アンドレ・プレヴィン〜GIGI 1. The Parisians 2. I Remember It Well 3. A Toujours 4. It's a Bore 5. Aunt Alicia's March 6. Thank Heaven for Little Girls 7. Gigi 8. She is Not Thinking of Me
このアルバム『GIGI』は1958年4月7日と8日にロサンジェルスのスタジオで録音されていますが、実はその翌月公開されたヴィンセント・ミネリ監督の映画『GIGI(恋の手ほどき)』の音楽をプレヴィンがジャズ・アレンジしたものです。レコードのジャケットに
Modern jazz performances of songs fromGIGI
というタイトルを見ると、2年前の1956年8月17日に同じロスのスタジオで制作されたアルバム『マイ・フェア・レディ』のジャケットと同じであることに気付きます。このレコードのジャケットにもModern
jazz performances of songs from MY FAIR LADY
というタイトルの書かれ方がしているのです。映画『GIGI』もミュージカル『マイ・フェア・レディ』も共に作曲したのがフレデリック・ロウ、映画『GIGI』とのちに映画化された『マイ・フェア・レディ(1964年)』の編曲と指揮をしたのがアンドレ・プレヴィンであり、どちらの映画でもプレヴィンは音楽部門のアカデミー賞を受賞しています。
The Parisians :
ジジは毎週火曜日に、学校から帰ると大叔母のアリシアの家に行って行儀作法の指導を受けています。原作によるとかつては社交界でならした貴婦人で、スペインの王様の恋人だったこともあるいう大叔母アリシア(マミタ夫人の姉。原作では妹。)は、美しい過去に生きることを選んで独身を貫いているのですが、淑女としての立ち居振る舞いや食卓でのマナー、殿方を喜ばせる技、本物の宝石の見分け方など、ゆくゆくは社交界の花形に仕立てようとジジを優しく時には厳しく指導しているのでした(原作ではただの貴婦人ではなく、お金持ちの愛人にするためなのですが、映画ではそこはソフトに変更されています。)マミタ夫人の発言の「ジジのこと、少し発育が遅れているのではないか。で、ジジを仕込んでくれています。」、「あの娘はまるで10歳のねんねみたいなの。」などから類推すると、必ずしも社交界だけを意識したものではないのかもしれませんが、父親が不在で、母親が働きに出ているジジに対して皆が心配して大切に育てていることがわかります。ジジの男の子のような身のこなしや振る舞い、その言葉遣いからは、ふたりの老婦人を呆れさせる一方で、それによってジジの純真さや天真爛漫さがよく伝わってきます。
1曲目の The Parisians
は、大叔母のところで淑女のマナーのレッスンが終わってから、その帰り道に公園を抜けて行くシーンで主人公ジジが歌う最初の曲です。「パリの人はいつも恋のことしか頭にない」、「あたしはパリジャンが理解できない。機会さえあれば恋をする。」と、ゴシップ紙が書きたてる社交界での男女の噂話しや公園で目に入るカップルの姿にうんざりしながら歌います。年齢のわりには遅れていると日頃言われているジジを上手に描写しています。なお、このシーンは原作にはありません。マミタ夫人らの会話の中で描かれるジジの人となりを本人の歌で表現していることになります。
プレヴィンとその仲間たちは、ベル・エポックのパリ或いは映画製作当時の1950年代のパリという意識はさらさらなく、西海岸の明るい太陽と爽やかな風に吹かれる無邪気なジジを、ノリのいいレッド・ミッチェルのベースのリズムをバックに駆け回るプレヴィンのピアノで表現します。アルバムのオープニングに華やかなインプロビゼーションを持ってくるあたりプレヴィンの自信の程が窺えますが、決して攻撃的にはならないところが彼の持ち味といえます。このスマートで洒落っ気溢れるスタイルによって、華やかさと純真さを同時に描く映画『
GIGI
