ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。

 いつまで逃げ続けられるのだろう。家族との関係。親戚との関係。友達との関係。恋人との関係。時に頼もしくもあり暖かくもあるけれど、時に厳しくもあり冷たくもあって、それが心にダメージとなって積み重なり、温かさや頼もしさではカバーできないようになっていく。

 だから逃げる。家族からも親戚からも友達からも恋人からも、逃げてひとりで閉じこもっていれば、暖かさは得られないけれども、冷たさも被らないで済む。ポジティブを好まず、ネガティブを厭う現代の気質が、核家族を生みおひとりさまを生みだして、コミュニケーションの隔絶を生む。

 それで生きていられるのだから、現代社会はありがたい。けれども、永遠にひとりきりではいられない。家族や親戚が亡くなれば、某かの関係を持たなくてはならない。友達や恋人を忌避してばかりいては、やはり暮らしが成り立たない。

 やっかいだけれど、そこをどうにか乗り切る術は果たしてあるのか。それとも、人間としてやっかいさも温かさも含めて呑み込み、受け入れる覚悟を固めるべきなのか。

 「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」(講談社、1600円)という小説で辻村深月が描いた、田舎の家族の濃密であり、また酷薄な関係を読みつつ、友達の間に生まれ育ち続く、睦まじいようで打算的なところもあり、けれども打算を超えて結ばれることも少なくない関係を読むほどに、乗り越えなければならない関係づくりの高さを思い、それでも乗り越えてこそ人は人として生きていけるのかもしれない、という思いにとらわれる。

 契約社員をしている女性が、母親を刺し殺して逃げた。その事件を刺した女性の友人で、フリーライターとして活動する親友の女性が追っていく。同級生たちをあたり、逃げた女性の評判を聞き近況をうかがい、恩師をたずねて事件の当日にどんな様子だったかを聞いていく。

 すでに分かっていたことも聞かされれば、まったく知らず驚くような意外な面も聞かされて、次第に浮かび上がってくる逃げた女性の人間像。そして家族。わけても母親との濃密すぎる関係。

 田舎だからという事情もあるものの、それでも他とは違った濃密な関係を目の当たりにして、そこから抜け出すためには何が必要だったのか、抜け出すことでもっと幸福に生きられたのか、抜け出さなかったからこそここまで静かに生きていられたのか、といった悩みに惑う。

 従順で清楚に見えた女性。けれども、反面として現状にこだわり変化を厭う頑なさもあった。他人を羨み、かといって自分は責めず、周囲に責任を転嫁して安心する。自分ではそうではないと思いたいけれども、案外にそうかもしれない性格がそこに立ち現れて、鏡のように我が身を照らして身もだえさせる。

 もっとも、都会に出てフリーライターになった友人の女性が正統とも限らない。彼女もやはり母親との複雑な関係をかかえていて、地元に帰っても実家に立ち寄ることが出来ずにいる。

 愛情と憎悪。信頼と疑念。相反する思念が渦巻きぶつかりあう家族関係の有り様を見せられると、そこから逃げて当然と思いたくなる気持ちも分かる。

 分かるけれども、そうして逃げようとして逃げられなかった結果、起こった悲劇もある訳で、それを人間だからと諦めず、どうすれば良かったのかを考えることで、追いつめられている人は逃げ道を得られ、迷っている人は進むべき道を示されるのだ。

 あらゆる関係が単純化されがちな昨今にあって、人間は心も複雑なら、そんな心がいくつも絡み合いぶつかりあった関係は、もっと複雑なのだと知らされる物語。鬱陶しいことこの上ないことかもしれないけれど、鬱陶しさを乗り越えて見える平穏さを思いつつ、逃げようとしている足を留めて、問題へと向かう勇気の在処を見つけよう。


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