Young, Alive, in Love
ヤング・アライブ・イン・ラブ 01

 それは日常で。けれども本当は非日常で。ただ恐ろしく長く続いていたから誰も非日常だとは思わなくて。あるいは非日常だと認めることが怖くて日常だと思いこんでいて。

 西島大介の「ヤング・アライブ・イン・ラブ 01」(集英社、600円)が描くのは、窒息するほどではなくてもちょっぴり息苦しく、卒倒するほどではないけれどどこか居たたまれない、今の社会に、現代の世界に漂う空気感。なんとなく、しかたなく日常と思いこんでいる日々がだんだんと、そして決定的に壊れ、崩れていくビジョン。

 東京のはしっこにあるM市には、100年前から巨大な“湯沸し器”がそびえ立っていて、今はそれが3基も立っているけれど、暮らしている人たちはそれが何かは気にとめず、生活に欠かせないものといった積極的な認識すら抱かず、日常のなかに普通に存在するものとして捉えていた。

 けれども、早川真という高校3年生の少年が道で出合った少女が、近寄ってきて少年の頭の上にいきなりゲロを吐き、そして見上げると、街にそびえ立つ“湯沸し器”の上部が爆発して、早川真は何かがヤバいんじゃないかと思うようになる。

 もっとも、周囲で早川真が感じたようなヤバさはまるで沸き立たず、彼が“湯沸し器”の実体から想像したような影響もとくには現れず、住人たちは、昨日と同じ今日を粛々とおくっている。稗田真奈という名前だった少女は、早川真と出合うたびににゲロを吐くけど、それは彼女に見えている幽霊のせいらしく、早川真が感じているヤバさには触れようとしない。

 でも、やっぱりなにかがおかしい。怯えた早川真は、スマートフォンに放射線量を測るアプリをいれて、街のあちらこちらで測定し、予想を超えた線量にいっそうのヤバさを感じておののいていたけれど、教師からそのアプリはインチキだと言われ、自分の迷いなのかと思いこもうとしたものの、どうしてもそうは思い切れなかった。

 そして“湯沸し器”は何度目かの、なおかつ最大の爆発をして、上部が吹き飛ぶ。

 明確になった危険。身に迫る危機。それらを得て物語はこのあと、井上智徳の漫画「COPPELION」のように、M市を舞台にした直接的な被害と、闘争が描かれるのかもしれない。そうではなく、より巨大な日常にすがりたい気分の中に埋もれて、平時へと還元され、何も変わらない日常が続いていくのかもしれない。西島大介の筆は果たして、どちらへと向くのだろうか。

 とても敏感に状況を判断して、そこですら十分に遠いと人によっては思うだろう、東京の西を離れて遠く広島へと家族を連れて避難して、そのままずっと戻って来ようとしない西島大介が、その原因となった事態をモデルに描くからには、「ヤング・アライブ・イン・ラブ」では、直接的に事態を捉え非難するような、過激で苛烈なストーリーが繰り広げられると思った。それが実際には、静かに漂う不安から筆を起こして、淡々とした日常にきしみを入れるような展開を選んだ。

 原子力発電所らしい“湯沸し器”から漏れて流れ溢れだした放射能の恐怖も、そのまま描くことはしなかった。幽霊という存在を対極において、どちらも普通の人の目には見えないけれども、感じられる人には感じられる不安として、並べて描いた。科学的には放射能は存在するするけど、幽霊は科学的には存在しない。それらが混在して同じ概念のように捉えられて、どっちつかずの状態に置かれている。

 それは、放射能を幽霊のようなものとして科学の埒外に置いて知らん顔してみせる、今の風潮を暗示したものなのか。それとも、放射能によって肉体に現れるもろもろの影響を、幽霊のせいだと思いこみたい人々の心理を示唆したのか。 いずれにしても、決して声高ではなく、不安が漂う日常の中から静かに、じわじわと問題を浮かび上がらせようとしている。だからこそ滲んでくる恐怖がある。

 そんな抑制されたスタイルを選んで描き始めた西島大介だけあって、これからもストレートな物言いを避け、シニカルさを含んだスタイリッシュな表現で、事の次第を描くのかもしれない。もっとも、ぼんやりと漂って来る不安の方が、むしろ人は恐さを覚えるもの。幽霊といった非科学的なものに例えられても、むしろ非科学的なものだからこそ、説明のつかない情動がわき上がって、苛烈な行動へと至ることもある。それを狙っているのか。

 終わるまで目が離せない物語。終わるときに世界が終わっていないことを、ただ願う。


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