』の枠から外れることを防いでいます。また、シェリー・マンのドラムは終始控えめながら、時折効果的なスパイスを効かせるなど大きな存在感を示しています。なお、CDのブックレットでは1930年代に流行ったカウント・ベイシーが演奏する
Topsyのテイストがそこにはあることを指摘しています。この曲は YouTube で聴くことができます。
The Parisians
I Remember It Well
:
ジジの家には大富豪の御曹司ガストン・ラシャイユが時々遊びに来ます。原作では、マミタ夫人はガストンの父親と知り合いという設定ですが、映画ではガストンの叔父オノレ・ラシャイユが元の恋人であったということになっています。パリの社交界で常に注目を浴び、常にゴシップ紙の表紙を飾るという生活をしているガストンにとって、ジジの家は「あそこは僕の憩いの場です」と言わしめる大切な場所だったのです。いつもジジにはお菓子のボンボンを買ってきてあげ、トランプではいつもズルをするジジと楽しそうに相手をするのでした。
ジジと祖母のマミタがガストンに招待されて海岸に遊びに行った時、同じ場所に遊びに来ていたガストンの叔父オノレ・ラシャイユがマミタと思いがけなく出会います。オノレ・ラシャイユは自らの職業を「恋と美しく若い女性のコレクションをすること」と称し、その結婚観については「Marry
? What for
?」とのたまう熟年の遊び人ですが、その昔マミタを愛してしまい結婚したくなったために、それを振り払おうと君と別れたのだと夫人に告白して歌います。日が暮れていく海岸をバックにお互い若かったころをふたりで懐かしく振り返ります。なお、このオノレは原作にはない役ですが、最初の歌を始めガストンの相談相手をするなどミュージカル映画を引き立てる脇役をしっかり務めています。
プレヴィンは、ほぼソロ・ピアノの曲として終始弾いていて、ベースはわずかに和音進行を支えるにとどめています。穏やかな流れのなかで、懐古の中に漂う後悔、諦念、充足感などといった様々な感慨が静かに語られるムーディーな曲に仕上げています。映画音楽の世界で活躍しているプレヴィンならではのスマートな音楽つくりが堪能できると同時に、ジャズ・アルバムにこうした心休まる曲を配置するアイデアにはあらためて感心させられます。
I Remember It Well
A Toujours :
1曲目の The Parisians
を歌って公園でふてくされているジジを見つけたガストンは彼女をアイス・スケート場に連れて行きます。そこでガストンは、自分の恋人リアネがスケートのトレーナーとお楽しみのところに出くわします。この時流れる音楽をアレンジしたのがこの曲で、曲名は映画が完成した後につけられたとのことです。フランス語の
Toujours
は「日常」とでも訳すのでしょうか。「相変わらず」という使い方もありますが、これまで豪華なレストランで食事をしたり宝石を贈ったりしてきた恋人が浮気をしていることをこの言葉で表わしたのかもしれません。これが日常、女はこうしたものということを言おうとしたとなると、モーツァルトのオペラ『コシ・ファン・トゥッテ
Cosi fan tutte(女はみんなこうしたもの)』をつい連想してしまいます。しかしこの「日常」とは、日本のテレビ・ドラマを賑わす浮気不倫といったことではなく、パリの華やかな社交界に群がり、裕福な殿方の間を舞いながら甘い蜜を吸う数多の女性のごく一般的な生き様を意味していると考えるべきでしょう。なお、このスケート場のシーンは映画だけで、原作ではマミタ夫人とガストンの会話の中で恋人リアネの浮気について語られています。
プレヴィンとその仲間はスケート場の音楽から離れて Funkville の音楽を繰り広げます。Funkville
