真夜中の弥次さん喜多さん


 弥次さんと喜多さんはホモの間柄。喜多さんはヤク中、弥次さんはそれを直すために2人でお伊勢まいりに旅立つ。

 しりあがり寿の新刊「真夜中の弥次さん喜多さん 1」(マガジンハウス、980円)は、古典「東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さんを主人公に、彼らが遭遇する不思議で不気味な出来事を描きながら、現実と幻が入り交じった混沌とした世界に、私たちを連れていってくれる。初期の単行本「エレキな春」や「おらあロココだ!」から綿々と続く、異様なシチュエーションを作り出して読者を引きずり込んでいく手法はますます冴え、読み終わった頃には「おらあ、もお ホントだかウソだか夢だか なんだかわからねえ・・・・」(194ページ)ことになってしまう。

 うまいのかヘタなのか解らない絵柄、唐突に展開するストーリー。しりあがり寿を手にとった時、いわゆる普通のストーリー漫画を読んで来た人は、おそらく拒否反応を示すだろう。例えば「大磯之宿」。日焼けした侍たちが踊り回る中、海の若様こと松平空の守が篭に乗って登場し、エレキをかき鳴らして歌を歌う。突如降り出した雨のなかで、公儀の隠密によって暗殺された空の守は、首だけになった姿で、弥次さん喜多さんと連れだってお伊勢まいりの旅に出る。

 「小田原之宿」までたどり着いたものの、いよいよ死を覚悟した空の守は、カマボコ横町に行ってカマボコになると言い出す。像の背中に乗った空の守の生首が、曲がりくねったカマボコ横町をくぐり抜けて進んでいく場面の不思議なこと不気味なこと。けれどもここで「なんで像なんだ」「なんで生首なんだ」と考え込んでいては、先に進むことができない。発想の奇抜さを楽しむつもりで、異様なシチュエーションの中にその身を投げ出してしまおう。

 カマボコになった空の守を食べた喜多さんが、現実と幻想のはざまで空の守から心を開放することの喜びを教えられ、空の守に支えられて天上へと向かうシーンのなんと胸を打つことか。異様なシチュエーションであることなど気にならず、むしろ異様なシチュエーションの中だからこそ、心を描いた場面の美しさや哀しさが際立つ。

 第1巻に収められた話の中では「興津之宿」が飛び抜けてシュール。障子の隙間からのぞく達磨、長い廊下を布団を引きずって進む少女、泣き叫ぶ巨大な赤ん坊。悪夢のような展開が一転して、明るい日差しのなかに投げ出された喜多さんは、先ほどのセリフ(「おらあ、もお ホントだかウソだか夢だか なんだかわからねえ・・・・」)をつぶやく。何も答えずに、にこにこしながら団子をほおばる弥次さんの表情は、「ウソだって夢だっていいじゃねえか。オレたちがここにいるってだけで十分だよ」と言っているように見える。

 絵柄について1言。かつてしりあがり寿の漫画を見た手塚治虫が、息子の手塚真に「この人は相当にウマイ人だよ」と言ったと、何かで読んだことがある。美大を出て、キリンビールの宣伝部でデザイナーをしていた人だから、ちゃんとした絵を描ける人だとは思っていたけど、下描きなしてぶっつけで漫画を描くくらいの「神様」をして、ウマイと言わせたほどの才能と技量の持ち主なのだ。

 才能と技量に比したメジャーな評価を得ていないという点では、とり・みきと双璧だろう。ただ2人とも、白土三平やつげ義春や江口寿士や大友克洋や一時期の吾妻ひでおのように、飛び抜けた才能を持ちながらも、埋没していってしまうことなく、今も着実に、作品を発表し続けてくれている。潰れないで、潰されないで、これからも目の眩むような現実と幻想の入り交じったアヤシイ世界を、描き続けていって欲しい。


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