出生率0

 大原まり子さんの短篇で僕は、「薄幸の街で」という作品が1番好きです。宇宙を支配するシノハラ・コンツエルンも、機械帝国アディアプトロンも、銀河郵便イル&クラムジーも出てこない、現代の東京を舞台にした短い話ですが、そこには絶滅に直面して、叫びだしたくなるような内圧に耐えながらも、静かに滅びていこうとしている人類の、美意識のようなものが溢れていて、読み終わってとても悲しく、しかし嬉しく思いました。

 もし本当に、滅びに向かって進んでいることが解った時、人類は静かに、最後の時を迎えられるのでしょうか。細菌がじわじわと、しかし確実に人々の命を奪っていくなかで、次は自分の番、今度こそ自分の番だと怯えながら、今までどおりの生活を送っていくことができるでしょうか。できるよと断言はできませんが、そうありたいと願っています。焦燥感に駆られ、暴走を始めた群衆に加わることなしに、どこかの山村で、あるいは海岸の1軒屋で、ひとり静かに本を読んで過ごしていたいと思っています。

 大石圭さんの「出生率0」(河出書房新社、1600円)も、着実に滅亡へと向かっている人類を描いた小説です。病原菌や核兵器や大地震といった、過去に書かれたカタストロフィ・ノベルズとは趣を異にして、この小説では誰も、直接的に命を奪われることはありません。奪われるのはそう、人類の未来とでもいえるでしょうか。1999年6月を境にして、人類からただの1人も、子供が生まれなくなってしまったのです。

 すでに生まれていた人々は、老いも若きも持てる寿命の限りは生き続けます。しかし不老長寿のクスリもコールドスリープの技術も発明・発見されていない近未来ですから、いずれは老人から寿命が尽きていき、1999年に生まれた最後の子供も、2099年までにはほとんどが死んでしまうでしょう。なかにはかろうじて22世紀をその目で見る人がいるかもしれませんが、その光景にはおそらく彼または彼女以外の人類が見えてはいないのです。

 自らは襲われない、しかし未来を奪われた人類たち。それが「出生率0」の登場人物たちです。当然のごとく子供は溺愛の対象となり、金持ちの子供は東京湾に浮かぶ豪華客船で誕生日を祝ってもらい、極貧の家庭に生まれた発展途上国の子供たちは金持ちによって買われて行きます。子供を買うことのできない大人たちは、人間の子供のように乳を飲み、排泄し、眠る人形といっしょに暮らすか、生きている子供をさらってくるしか、父性あるいは母性を満たす方法がありません。

 世界は混乱しています。各地で紛争が起き、食料も生産力が落ちて不足気味となっています。衰えたとはいえ、まだまだ権勢を誇っている日本がその胃袋を満たすためには、アジア各国との密接な連携(しかし実のところは搾取)が必要となってきます。アジアに政情不安が起これば、それは自分たちの飢え死にを意味します。不穏な空気が漂い始めたアジアに、日本は兵隊を派遣することを決め、そのために20代の青年たちを徴兵すると発表します。

 その日、2006年6月8日、街にはいろいろな人達がいて、いろいろな日常を送っていました。30歳の誕生日を迎えたルルは、仕事仲間のリーといっしょに、新しい2人の少女を、横浜にある奴隷市場に送り出そうとしてました。20歳の誕生日を迎えたユウは、金持ちの親が氷川丸で催した誕生祝に出席しました。7歳の誕生日を迎えたジュンは、品川の家を出てただひたすら海を目指しました。

 3人がそれぞれに迎えた誕生日。街は徴兵制度に反発した人々の起こした暴動で火に包まれ、その中でルルは少女の残した雀の雛に想いを馳せ、ユウは失った友人を想って恐怖を乗り越え、ジュンは最後のシンリンオオカミを思い出しながら海に向かって歩き続けます。暴動が鎮圧された明日は、一昨日までと同じように、滅びへの道を静かに進んでいく人類の姿が見られるのでしょうか。それとも1度付いた火は永遠に消えることなく、人々を一気に滅亡の淵へと進ませるのでしょうか。

 「薄幸の街で」で感じたような美意識を保っていられる人もいれば、焦燥感に衝き動かされて破壊へと向かってしまう人もいる。緩慢な滅びへの道を進んでいるとはいえ、その視野に滅びる日を収めていない今の時点では、人類が果たしてどのような行動に打って出るのかを予想することは、やはりできそうもありません。「出生率0」のような小説、そしれ「薄幸の街で」のような小説が存在する意義、それは僕たちに、滅びへの想いを喚起させて、滅びへの備えを想起させて、いずれは来る滅びの日を、静かに迎えることができるようにするものだと、今は信じていたいと思っています。


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