とはファンキー・ジャズのことで、1950年代後半から1960年代前半ごろまで流行した五音階を基調とする黒人のゴスペル音楽の要素を含んだジャズです。レッド・ミッチェルの軽快なリズムに乗って、肩の力の抜けたプレヴィンのピアノが心地よく鍵盤上をスイングします。後半になるとレッド・ミッチェルのベースが控えめながらその妙技を聴かせてくれます。昨今のプレイヤーのようなテクニックをひけらかしたり爆音ででしゃばったりすることは決してありません。CDのブックレットには「レッド・ミッチェルのファンや批評家たちはこの天才プレイヤーにひれ伏すのだ・・・ベースがリズムのアクセサリーとして弾くしか能がなかった時代はそう古い話しでなかった・・・彼はそのベースという楽器を解放し、ホルンのようなメロディ楽器に仕立てた。」と書いています。これ以上言うことはありませんね。
A Toujours
It's a Bore :
ガストン・ラシャイユがその叔父オノレ・ラシュイユに誘われ、馬車に乗ってパリの街を行く時に歌われる曲です。ガストンの恋人リアネの歳が30歳くらいと知ったオノレはもっと若い女性とつきあうべきだ言うと、何から何まで退屈だとガストンが答えます。「パリの春、どんな孤独な物もかつてないほど美しく輝く。どの木々も私を見て!と言っているように見えないか?」と何事につけても明るく前向きなオノレに対して社交界に疲れ切っているガストンはひたすら「つまらない」と応じます。パリの社交界の偽善に溢れた皮相さに飽き飽きしているガストンの孤独な姿をスクリーンは映しているのですが、プレヴィンはそれを吹き飛ばすかのようにオノレの陽気さを前面に出します。快速テンポで鍵盤を駆け巡るプレヴィンのピアノが印象的です。しかし、歌詞に出てくるエッフェル塔やセーヌ河、ワイン、女性のことは全く音楽に反映はされず、パリっぽさは全くありません。
It's a Bore
Aunt Alicia’s March
:
この曲は歌ではなく、アリシア大叔母が登場すると流れる音楽としてフレデリック・ロウが作曲したものにもとづくものです。プレヴィンはこの曲について、「オパス・デ・ファンク(
Opus de Funk
)のようにやった」と説明しているとCDのブックレットに書かれています。これは1952年にホレス・シルヴァーが録音したアルバムのタイトルのことを言っているものと考えられます。1950年代初頭のジャズ界をリードしていたホレス初期の代表作
Opus de Funk
は、比較的狭い音域の中でフレーズを印象づけながら鍵盤を力強く叩くホレスのスタイルをよく表わしています。なお、このトリオのドラムスはアート・ブレイキーでした。ホレス・シルヴァーはその後ファンキー・ジャズへと駒を進めていくことになります。
過去の思い出に浸りながら優雅に過ごす現在の年老いたアリシアというより、その華やかだった頃の若きアリシアを描いたような曲になっています。アリシアの家にバタバタと駆けつけるジジの若さ溢れる音楽とも聴こえるのですが、快速なテンポでプレヴィンの指が軽やかに鍵盤上を弾みます。ホレス・シルヴァーとは異なる軽さを強調し、徐々に音域を広げていくプレヴィンの独創的な即興には圧倒されます。その後、プレヴィンのテイストを崩すことなくミッチェルのベースへと引き継がれていきますが、待っていましたとばかり張り切らない大人の演奏には好感が持てます。エンディングではしっかり冒頭のメロディに戻り、聴き手の耳を安心させることを忘れていません。Opus
de Funk は YouTube で聴くことが出来ます。
Opus De Funk (Remastered)
Thank Heaven for
Little Girls :
オノレ・ラシャイユが映画の幕開けと終幕で歌う曲です。この歌はこの映画のメインテーマとも言うべきもので、「少女はこの世の宝、日々大きくなる、その成長は眩い、いつしかきらめく光を放つ。そしてやがて結婚するかもしれないし、或いは結婚しないかもしれないが。・・・」とジジが女性として成長していくさまを目を細めて歌います。
CDのブックレットには、リラックスしたプレヴィンがファッツ・ウォーラーばりのノリで、1920-30年代のベーシックなジャズ・ピアノを聴かせてくれているとし、プレヴィンたちの次のアルバム『
Pal Joey 』に収められている It’s a Great Big Town
