日本の音楽

 
                広重五十三次

   歌川広重『東海道五十三次 二川・猿ケ馬場』

 
■ 日本音楽の源流
 日本における音楽には2つの源流があり、5世紀頃からアジア大陸からもたらされた雅楽と、平安時代初期に同じくアジア大陸から渡来した盲人の琵琶法師による盲僧琵琶の2つとされています。諸説異論はもちろんありますが、西欧における「音楽の発展」との比較という観点からここではこの2つに絞って考察していきます。


■ 雅楽
 5世紀頃からアジア大陸からもたらされた雅楽は、伝来した中国、天竺、高麗など大陸系の音楽とあわせて日本古来の音楽や舞踊を所管する雅楽寮が創設されたのが始まりであるとされていて(大宝律令701年)、多くは器楽曲で宮廷音楽として継承されていきます。東大寺の大仏開眼法要の際には雅楽や伎楽が壮大に演じられるなど、宮廷や寺社における祭事において演奏されました。その後、雅楽は平氏や源氏の保護によって、都から西国や東国へと広がり、地方の神社の祭礼や寺の法会などで神楽として演奏されるようになります。

 また鎌倉時代の各地の武士の間で興った能楽も民衆の歌舞と共に、春と秋の例大祭や五穀豊穣を祈る祭事における祭祀として雅楽と共に組み込まれていったと考えられます。現在でも多くの寺社の境内に舞台が残っているのを見たことがあるかと思いますが、日本の地方における音楽は寺社における祭事の中に含まれていたことになります。

 伊勢神宮や出雲大社などの規模の大きい寺社では自前で楽人たちを抱えていたり、中央から楽人が派遣されていたとして、それ以外の小規模な寺社では地元からの調達になります。しかし、年2〜5回くらいの祭事だけのためにその土地に留まって職に奉じては生活はできません。そのため各地の祭事を巡らなければならない、つまり遍歴する楽人の存在がいたことが想定されるのです。

 一方、中央における雅楽は室町時代の応仁の乱をはじめとする戦乱の戦場となったことで、京都の楽人たちは地方へ四散し、宮中の雅楽の担い手であった貴族の多くが凋落していくことで多くの演奏技法や曲目が失われていきます。戦国時代にかけて宮廷音楽としての雅楽はほぼ断絶したとされていて、その復興は江戸幕府が楽師の末裔を集めて再編するのを待つしかありませんでした。しかし、江戸時代には能楽が江戸幕府の式楽として採用されていたことから、雅楽は伝統音楽として形式的に守られていたのに過ぎなかったと考えられます。しかし、複数の楽器で合奏する雅楽は、西欧音楽より900年以上も前に日本に存在したことから「世界最古のオーケストラ」とも呼ばれていて、音楽史上貴重な存在であったことは間違いありません。また、本家本元の中国を始め、韓国やベトナムなどでは、王朝がなくなったときに伝承が断絶したとされていて、現代まで残っているのは日本だけということになります。

*16世紀中期からのルネサンス音楽におけるヴェネツィア楽派の器楽合奏を、西欧における最初のオーケストラとして。


■ 琵琶法師
 一方、もうひとつの源流として挙げられるのが、平安時代初期にアジア大陸から渡来した盲人の琵琶法師による盲僧琵琶です。開祖は、17歳で失明した筑前の僧侶、玄清法印(766-823)とされていて、経文と共に楽器や歌声で仏を供養すれば成仏できるという「妙音成仏」の思想を説く宗教色の濃いものでした。しかし、宗教を離れた娯楽的な語りをする琵琶法師も現れ、鎌倉時代に平家物語を琵琶の演奏に合わせて語る「平曲」が完成され、「平家琵琶」と呼ばれるようになります。平家琵琶は盲僧琵琶と異なり、奏者達はひとつの職業として組織を作って活動範囲を広げていき、大名や寺社など地域の有力者達の仲立ちを得ながら平家物語を全国へと広めて行きます。


