我もまたアルカディアにあり

 「ストレンジボイス」や「パニッシュメント」、そして「鳥葬 −まだ人間じゃない−」から始まる“葬式”3部作といった作品を書いてきた江波光則について話すなら、少年や少女にとって明るくて楽しいものであって欲しい青春が、逆に暗くて陰惨だったところにわき上がってくる叫びであり、悲しみといったものをすくい上げ、言葉にしてぶちまけてきた作家ということになるだろうか。

 そんな江波光則が、青春期にある少年少女に限ることなく、すべての人間たちが直面しているどこか虚ろで、とても生きづらい感覚をすくい上げ、描いてみせた作品が登場した。「我もまたアルカディアにあり」(ハヤカワ文庫JA)は、刊行されたレーベルから分かるように一種のSFとしての体裁を持って、起こり得るかもしれない変化を迎えた未来の社会に生きる人間たちを描くことで、そうした状況への想像力を読む人たちに感じさせる。

 アラブ系だけれど日本人の血も入っている男と、その妹を自称する女が出会い、働かなくても生きていけるシェルターのような施設「アルカディアマンション」に入居して、子を求める女の望みに答えるように子作りに励む。そんなストーリーが、1冊の物語の中に断続的に綴られていく合間に、兄妹の子孫と、謎めいた「アルカディアマンション」を作った管理人の子孫らしい女や男が登場しては、関わりを持っていくエピソードが繰り出される。

 「クロージング・タイム」というエピソードでは、商業性を徹底的に追求し、売れるためには炎上マーケティングも辞さず、書くのに不要と下半身を切除してしまった男性の作家と、書くことへの純粋さを追究し続け、肉体に一切の改編を加えないで老いるままに生きてきた女性の作家という、正反対の生き方を選んだ2人の交流が描かれる。どちらの生き方が人間にとって幸福だったのか。そして作家として正当だったのか。答えの得られない問いを突きつけられて、誰もが選択に迷う。

 とても頑健な肉体を持って工事現場を主戦場にして働いてきた男が、自分の瑕疵ではないもらい事故によって首から下が動かせないようになりながらも、一種のサイボーグ化と言える手術を受け、苦痛を伴うリハビリもくぐり抜けてどこまでも生き続けようとする「ペインキラー」。この人といっしょにいたいという思いが、生への飽くなき執着を呼び起こす様が浮かぶ。

 古いバイクにこだわる男がいて、そんな男が気になる女がいて、2人の間に交流が生まれながらも結婚のような展開には至らないまま男がバイクのために砂漠へと消え、女はバイクへの関心を男への情念も乗せて引きずりながら、汚染した大気の中を疾走する「ラヴィン・ユー」。将来のテロに向けて肉体を改造された男が、ついに迎えた終末の中である出会いを果たす「ディス・ランド・イズ・ユア・ランド」。いずれのエピソードも、テクノロジーの進化が人の肉体や心にもたらす変化を描き、永遠に近づく命の軽さと重さに両面から迫っている。

 そんなテーマの一方で、入居すればあとは働かなくても暮らしていける「アルカディアマンション」という存在が、経済活動が滞り、少子化によって労働力も失われ、生産や貿易といったものが行き詰まった果てに来るだろう、この日本という国の未来を想像させる。それは、未来に絶望し、働くことを拒否し、生活保護の世話になる道を選んで最低限で最底辺に這いつくばりながら、かろうじて生きていこうとする人が増えるだろう将来を、暗喩として描いたものだという味方もできる。

 あるいは経済的に行き詰まって、もはや独り立ちは困難となった日本という国が、世界から廃棄物を受け入れる処理場としての道を選び、国土を外国に売り渡すようなことをしながら、それでもアイデンティティを保つため、狭い範囲に引きこもって生きながらえようとあがく、リアルな未来を予測したものだともとれる。

 そのどちらだとしても、日本は、日本人は現実をどう捉え、未来とどう向き合うべきなのかを考えさせてくれる物語であることに変わりはない。非現実的な暗喩だとして目を背けても構わないけれど、現実に衰退の色が見える社会を感じた時、それが起こり得る可能性を考慮しておく必要があるかもしれない。速かれ遅かれ、確実に来るだろう終末を慌てないで過ごすために、誰もが手にして読んでおこう。


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