という曲に通じるものがあり、プレヴィンのピアニズムのルーツがいかに深いところにあるかを雄弁に語っていると書かれています。しかし、プレヴィンは先達の模倣に終始することはなく、軽いタッチでメロディをわかりやすく展開させていきます。そのピアノに寄り添ってゆっくり歩くように弾くミッチェルのベースも印象的です。オノレ・ラシャイユがジジに対して抱いた感慨を淡々と静かに歌っているといった感じでしょうか。
Thank Heaven for Little Girls
曲は、ロウが作曲した元の旋律を十分に強調した美しいバラードとなっています。映画でガストンが歌の中で何度も「ジジ」と呼びかける声を擬した2つの和音を動機として交えているところもとても印象的です。このアルバム中で一番長い曲となっていて、プレヴィンはたっぷり時間をかけて恋の芽生えを描いていきます。富豪であり、華やかな社交界で生活してきたガストンの恋は、初恋の甘く若さを爆発させるといったものではなく、大人の恋でありながら、しかしその相手が汚れのない清らかなジジという、当時の凡百の恋愛とは一線を画すものであることを知った上で聴くとそのしっとりとした曲の運びに納得がいくということでしょうか。元の曲の山形を描く旋律(上昇して下降する旋律)に付けるユニークな和音で聴き手の耳をくすぐりながら、プレヴィンのピアノは終始自然体で美しい世界を紡いでいきます。ほんのわずかしか叩かないドラムスの巧みな効果音、ベースの心に染み入る響きなどトリオとして完璧な世界を実現していると言っても過言ではありません。どこかビング・クロスビーが歌う『ホワイト・クリスマス(
White Christmas
1942年)』に似たような一節があるのは、その曲と似たようなイメージをプレヴィンが抱いていたのかもしれません。なお、CDのブックレットは「コンテンポラリー・シリーズでも最高の演奏のひとつ」と絶賛しています。原曲がヒットしていればこのプレヴィンの演奏ももっと注目されたことでしょう。
GIGI
She Is Not Thinking of Me
:
ガストンが恋人リアネをレストラン・マキシムに連れて行きますが、リアネはガストンのことはそっちのけでやたら周りに愛嬌を振りまきます。面白くないガストンは顔には出しませんが心の中でこうつぶやきます。「今日の彼女は快活でチャーミングだ・・・彼女は僕のことを頭にない・・・目当ては僕じゃない・・・今夜の彼女の目は輝いている・・・この女キツネ!・・・誰かが彼女に火をつけた・・・」と。この時を潮にガストンは彼女と別れることになります。
ガストンの憤りを煽るかのようなミッチェルのベースに乗って、プレヴィンの指は弱音を基本とした快速テンポで鍵盤を駆け巡ります。軽快で変化に富むプレヴィンのピアノは尻軽で移り気のリアネを、同じ音を連続して打鍵するところはガストンのイライラを描写しているのでしょうか。こうした映画のひとつのエピソードに過ぎないシーンの音楽をアルバムの最後に持ってきたのは、しめくくりは華やかなものにしたかったからなのでしょう。アルバムの最初の曲もそうですが、ここはパリではなく西海岸のカルフォルニアですよ、と言いたかったのかもしれません。
She Is Not Thinking of Me
ガストンはカフェ・マキシムに彼女を誘い、宝石のプレゼントをしますが、ジジをこの社交界という世界に置いてはいけないことに気付き、急いでジジを店から連れ出します。せっかくマキシムで楽しんでいたジジは何があったのか驚きます。ここで再びふたりはすれ違いを見せますが、最終的には、「あなたなしでいるより、あなたと一緒に不幸になるほうがよっぽどいいって。」とガストンを受け入れていきます。映画ではこうした鞘当てが一晩のうちに行なわれるため唐突で少々わかりづらいところがありますが、原作ではおよそ一週間かけてふたりのやりとりを描いています。原作ではガストンがマミタ夫人にジジとの婚約を乞うことで物語を終え、映画ではオノレ・ラシャイユが
Thank Heaven for Little Girls を歌って幕を閉じます。しかし、こうしたストーリーを思い返すと、この映画『
GIGI 』に『恋の手ほどき』という邦題をつけることにやや疑問を覚えないではありませんね。