西欧音楽の発展
■ キリスト教における音楽
キリスト教がローマ・カトリック教会と東方正教会とに分裂する以前からグレゴリオ聖歌を中心とした典礼音楽が行事の中に組み込まれていたことはよく知られています。また、その音楽を記譜したものも残っています。しかし、ローマ・カトリック教会においてはその言語はラテン語であり、文字が読めない人々を含む全て住民を対象としてはいなかったとも考えられます。或いは、一般会衆たちは参列していても何を言っているのかはわからないままに、単に従っていたにすぎなかったのかもしれません。
■ ルターが果たした役割
そこに現れたのがマルティン・ルターです。腐敗したカトリック教会を何とかしようとしてプロテスタントを立ち上げた人物ですが、ルターが1524年に出版した『讃美歌集』が西欧音楽発展の大きな転換点となったと考えられます。この歌集は、ドイツ語で書かれているために一般会衆でも理解できるもので、これを元にルターはさらに信徒が歌うシンプルな「讃美歌」を礼拝に導入しました。これによってローマ・カトリック教会における専門集団としての合唱団がいなくても歌えるということになったのです。つまり、片田舎にある小さな教会でも音楽が鳴り響きえたことを意味します。ルターの意図したのは庶民の間にキリスト教を広めていくことにあったと言えるのです。
■ 偶像崇拝の禁止
こうしたルターらによる活動を妨げていた大きな問題はカトリックとの対立であったことは当然のことでしたが、他にもあったのでした。それはキリスト教の根源に関わることで、プロテスタントだけでなくカトリックにおいても課題とされていたことでしたが、それは「偶像崇拝の禁止」という問題でした。これは旧約聖書の十戒に基づくもので、キリストの像や絵画などを掲げて崇拝させることが禁止されていたということです。つまり、文字も読めない庶民たちを導く最も簡易な方法が封じられていたのでした。
■ キリスト教における音楽の役割
キリストの像や絵画を使わずにキリストの生涯や行ないをもって人々を感銘させ、キリストの教えを納得させる様々な方法が考えられた中で、最も一般的だったのが、「教会での劇」とされています。中世に典礼の一部として始まった典礼劇や、キリストの誕生・受難・復活の物語を演じる聖史劇、クリスマスに行われる降誕劇などがそれにあたります。これらは、聖書の物語や教義を視覚的に、かつ感覚的に理解させることを目的として上演されましたが、こうした劇には必ず音楽が伴っていたことは想像に難くありません。つまり、音楽という抽象性がキリスト教の教えに見事に適合したということになります。もちろん、キリスト教会には古くから典礼音楽が存在していましたが、西欧音楽のベースをなしていたことはあってもその典礼音楽から西欧音楽が直接発展していったということは考えにくいところです。
*こうした演劇がのちにオペラへと発展するいくつかのルートのひとつに数えられます。
■ 天才の発掘
こうした演劇や音楽を利用してキリストの教えを広めていく教会にとって、その演劇や音楽の担い手を手元に置いておく必要があり、このことがその土地の人材発掘の素地にあったと考えられるのです。とりわけ料理屋などで日常的に音楽が演奏されていたボヘミア地方では、その中で特に優れた若者を教会が引き取って音楽教育を施していたということは近年の研究で明らかになっています。
*ボヘミアでは「チェコ人は皆、枕の下にヴァイオリンを持って生まれてくる」という古い諺があるそうです。
■ 天才の発掘〜もうひとつのルート
17世紀中頃に三十年戦争が終結して世の中が安定しだすと、宮廷や地方の貴族社会は次第に音楽家を集め始めます。宮廷や地方の貴族社会では教会とは異なり、貧しいけれど才能のある人材を雇い入れることはなかったのですが、常に楽士たちを世襲に近いかたちで確保していたと考えられます。しかし、一方でよその国からやってくる優れた人材も受け入れていたこともよく知られています。ウィーンの宮廷にはイタリアの音楽家が集結し、フリードリヒ大王の元にはボヘミアのフランツ・ベンダらがいました。ハレ大聖堂のオルガン奏者としてキャリアをスタートさせたヘンデルは、メディチ家に乞われてイタリアに行き、次いでハノーファー選帝侯の宮廷楽長となり、その後ロンドンに移住します。当時のロンドンはイタリア人の作曲家に支配されていました。
このフリードリヒ2世が亡くなる10年前に生まれたのがモーツァルトです。そのモーツァルトの父親はザルツブルクの宮廷作曲家、ベートーヴェンの祖父はボンのケルン選帝侯宮廷の楽長でした。バッハも父親はアイゼナハの宮廷音楽家で、15歳の時に聖ミカエル教会付属の学校の給費生となっています。バッハはまさにこうした教会による人材発掘の恩恵を受けていたことになります。
■ 西欧音楽の発展の起点
バッハが最初に手にした音楽教材はこのルターの『讃美歌集』だったとという説がありますが(最初かどうかは検証が必要です)、この歌集が西欧音楽発展の起点とも言えるのではないでしょうか。そして実際に「発展」に寄与していくのが、バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ベートーヴェンといった天才たちだったと、月並みな結論になってしまいますが、そんなところでしょうか。
■ イタリアからドイツへ
