マーラーの人となり〜1番

 
 社会人になった翌年に、大学の先輩と飲み屋に行った時に誘われて入団したのが都内のある市民オーケストラ。自分と同じような年代の若いメンバーが中心になっていたオケで、その後22年間在籍して年2回の定期演奏会と市民オペラで演奏活動を行い、副団長と選曲委員長を任されました。市から助成を受ける市民オケという性格上、限られた予算、メンバー数などから打楽器やハープ、鍵盤楽器などの特殊楽器を必要とする大編成の曲を取り上げることが極めて困難であったため、当時はマーラーが選曲に挙がることは皆無でした。曲を聴いたことがあるメンバーも少なく、マーラーの名前すら聞いたこともないという御仁もいらしたくらいです。

 4番の時と同じ市民オーケストラで交響曲第1番を2001年に演奏することになりました。ちょうどその頃、オーケストラとしてより良い演奏するにはどうすべきか頭を悩ましていた時期でした。ある演奏会本番の当日、開演前の昼食時に当日配るパンフレットの曲の解説を読んでいた団員が「この曲ってそういう曲なのですか、初めて知ったよ。」と驚いているのを見て、半年間何もわからずに音符を音にしていただけなんてこれはいかんと思い、練習が開始すると同時に曲について団員に理解してもらおうと考えたのでした。当時はインターネットがまだ普及していなかったため、紙にプリントして毎週楽章毎にその解説文を配布しました。その後新しい曲を演奏する時は必ず曲の解説とドイツ語等の見慣れない音楽表記の訳などを配るようになりました。その最初の曲がこのマーラーの1番だったのです。

 図書館に通ってマーラーに関する書物を読み漁り、輸入盤CDの解説を懸命に読みまくりました。幼少時のこと、指揮者として田舎のオペラハウスから徐々に都会のオペラハウスに這い上がっていったこと、この曲が作曲された時代背景、度重なる改定作業などを辿ることで、通常の版を使用する場合は『巨人』というタイトルを使ってはいけないこと、歌曲集『さすらう若人』との関係、『花の章』と一緒に演奏する際の条件、リヒャルト・シュトラウスとの関係、ウェーバーの孫の奥さんとの不倫駆け落ち未遂等々、マーラーの公私にわたる様々なことを知ることができました。このことによって、マーラーの生気溢れる音符を演奏したり他の楽器で演奏されたりする時に色々なことが頭に去来するようになったのです。マーラーの幼い頃のつらい体験、音楽との出会い、度重なる失恋、ライバルに勝てない悔しさ、オーケストラ団員から反発されながらも聴衆からは絶賛された指揮者マーラー、しかし世には受け入れられない作曲活動等々、これらを通じて彼の音楽の深みを僅かでも垣間見ることができ、さらにマーラーという人物を身近に感じることができたのではないかと思っています。この曲の解説文にご興味のある方はこちらをどうぞ。

 交響曲第1番の4楽章版が初演されたのは1896年。交響曲ではなく交響詩として書かれた版は1889年に初演されていますが、その後改定されて5楽章版になり、さらに改定されて現在の形になっています。その5楽章版は「花の章」という現在の4楽章版で削除された楽章を含み、「ハンブルク稿」とも呼ばれているものです。改定されて若干姿を変えただけでなく削除された楽章含む曲となると、この曲も機会があれば演奏したいものです。なお、4楽章版になってから『巨人』というタイトルをマーラーは削除しています。その初演から100年余りして演奏できたことは感慨もひとしおでした。

            リヒャルト・シュトラウス(1905年頃)      グスタフ・マーラー 1903年

 マーラーが遺した有名な「やがて私の時代が来る」という言葉があります。作曲した作品は全く評価されないばかりか時には嘲笑の的となり、全曲完成されながらも生前演奏されなかった交響曲が2曲もあるマーラー。今やコンサートでマーラーの曲が演奏されないシーズンはない程の人気を誇るだけに、作曲家として不遇の生涯を送ったマーラーの口から出た言葉としてあまりにカッコ良すぎる感はあります。この言葉は1902年、マーラーが妻のアルマ(当時は婚約者)に送った書簡の中で、4歳年上でライバルでもあった作曲家リヒャルト・シュトラウスについて言及した箇所から編集したもので、実際は「彼の時代は終わり、私の時代が来る」といった内容だったようです。さしずめ今のサスペンスドラマだったら「なに、ヤツさえいなくなれば俺の天下よ、フッ、フッ、フッ」とうそぶき巧妙なトリックで殺人を試みる悪役のセリフみたいですね。

 リヒャルト・シュトラウスは当時既に交響詩『ドン・ファン』、『死と変容』、『英雄の生涯』など傑作を生み出し、作曲家としての地位を確立させていました。一方のマーラーは交響詩をひっさげて世に問うもあえなく大失敗、リヒャルト・シュトラウスが成功した交響詩というジャンルを諦め、交響曲として改めたもののめざましい評価は得られませんでした。その後も5番まで交響曲を作曲し続け、ようやくドイツの地方都市で一部の作品が評価され始めたちょうどその頃、結婚式を1ケ月と控えたマーラーが婚約者アルマに書いた言葉となると、なんだか若い女性を前にした負け惜しみとも大風呂敷とも言えなくもありません。とかく名言というものは誤解され、都合の良い解釈が施されるものですが、マーラーも人の子だったのかなとホッとする話しではあります。


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