■ 音楽の担い手
 鎌倉末期の資料に、「九品念仏、管弦連歌、田楽、猿楽、呪師、クセ舞ヒ、乞食、非人」が近隣諸国から集まり、寺を建立したという記述があり、南北朝期の資料にも「道々の輩、白拍子、御子、田楽、呪師、猿楽、乞食、非人、盲聾病痾の類ひ」が信濃の諏訪神社の祭礼に集ったという記述があります。農業従事者を除く様々な職人或いは技術を有する人々が各地を巡っていたことがわかります。平安時代末期以降、こうした「道々の輩」には手に職能をもつ職人に交じって芸能に関わる人々が多くいて、「歩田楽、アルキ巫女、アルキ白拍子」などといった記述から全国とは言わないけれど一定の地域を遍歴していたと考えれられます。


■ 「無縁」
 こうした「道々の輩」は課役、関や渡しでの通行税などが免除される「無縁」という血縁や主従の関係を断ち切った人々であったとされています。ここでは詳しくは触れませんが、平安時代末期以降に主人や領主、大名などの支配や介入の及ばない場として「世を仕損なった」人たちが多くの寺社に流れ込んでいました。借金や罪、主従の縁や下人や奴隷として働かされた縁もその中に駆け込めば、借金は消え、罪は問われなくなり、主人は追って来られなくなるといった無縁の場を寺社が提供していたのです。有縁の世から逃れ、無縁世界で一時の命を繋ぎそこから再起を賭けようと僧侶になるだけでなく世俗的な様々な職能を身につけていった人々がいたと考えられています。そのすべてが遍歴していたわけではありませんが、とりわけ音楽に携わる人々はその職の性格から遍歴せざるを得ませんでした。しかし、どの土地に行っても「無縁」なる場はあり、一時の生活場は保証されていたと考えられます。こうした場は寺社だけでなく各地の交通の要所であった関や湊などにも存在したと考えられています。

 「無縁」の人びとには、農業民や貴族、武士階級を除く、海や山で暮らす海民、山民、鍛冶・鋳物師などの手工業者、陰陽師・医師・歌人などの知識人、博奕打・囲碁打などの勝負師、巫女・勧進聖・説教師などの宗教人、さまざまな商人・交易人などで構成されていました。そして、この中に楽人・舞人・獅子舞・遊女・白拍子などの芸能民が多数確認されていて、もちろんその中に琵琶法師の類も多くいたと考えられます。

 なお、この無縁社会は近世になると大名権力の強大化にともなって消滅したとされています。江戸時代によく知られた「縁切寺=駆込寺」は既に鎌倉時代後期には一部の寺が行なっていたとされていますが、これは中世における「無縁」のなごりと考えられます。


■ 日本の宗教と音楽
 西欧におけるキリスト教会は各地に出現した音楽の才に秀でた若者を引き取って育て、教会における宗教活動の一部を担わせることが結果的に西欧音楽の発展に寄与したと考えられますが、日本においてはどうだったのでしょうか。寺社に集まった人々の中で音楽の才がありそうな人をその道に導くという形を見ると西欧のそれと同じように見えます。しかし、偶像崇拝の禁止をしたキリスト教が布教のために音楽という抽象的な道具を必要とした西欧の場合と異なり、日本の宗教にはそのような縛りがない分、音楽のニーズはそれほど高くなかったと考えられます。日常お寺で聞かれるのは読経と木魚と鉦であり、大きな神社でこそ雅楽の調べは流れたとしても、地方の寺社には仏像とご神体があれば器楽演奏や合唱隊がなくても宗教活動としてはそれで事足りていたのでした。

 地方の寺社にとって、楽人・舞人・獅子舞・遊女・白拍子などの芸能民は年数回の祭事のときのみ必要としていたため、音楽の才能がある若者を積極的に育てる必要はなく、祭事をつつがなく執り行ってくれる芸能民が来てくれれば事足りたのでした。さらに、宮廷や京都の寺社を除く地方の雅楽にせよ、琵琶法師にせよ、「無縁」であるがゆえにそこには親子世襲はなく(*)、技術の受け渡しはあっても、遍歴という環境のもとでは日々の演奏に支障を来さない程度のものにすぎなかったと考えられます。ある地方に何々囃子の超名人が出現し、各地を巡った後に中央に進出し、その技術が全国に伝播したという例がないのは、そういった西欧における音楽家を受け容れる環境と都市間のネットワークがなかった、つまり音楽の発展に不可欠な才能の発掘とその教育、そしてその才能を伸ばすのに必要な他地域との交流を可能にする環境が日本には存在しなかったと言えるではないでしょうか。

