語っています。「それはゆっくりとではあったが、強烈な効果を我々に及ぼした。我々にはレニングラードを決して落とせないだろうという実感がきざし始めた。しかし、何か他のことも起こり始めた。我々は飢餓、恐怖、死よりももっと力強い何かが、人間でいようとする意志があることを見はじめたのです。(ひのまどか著『戦火のシンフォニー 〜 レニングラード封鎖345日目の真実』)


     レニングラードのメンバー
                 1964年に再会したレニングラード初演メンバー
              中央が指揮者カール・エリアスベルクとショスタコーヴィチ




*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。
 


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