陽気な黙示録


 人間も30を過ぎると、体に色々な意味での「垢」がこびり付いて、言葉でも活字でも行動でも、思いの丈をぶつけることが出来なくなる。そう考えること自体、全身を「良識」とか「常識」とかいった「垢」でいっぱいにしている自分を棚に上げて、自分自身の事とは認めない卑怯者としての処世術に溢れている。

 「垢」にまみれた概念を自分の信念と信じて、世の「良識」とか「常識」とかに身を委ねている方が、よほどか健康的だ。それとても、自分の信念をあからさまにし、その理由をはっきりと述べ、結果「良識」とか「常識」とかと対峙してしまった立場に比べれば、養殖された鮎や鶏舎で育てられたブロイラーの如く、人工的に作り出された健康さを感ぜずにはおかれないのだが。

 「略奪美術館」(平凡社)に続くエッセイ集「陽気な黙示録」(岩波書店、2300円)において、佐藤亜紀は本能から来る「良識」とか「常識」への懐疑を綴っている。識者によって語られ、ジャーナリズムによって価値付けされた既成概念への嫌悪感を露にしている。他人がこうして著作について語ること自体、それが肯定であるにしろ否定であるにしろ、何だか無為なことのように思えてくるくらい、徹底的に自己の思いの丈をぶつけている。

 「映像は常に欺く」というタイトルの1文に、「テレビが事実を映していると、我々が考えることはもうあるまい。映像としてブラウン管に映れば映るほど、ああまた情報操作だ、と思う反応は定着した」という下りがある。きょう日、誰だってそんなことは先刻承知、ただ騙されてやってるんだよと反論するだろう。だがしかし、敢えて指摘することによって、神経を逆撫でされたと感じる大人たちがいるのもまた事実で、そうした大人たちに向かって挑発を続けることが、こびりついた「垢」を認識させ、あるいは「垢」が付いていることを自覚しながら黙視している人々の疚しさをあおり立てるのである。

 あるいはルイ16世に関して「善意であるが暗愚で無能であったと片づける歴史を、私は信用しない」と述べる下りからも、定着してしまった歴史認識を疑いもせず諾々と受け継いでいくことから受ける、得体の知れない恐ろしさをを感じさせられる。「何故ルイ16世が、格別愚かではなかったにも拘わらず有能な人間として振る舞うことができなかったのか、それこそが実は最大の問題なのだ」。暗愚という決めつけによって歴史を語る、あるいは歴史の流れだけを踏まえて暗愚を決めつける、そんな固定観念に縛られた自分たちのずるさを衝かれ、よけいに居心地の悪さを味わわされる。

 「ジャパニメーションの勝利」という、アニメファンならついつい嬉しさに踊り回りたくなる1文も、別にアニメの絶対的な価値を認めたものではないらしい。「ありとあらゆるものが芸事化する」この国において、「アニメは未だに全然芸事化していない」からこそ、世界的に売れているのであって、世の理に習ってアニメが芸事化した暁には、芸事化した映画や、芸事に近づきつつあるディズニーアニメ同様、苦り切った存在にならないとは限らない。アニメが日本を代表するコンテンツなどともてはやされている今、そうなる可能性は依然にも増して高まっている。

 ならば、としたり顔で解決策を語るのも、結局のところは別の価値観にすべてを押し込めようとする策謀に他ならない。佐藤亜紀の論をすべて受け入れるのも、またすべて否定するのも同じ事。結局のところ信ずるに足るのは己のみ、さりとて孤高の存在とならず、己を信ずる自者と他者とを相対化する術を、身につけていくことが寛容かと思うのだが。違うかなあ。


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