 *結果的に親から子へ受け継がれることはあっても、子に才がなければ生活のために別の職を手にさせる、つまり日本の伝統芸能によくある世襲相伝という概念はなかったと考えられます。
 **京都や奈良の寺社では「職掌人」として獅子舞、巫女、田楽、舞人、陪従など抱えていたとされています。


■ 「座」の成立
 平安時代末期に成立した「座」は同一職人たちが商工業上の特権を得たことから始まった同業者組合であることはよく知られていますが、芸能の世界においても似たような組織が生まれていきます。

 琵琶法師は盲人による琵琶、平曲、鍼灸、導引、箏曲、三弦などの団体を「当道座」とし、室町時代には盲人の自治組織として幕府によって公認されていきます。これは江戸時代にも引き継がれ、京都や江戸に惣検校が置かれて幕府によって組織されるようになります。こうした背景をもとに座頭市のような話が生まれたということになります。

 「当道座」は男性のみが属することが出来る組織だったとされていましたので、では女性の場合はどうだったのでしょうか。盲目の女性を示す「瞽女(ごぜ)」は室町時代前期には資料に登場し、その後「瞽女座」にあたる「瞽女屋敷」などと称される組織が形成されたと考えられています。「瞽女」は、目明きの手引きに連れられて三味線や胡弓を携えて村々を唄をもって渡り歩いた門付巡業の旅芸人でした。江戸時代には富家の子女に弾き方を教えたり、宴席で演奏を行う者も現れますが、その多くは都で流行った浄瑠璃などを演奏する旅芸人として各地を巡っていました。瞽女は葛飾北斎『北斎漫画』や歌川広重の『東海道五十三次 二川・猿ケ馬場』にも描かれていることから、ごく普通に見かけることができる存在だったと考えられます。

 *織田信長による「楽市・楽座」で頂点を築いた後、豊臣秀吉によって「座」は解体されていきます。その盛衰の時期と過程がこの「無縁」と類似していることは興味深いところです。


■ 無縁から被差別民へ
 平安時代末期以降、ひと処に留まらず遍歴していた人びとの中には、葬送にたずさわっていた私度僧、非人、乞食なども含んでいました。こうしたことから「無縁」の人びとには貧・飢・賤と結びつく暗いイメージが存在していて、音楽に携わる楽人・舞人・獅子舞・遊女・白拍子などの芸能民もその例外ではありませんでした。こうした遍歴する「道々の輩」は、江戸時代には「穢多・非人」といった被差別身分として収斂していきます。皮革業に携わる人々が被差別身分として固定化されて被差別部落に定住化していったことはよく知られていることです。琵琶法師は幕府によって組織化されますが、多くの楽人たちは、寺社や関、湊などの交通の要所が幕府によって管理されるに及んで、生活の基盤だった「無縁」の場所を失い、さらに、かつて「無縁」であるがゆえに自由に移動ができたのですが、それも幕府の通行手形などによる管理の元に、自由が制限されていきました。こうした中で、地方の寺社などを遍歴する楽人たちは被差民的な扱いを受けつつ、社会の底辺で細々と音楽を続けていたことになります。

 平安時代末期にあたるヨーロッパはというと ルネサンス時代の到来には200年以上も待たなければなりません。その後、西欧音楽はローマ・カトリック教会を中心としてルネサンス期(15世紀〜16世紀)からバロック期(17世紀〜18世紀)へと大きくはばたくことになります。日本では宗教が音楽を支えたのではなく、遍歴する楽人たちが音楽を担っていたのであり、その生活基盤の弱さ、被差別的な扱いがゆえに音楽の才能の発掘や音楽の発展という面では停滞せざるを得なかったと考えられるのです。


■ 能楽
 日本の伝統芸能を語る上で能楽に触れないわけにはいきません。能楽は奈良時代に大陸から伝わった「散楽」が源流とされています。平安時代に入ると滑稽な寸劇が人気を集めて「猿楽」と呼ばれるようになり、神社の祭礼や京都・奈良の大寺院での新年を迎える法会などで盛んに演じられていました。南北朝時代から室町時代にかけて、猿楽は座となって諸国を巡るようになります。大和国に本拠を置いた大和猿楽四座のうち、観世座の始祖である観阿弥とその子である世阿弥によって能楽は飛躍的に発展していきます。足利義満などの将軍や公家らによって保護を受けたこともあり、武家の酒宴の席などでも武士が自ら「能」を舞い、「謡」を謡うようになります。

