モーツァルト:歌劇『魔笛』

第6章 『魔笛』のルーツ 4 〜シカネーダーの『賢者の石』

 
                 『賢者の石』

『賢者の石』のCD

マーティン・パールマン指揮ボストン・バロック


 シカネーダーはフライハウス劇場で『魔笛』上演に先立つ約2年間に19編の芝居を制作したとされ、その中には『魔笛』の前身のひとつとされるジングシュピール(歌芝居)『賢者の石、または魔法の島 Der Stein der Weisen, oder Die Zauberinsel』があります(1790年9月11日初演、『魔笛』の1年前。)。初演から少なくとも24年間にわたって上演され続けた当時としては例外的にヒット作品でした。

 この作品もヴィーラントの『ジンニスタン或いは妖精精霊物語選』から見つけた妖精物語に基づいています。なおこの『賢者の石、または魔法の島』は、映画化されて有名になった『ハリー・ポッターと賢者の石』のストーリーとは無関係です。しかし、「賢者の石」は中世のヨーロッパにおいて錬金術師らによって盛んに探求されたもので、金属を黄金に変え、飲んだ者を不死にする命の水を生み出す伝説の石とされていて、ヴィーラントもそうした伝説や言い伝えを収集したと考えられますのでルーツは同じだと考えられます。

 このシカネーダーによるジングシュール『賢者の石』の作曲者は特定されていませんでしたが、近年発見された筆写譜の中に複数の作曲者の名前が記されていて、曲によって作曲が分担されていた事実が判明したのです。しかも驚いたことにその中にモーツァルトの名前が書かれている曲が3つもあったのでした。

 マーティン・パールマン指揮ボストン・バロックの演奏が収録されているこの曲のCDのブックレットには指揮者パールマン自身の文章が掲載されていて、それによるとシカネーダーが急いで仕上げなければならない事情を抱えていて一座の5人の人物が担当したと推測し、しかもその5人共1年後の『魔笛』初演の際になんらかの役割を担っている事実を確認したのでした。その5人とは、ヨハン・バプティスト・ハンネベルク(『魔笛』初演後3回目の指揮を担当)、ベネディクト・シャック(『魔笛』でタミーノを歌う)、フランツ・クサヴァ・ゲルル(『魔笛』でザラストロを歌う)、それにシカネーダー(『魔笛』でパパゲーノを歌う)とモーツァルトでした。シャックとゲルルは前述の『山だしの馬鹿な庭師』(1789年シカネーダーの台本によるジングシュピール)の作曲者でもありました。

 舞台はピラミッドが聳えるアルカディア島、統治者の養子ナディールとその恋人ナディーネ、及び森番のルバーノとその妻ルバナーラの2つのカップルに対して悪習に捕らわれているとして共に相手の女性たちが取り上げられます。ナディールとルバーナは善良な神アストロモンテ、邪悪な神オイティフロンテのもとで幾多の試練を受け、最後は試練に打ち克って共に自分の相手の女性を取り戻し、ナディールとナディーネはめでたく結ばれるという物語。ただ、題名の『賢者の石』という石は第2幕に由来の説明があったきりで、実際に出てくるのは死んだナディールを生き返らせるという奇跡を起こすだけに唐突に現れるというのがいかにもシカネーダーらしいところでしょうか。

 この2つのカップルが、『魔笛』のタミーノ/パミーナ、パパゲーノ/パパゲーナに、2人の神がザラストロと夜の女王にそれぞれ対応する点、奪われた女性を取り返すために試練に向かうなど、どこか『魔笛』を連想させるものになっています。また『魔笛』で気絶したタミーノを誰が番をするかで3人の侍女が争うシーンは、明らかに『賢者の石』で4人の少女が鳥をめぐって奪い合うシーンから引き継いだものと言えます。舞台装置においても、空飛ぶ乗り物が現れることや雷が鳴り響く点、地下(奈落)から出たり入ったりさせるなどシカネーダーのお得意技をふんだんに盛り込んでいるところも『魔笛』と共通しています。『魔笛』の第2幕においてタミーノとパミーナが受ける水と火の試練に対応するところは、ナディールとルバーノの2人の乗った船が難破することと魔法の剣を鍛える鍛冶場で怯えるシーンと考えられます。

 ルバーノのアリア「恋とはおかしなもの」の冒頭はモーツァルトが作曲したディヴェルティメント K.138 とそっくりで、『魔笛』第2幕のパパゲーノのアリア「恋人か女房が」と類似していますが、元々この曲は当時流行っていた「鳥刺しの歌」というドイツのシュヴァーベン地方の民謡だとされています(初演では共にシカネーダーが歌っています。)。他には、モーツァルトの歌曲(第1幕ルバナーラのアリア)、弦楽四重奏曲第17番『狩』 K.458 (第1幕精霊が空からやって来きて歌う箇所)などがあり、さらには、『魔笛』のモノスタトスの歌、パパゲーノのアリア「恋人か女房がいれば」、タミーノと弁者とのシーンなどを思わせる箇所があります。

 また、『賢者の石』第1幕アストロモンテが歌うテノールの技巧的なアリアは、本来ソプラノに与える予定でしたが、当時シカネーダー一座のソプラノ歌手ヨゼーファ・ホーファー(モーツァルトの義姉で前述の『オベロン』でも歌っている)が育児休暇中であったために急遽テノールのアリアに変更したのではないかと推測されています。なお、育休が明けた彼女は『魔笛』の初演では超絶技巧で有名な夜の女王のアリアを歌うことでその名を歴史に残しています。

 『賢者の石』の作曲者のひとりベネディクト・シャックの家をモーツァルトが訪ねた時、シャックが席を外した隙に彼の作曲中の譜面にモーツァルトが音符を書き足したことがあったらしいという話も伝わっているくらいです。この作品ではひとりの作曲家の楽想が他の仲間にも共有することで作曲の作業効率を上げていたと考えられ、どの曲が誰の作品であるか、モーツァルトが他の作曲家の書いた曲にどれほど手を加えたかを特定することは困難とのことですが、モーツァルトを匂わせるフレーズが随所に聴かれるのは事実です。このCDの指揮者マーティン・パールマンも「『魔笛』は天才作曲家がひとりで書き上げてものと見做されてきたが、シカネーダー一座によって委嘱されたメルヘン・オペラ(おとぎ話を題材とするオペラ)の輝かしい集大成であると言ってもいい」と書いています。

 『賢者の石』の中でモーツァルトが書いたとされる曲は3曲。第2幕でルバーノとルバナーラが歌うデュエット。「愛しい妻よ、一緒に戻ろう」では魔法で猫にされたルバナーラは「ミャウ、ミャウ」と鳴き声を発するだけで、しまいには2人して「ミャウ、ミャウ」とコミカルに歌うところと、同じく第2幕のフィナーレで「ミャウ、ミャウ」と歌うところはモーツァルト作とされています(下図参照。右上にMozartの名前が記されています。) 
                                                    
    譜面 手書き                    

 余談ですが、後にロッシーニが『猫の二重唱』という曲を作曲しています(近年の研究では別の作曲家の作品とロッシーニのオペラの一節をつなぎ合わせた曲とされています。)。両作品共猫の鳴き声を歌にしています。

『賢者の石』第2幕フィナーレの映像
https://www.youtube.com/watch?v=llo7zr1PnZ8

伝ロッシーニ作曲『猫の二重唱』キリ・テ・カナワとノルマ・バロウズの映像
https://www.youtube.com/watch?v=QNyR6rsGDyg


*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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