有頂天家族

 家族とは? その答えはぜんぶ、森見登美彦の「有頂天家族」(幻冬舎、1500円)のなかにある。

 決していい過ぎではない。そこには家族のさまざまな形がある。そしてさまざまな形の家族があって、家族というものの諸相を見せてくれる。

 京都は糺(ただす)の森に住む狸の名門、下鴨一家の物語。なんだ狸か、人間とは違うじゃないか。そういって見放すのは早計だ。狸といっても京都の狸。歴史もあって伝統もある。能力にだって長けている。

 毛玉のまんまで藪の中をはいずりまわるだけじゃない。人間に化け、人間に混じって暮らす術を心得ている。たとえば下鴨家の3男、矢三郎。冒頭から登場している彼が化けてみせるのは女子高生で、愛らしい姿で出町商店街の北にあるアパートに暮らす天狗の赤玉先生を訪ねていく。

 天狗がアパート暮らしとはまた俗なと、そう思われるのも仕方がない。かつては「如意ヶ嶽薬師坊」として近隣に名をとどろかせた天狗だったけど、とあるいたずらにひっかかって腰を痛め、それが原因で山を追われて今は落剥の身。赤玉ポートワインをすすりながらひっそりと、けれども頑固に生きている。

 実はそのいたずらの片棒をかついだのが矢三郎。天狗に見初められ弟子になった鈴木聡子という少女が、天狗の力を身につけるにつれ天狗にもまさる不遜さを見せるようになって、彼女に惚れていた矢三郎を誘い、師匠にいたずらを仕掛けたものだからたまらない。哀れ薬師坊は杉へと降りそこねて地上に激突。神通力を失い山を追われた。矢三郎はその責を覚え、赤玉先生の面倒を見にアパートへと通っている。

 それと知ってか知らずか、弁天と呼ばれるようになった弟子の少女に今も惚れている赤玉先生は、恋文をしたため矢三郎に弁天へと届けて欲しいと頼み込む。もっとも今は天狗以上に天狗な弁天。同様に七福神を名乗り集まっては、年末に狸を鍋にして喰らう「金曜倶楽部」の1員として遊興に耽っている彼女のところには、面識のある矢三郎でもなかなか容易には近寄れない。

 ならばと遠くより矢を放ち、弁天が手にした扇を打ち抜き赤玉先生からの恋文を渡したものの、これによって場を乱されたことに憤った弁天に追われ、つかまり哀れ矢三郎も狸鍋となって一巻の終わり、とはならずここから物語は矢三郎と、その兄弟と母親と、そし父、総一郎たちによって織りなされる、家族のドラマへと進んでいく。

 偉大な狸の総称ともいえる「偽右衛門」の名を受けていた父、総一郎に対して息子たちはどれも帯に短すぎ、たすきにだって短すぎる類の出来。長男の矢一郎は父が名乗っていた偽右衛門を継ぐ意欲満々で威勢が良いけれど、いざ難局に当たるととたんい尻尾を巻いて逃げ出してしまう。次男の矢二郎も性格こそ優しく博識ながら、優しさが行き過ぎ父の死後は身を蛙に変えて、井戸の底へと引きこもってしまった。

 弟の4男、矢四郎はまだ幼く変身はできてもどこか間違ってしまう頼りなさ。そして主人公の矢三郎は、変身の術こそ4人の中でもトップクラス、狸にあっても抜きん出た技量の持ち主ながら、惚れた女に誘われ赤玉先生をおとしめてしまうくらいにお調子者で、面白ければ何でも良いという性格で、下鴨一家をもり立て引っ張る方へとはと向かわない。

 もはやこれまでとすら見なされている下鴨一家にさらに降りかかる災難あり。父の弟である夷川早雲が、甥の矢一郎に負けじと偽右衛門の名跡に色気を見せ、総一郎の未亡狸や矢一郎や息子たちに何かとちょっかいを出す。さらに「金曜倶楽部」の面々にも、年末の忘年会に必要な狸を求める動きが出始め、そして父に続く狸鍋への道が浮かんで下鴨一家に迫って来た、その時。

 試されたのは家族の絆。そして、間違ったことへの戒めの必要性。兄の総一郎に成り代わって偽右衛門になろうと計り、下鴨一家を追いつめようとする悪辣きわまりない早雲にだって家族はいる。息子の金閣と銀閣は父の早雲に従い矢一郎をさらい、矢四郎をとじこめ矢三郎を虜にする。

 けれども、そんな兄たちと、父親の非道さに心痛めるひとり娘でかつて矢三郎の許嫁でもあった海星は、悩み苦しんだ果てに義を持って立ち、父をくじいて結果として父を救う。これもひとつの家族愛。同類に顔向けできないような所業に溺れる家族を救って、夷川一家の名を救う。

 矢一郎から矢四郎たちの兄弟も、家族の絆を失うまいと底力を発揮し、頭脳をめぐらせ難局にあたり、金曜倶楽部によって狸鍋にされようとしていた矢一郎を助け出す。偉大過ぎる父親に負い目を感じ、引け目を覚えて逃げ出したって不思議はない兄弟たちなのに、踏みとどまって狸としての筋を貫くその様の、やはり根底には父への愛と母への慈、そして家族への情があったのだろう。だから戦えた。諦めなかった。

 そんな狸たちの生き様に比べると、師匠の赤玉先生を衰えさせ、総一郎の死にも関わって人よりも天狗よりも身勝手に振る舞う弁天という女性の、奔放すぎる様がやけに目につく。師はあっても愛人はいても、家族と呼べる存在とは隔絶した生を送る羽目となってしまった弁天の、家族に対するやっかみのような感情がうかがえ憐憫に目もにじむ。

 ひたすらな善意で群がる下鴨一家と、成り上がりたい想いが生む悪意で結ばれた夷川一家のどちらにもある強い家族の結束と、対比させてどちらがより生き方として正しいのか、うらやましいのかを読む人に感じさせようとしているようにも見える配置。あまりな奔放さに弁天の生き様へと傾く人も多そうだけど、檻の中の総一郎を前に情を示し、それでも食べてしまう感情の引き裂かれた様に、哀れと思う気持ちも浮かぶ。

 そんな家族の諸相から、家族というものの得難さを感じさせてくれる「有頂天家族」という物語。あるいは偉大な父親を持つ苦労と、偉大な父親である苦心と、それでも断絶せず分裂しないで結束していける可能性を、強く考えさせてくれる物語。加えれば、どれだけ偉大であっても、間違い誤ることもあるんだという教訓も得られる物語。

 今時の家族というものの、弱まり果てた結束が社会を希薄にし、脆弱にしている様を、良くも悪くも固い結束で結ばれた狸たちの家族を描くことによって、感じさせる目的を持った寓話と見てとることもできる。とはいえそんな教条的な受け止め方よりも、むしろ家族を思い仲間を信じて愉快に真面目に生きてさえいれば、世界はいつまでも明るく、そして優しいんだと感じ取る方が心も安まる。

 結論。家族とは、良いものだ。


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