 能楽は舞・謡・囃子の三要素からなりますが、その中から能の歌詞である謡曲を能から離れて謡う、いわゆる「謡」が流行し、同好の人々が集まり「謡」を楽しむ「謡講」が武士や公家のみならず、町人階層にも広まっていきます。そしてこの「謡」も戦国時代から江戸時代にかけて遍歴する楽人たちによって各地へと伝えられていったのでした。一方武家社会における能は、応仁の乱以降将軍や公家の後ろ盾を失いますが、安土桃山時代には豊臣秀吉、江戸時代には徳川家康に保護され、のちに江戸幕府の儀式に欠かせない式楽となっていきます。

 *雅楽と能楽:使われる楽器は異なりますが、能楽は雅楽の影響を少なからず受けていたと考えられます。共に演じられる場も多くは寺社の祭事であり、次第に庶民の間に広まっていきますが、「謡」を自ら謡えることから能楽の方がより庶民的なものだったと言えると思います。

 世阿弥(1363年-1443年)の日本芸能史における功績は大きく『風姿花伝』などの多くの伝書は、レオナルド・ダ・ヴィンチが生まれるおよそ50年前に著わされていたことを考えると、才能ある人物の出現は時代と洋の東西を問わないことを痛切に感じさせられます。世阿弥には溢れるばかりの才能があったことは間違いありませんが、その成長と活躍を実現させたのが父観阿弥の存在、座という組織、時の将軍の寵愛であった、つまり環境が整っていたからだと考えられます。このことは日本の音楽史上、かなりめずらしいことだっとも言えるのではないでしょうか。しかし、世阿弥の残した伝書の多くは秘伝とされ、そのことが日本の音楽が発展できないことに繋がったとも言えるかもしれません。

 能楽における音楽について専門家ではないので詳細を述べることはできないのですが、個人的な印象としては、世阿弥が到達した領域は、ルネサンス以降500年という年月をかけて西欧の音楽(の一部)がやっと到達できたそれに匹敵するのではないかと思っています(牽強付会の誹りを免れないかもしれませんが)。戦後の西欧音楽は、新ウィーン楽派から無調音楽、トーン・クラスター、ミニマル・ミュージックなど派手な装いで前衛音楽を推し進めていきましたが、いつの間にか聴衆を置き去りにしてしまいました。そんな中、ヨーロッパの辺縁地帯出身の作曲家たちが、簡素な和声、単純なリズムを採用することで西洋音楽の根源へと回帰しようとする作品を書き始めました。それが、アルヴォ・ペルト(エストニア)、ヴァレンティン・シルヴェストロフ(ウクライナ)などの現代作曲家で、彼らの音楽には能楽を連想させるものがあるのです。彼らが能楽を見聞きしたことはないと思いますが、行きついた先の音楽が世阿弥らが打ち立てた世界に共通する何か、人間の心を揺さぶる何かを見出したと考えるのはいかがでしょうか。


■ あとがき
 この「無縁」という概念は、私が大学2年の時に刊行された『無縁・公界・楽』という網野善彦氏の著述に依るものです。日本の中世史をユニークな視点から解き明かす著作で、当時の歴史学会に一石を投じたものでした。この説を批判し、或いは無視していた閉鎖的な歴史学会に失望した私は大学院に進むことを断念して商社に就職したのでした(少々大げさですが)。最近この書を読み返す機会があり、芸能に携わる人々が「無縁」の中にいたということを知って、このことこそ、日本における音楽の行方を大きく左右したのではないか、という発想を元に仮説を立てて推論を展開してみたという次第であります。暴論かもしれませんが・・・。


参考文献:
網野善彦『無縁・公界・楽〜日本中世の自由と平和』1978年、増補版(1992年)平凡社



(2025年9月9日)

 

                  ≪ 前のページ ≫        ≪ 目次に戻る ≫      

Copyright (C) Libraria Musica. All rights reserved.