雪が降る

 1つ、齢を重ねるごとに1つ、心に澱のようなものが溜まっていく。「後悔」とも、あるいは「絶望」とも呼ぶことのできるそれらのものに苛まれ、心の器をいっぱいにして、けれども人は生きて、生き続けていかなくてはならない。

 降りてしまえればこんなに、楽なことはない。楽だけれどもそれを許さないなにかが、人にはまだ残っているらしい。たぶんそれは「希望」。「後悔」と「絶望」で溢れ出しそうになった心の器を、「希望」が少しだけ広げてくれる。溢れてしまう時を先へと延ばしてくれる。

 時に少しばかりの「希望」では太刀打ちできない、永遠に消えそうもない「後悔」と、再現なく積み重なる「絶望」に押しつぶされそうになることもある。そんな時には、藤原伊織が「雪が降る」(講談社、1600円)に収めた、6つのエピソードを読めば良い。あらゆる「後悔」と「絶望」を越えてなお、「希望」を持ち続けることが出来るようになるだろうから。

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 表題作の「雪が降る」。食品会社の販促課長のもとにメールが届く。同期で、出世頭のマーケティング本部次長の息子が、彼に「母を殺したのはあなたですね」と詰問していた。それはある意味事実だった。主人公は同期の妻で少年の母親の突然の死に、少なからず関わりを持っていた。

 かつて思っていた人をライバルに奪われ、出世も彼に先を越された主人公が積み重ねて来た、心の澱の厚さはいかばかりだろう。そんな彼が偶然出会ったかつての思い人との逢瀬を経て、その心を惹こうと邪(よこしま)な気持ちを抱いたとしても、誰も正面切って非難することは出来ないだろう。

 だが主人公のそんな気持ちが新たなる悲劇を生んで、かつての思い人は雪の降る第三京浜で事故死した。残された少年は母親が出さなかったメールから経緯(いきさつ)を知り、母がすがろうとした「希望」が果たしてすがるに足るものなのかを確かめようとした。

 コンプレックスを虚飾に変えて、自らを偽ることも主人公は出来ただろう。だが一切の事情を知らないままに、今でも主人公を同僚として、友人として対等に接するライバルの姿に、「後悔」と「絶望」を虚飾で固塗する無意味を悟ったのだろうか、主人公は少年にすべてを話て理解を得る。

 結局最後まで、主人公はライバルを越えられなかったのかもしれない。けれどもどこか鬱屈した、溜まりきった澱は少年との邂逅によって払拭され、ライバルへのコンプレックスを綺麗に敬意へと昇華させた主人公の心には、もはや「後悔」も「絶望」も残っていないだろう。峠を越えて残された人々の関わりがどうなるにせよ、未来には「希望」が待っていると信じたい。

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 「紅の樹」。ヤクザの組長だった父親が死に、別の組に身柄を預けて禄を食んでいた堀江徹は、平凡な日々に嫌気が差して組の仕事に荷担し、はじめて人を撃った。だが震えた手に未来はないと知り、組を抜けて追われる身となった徹は、ひとり点々と職を変えながら、今は塗装工として暮らしていた。

 ある日、アパートの隣りに若い母娘が移って来た。訳有りの風体に関心を抱きつつも、とりたてて接触を避けていた隣人のところに、借金の取り立て屋らしい男たちが訪れた事から静かな、けれども停滞した徹の生活が再び大きく動き始めた。

 さらわれた母親を助けようと身を呈した徹の気持ちが、純粋な正義ばかりだったとは思えない。がしかし、怯えに身を縮ませ絶望に身を浸した青年が、1歩、ありは半歩でもふたたび歩き始めた姿からは、世知辛いこの社会で背筋を立てて歩いていく潔さ、格好良さを見ることが出来る。踏み出した先が崖っぷちだったとしても、勇気は固まっていた心を震えさす。

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 「ダリアの夏」。32歳にして妻もいながら未だフリーターの男。夏に仕事にしているお歳暮の配達で訪れた瀟洒な住宅で、昼間から缶ビールをかえる美女とダリアを前にバットの素振りをする少年に出会った。少年はやがて母親に「試合には来るな」と言い残して野球場へと出かけて行き、男も母親と別れた後で野球場へと足を運んだ。

 試合も進み出番のなかった少年に、チャンスが回って来たのは母親が現れ監督に姿を見せた直後だった。理由を察した男はけれども、少年にアドバイスを送り少年はそのとおりにヒットを打った。試合が終わって監督が男のもとにやって来て、男のことをかつて自分がホームランを打たれ、プロにも誘われた事もあった名選手だったと見抜いた。

 怪我をして野球選手への道をあきらめ、少年の母親によく似た恋人から手ひどい別れを告げられて以降、漫然と生きていた男の心が少しだけ前へと動き始めた。事件がもとで一緒になった女優の母親と老優の父親の、冷え切って絶望に満ちた暮らしにも少しだけ、氷解の気配が見えて来た。野球をやめた年月、そして少年が生まれるより長い年月の澱が、少しだけ高さを減らした。

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 リストラに息苦しい会社の中で、イジメにあっている新人の姿に、かつて指を折られながらも背筋を伸ばし、雨の中を歩き去って言った男の姿を思い出した中年男の話「台風」も、逼塞する空気に潰されそうになった心にほのかに明かりを灯す。

 謎めいた過去と持つ男が隣人のバングラデシュ人に連れられて訪れた軽井沢で美女と出会い、ちょっとした事件とちょっとしたロマンスに巻き込まれてバングラデシュ人は勇気を出して真相を告白し、バングラデシュ人に恋をした美女は自分の足で歩き始める「銀の塩」も、おなじように顔を前へと向かせてくれる。過去を未だ払拭できない男だけは別にして。

 ハッピーエンドばかりではい、とういよりハッピーエンドは1つもない、けれども怨念に凝り固まった心を解かし、どっちつかずのままで漂っていた心に向かう先を与えてくれる、そんなエピソードに可能性という名の「希望」を見出し、何かが始まろうとしている予感にさあ、あなたも心を震わせよう。


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