イタリア音楽の終着点がオペラであると考えると教会音楽とは別のルートにおけるモンテヴェルディの存在は大きかったことは間違いないでしょう。モンテヴェルディはオペラではセリアだけだと思いますが、そのセリアはのちにモーツァルトとロッシーニに繋がり、ブッファはペルゴレージ、パイジェルロからモーツァルトとロッシーニへと分岐していきます。モーツァルトのすごいところは、ウィーンを支配していたイタリア音楽から吸収するだけでなくバッハからも多くを取り入れたところです(『魔笛』など)。西欧音楽の発展というお題からすると、モーツァルトがウィーンでイタリア音楽を相克し、ヘンデルがロンドンでイタリア音楽を凌駕したことを考えると、イタリア音楽はオペラという傍流に行かざるを得なかったということでしょうか。なお、バッハのちょうど100年前に生まれ、「ドイツ音楽の父」と称されたハインリヒ・シュッツはヴェネツィアを訪問してモンテヴェルディから多くを学び、その新しい様式を持ち帰っています。シュッツは宿屋の次男坊でしたが、音楽の才能を見出されてカッセルの教会学校の歌手となり、最初はヴェネツィアのジョヴァンニ・ガブリエリに師事し、帰国後はドレスデンの楽長職に就任しています。
■ 西欧音楽の発展を支えた都市間の交流
オペラの分野でも優れた功績を遺す一方、世俗音楽である器楽曲の分野で大きな業績を残したのがヴィヴァルディです。バッハがヴィヴァルディの協奏曲を多数編曲したことはよく知られています。さらに、ドイツの名ヴァイオリニストであったヨハン・ゲオルク・ピゼンデルはライプツィヒでバッハに会っていますが、その後イタリアでヴィヴァルディに師事しています。ドレスデン宮廷管弦楽団のコンサートマスターの職にあった頃、後にプロイセン王国のフリードリヒ大王に仕えることになるフランツ・ベンダらを育てています。ピゼンデルは、選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の要請により、ヨーロッパにおけるドレスデンの文化の代表として、1714年にパリ、1715年にベルリン、 1716年にヴェネツィアへと派遣されいる点を見ると、三十年戦争(1618-1648年)後の西欧における都市間の交流が西欧音楽発展に大きく貢献していたと考えられます。また、各地の教会がその土地の文化を支え、とりわけ音楽の才能のあるポテンシャルの発掘に勤しんだことも見逃すことはできません(もちろんそこには宮廷や貴族の存在もありました)。富の集中につられて優れた音楽家もそこに集まっていったことは、18-19世紀の間に主要なチェコの作曲家59人中でウィーンなどのチェコ国外で活躍した作曲家は42人もいたことからも明らかです。フランツ・ベンダもボヘミア出身のヴァイオリニスト及び作曲家でした。
■ 最後に交流に関する例を2つ示すとします。
1786年にハイドンが作曲した『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』という管弦楽曲は、スペインのカディス大聖堂からの委嘱作品でした。ハイドンはこの後、弦楽四重奏、鍵盤楽器バージョンに編曲し、さらにロンドンで聴いたヘンデルのオラトリオに感銘を受けてオラトリオ版までも作ってしまいます。ウィーンの作曲家がロンドンでドイツ人作曲家の宗教曲を聴いてその影響を受けるいう図式も面白いですが、このカディスという街でも興味深い話しがあります。
カディスにあるサンタ・クエバ礼拝堂では、毎年聖週間の聖金曜日になると、このハイドンが作った『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』が演奏されるとのことです。この曲は、福音書に書かれた「キリストの十字架上での7つの言葉」をひとつづつ読み、その間で瞑想する時間に音楽が演奏されるかたちになっていますが、このカディスでは読むだけではなく演劇も行われたとされ、それをかのマヌエル・デ・ファリャが少年時代に観て感銘を受けたことを語っているのです。ファリャ少年が聴いたハイドンの音楽が彼の音楽のどの部分に影響を及ぼしたかはわかりませんが、教会のネットワークを通じてウィーンからスペインへと最先端の音楽が伝播し、その100数年後に作曲家の卵の背中を押したという話はとても興味深いところです。
ドヴォルザークの交響曲第6番を調べていてわかったことなのですが、ドヴォルザークはプラハのオルガン学校に通うまで約3年間、ズロニツェ出身の教師、教会のオルガン奏者、作曲家であったアントニーン・リーマンにヴァイオリン、ピアノ、オルガンの演奏を教わっています。そのドヴォルザークが最初に海外での名声を得たのは宗教曲で、場所は当時合唱王国として知られていたイギリスでした。その後交響曲第7番をイギリスから委嘱され、その直前、交響曲第6番はウィーン・フィルで演奏してもらうよう必死に作曲しています。その後の新世界交響曲は米国産であることは言うまでもありません。ドヴォルザークは教会音楽を契機にキャリアを高め、インターナションルな活動を通じて各地にその足跡を残しています。つまりその地の音楽の発展に貢献したということになります。
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『ドヴォルザークの深謀遠慮〜交響曲第6番をめぐって』参照
(2025年9月9日)
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