腕時計の誕生 女と戦士たちのサイボーグ・ファッション史

 永瀬唯の「腕時計の誕生 女と戦士たちのサイボーグ・ファッション史」(廣済堂出版、1000円)は、最初のサイボーグ・デバイスとして腕時計があったんだという、大変に気持ちをそそられる主題が明示されながらも、本編の方はと言えば、過去の図像とか文献から腕時計がいつ頃から使われ始めたのか、とった話がメインになっていて、本来持っている能力を、機械によって拡張されたのが「サイボーグ」なんだという指摘から想像していた、腕時計によって何か大きく変貌をとげた人間ってな感じの話はあまりない。

 もっとも連載されたのが腕時計を扱う雑誌だから腕時計の歴史が話の中心になるのは仕方がないことで、腕時計のファンに腕時計の持つ単なる道具だけじゃない意味を付与して楽しませてあげるコラムとして読めば、いろいろと分かって十分過ぎるくらいに為になる。ボーイスカウト経験者には、深くその名前が頭に刷り込まれただろうベーデン・パウエル卿(本文だとベイドゥン・ポウエル)のボーア戦争での働きは、奉仕活動がメインな今のボーイスカウト活動と比較して見ると面白い。

 果たして腕時計がサイボーグ・デバイスか、という議論を専門家相手にする勇気はないけれど、早く走れるようにした自動車とか空を飛べるようにした飛行機の方がサイズこそデカくてもまだ人間の能力を拡張してみせた機械のように感じられる。腕に時計をはめて時間が常に分かるようになったぐらいのことで、自動車とか飛行機以上の利益が人間にもたらされたかを考えた時に、なかなか目の覚めるような例を思い浮かべることができず、サイボーグという大変にパワフルなイメージを持った言葉を腕時計に対して使うことに、ちょっと迷いを感じてしまう。

 文化や社会をドライブするだけのパワーを道具の価値には求めたい身として、どちらかと言えば社会や文化の変化の中から必要に迫られ派生して来たっぽい雰囲気が腕時計にはあって判断が難しい。ただ、そういった文化とか社会との関わりよりも、人間の身体にもっと密着した部分で機械化が果たされるか否かが「サイボーグ」という言葉を使う・使わないの差になっているのだとしたら、乗り物に過ぎない自動車も飛行機はちょっとサイボーグ・デバイスとは言いがたい。社会や文化をドライブするパワーの有無という点で、人間のコミュニケーションに劇的な変化をもたらした携帯電話もなるほどサイボーグ的ではあるけれど、フトコロにしまったり首からぶらさげるだけで肌に密着していない部分がちょっと、サイボーグ・デバイスとまで携帯電話を言い切らせることへの抵抗になっている。

 手に密着させ、人間が太陽などから体感はできても刻一刻とは認知することあたわなかった「時間」を常に分からせるようにしたデバイスとして、人間が本来持つ目の機能を向上させる眼鏡や補聴器とも、また身に纏う衣装や靴といったものよりも、腕時計の持つ「サイボーグ性」は高いと言って言えなくはない。現実の世界ではさらに腕時計の「サイボーグ・デバイス化」が進んでおり、気圧計に高度計にGPSまでをも組み込んだ腕時計が安価で売られている状況にある。腕時計型のPHSとか生まれている訳だし、もうほんのちょっとだけ技術が進めば、さらにすさまじい機能が腕時計には付属してくるだるだろう。

 腕にとりつける機械という形態から喚起される思想としてのサイボーグ・デバイスだった「腕時計」は、名実ともにまさしくサイボーグ・デバイスとして遠からず人間の暮らしに入り込んでは何か変化をもたらしてくれそうな予感がある。それは通信機能を駆使したコミュニケーションの迅速化かもしれないし、多機能性を活かしたライフスタイルの多様化かもしれないし、個人情報の集約に伴うパーソナリティーの厳密化かもしれない。テクノロジーとイデオロギーとソシオロジーとヒューマニティーに何かしらの影響を与える可能性は限りなく高い。だからこそ著者には、腕時計にまつわる過去のいきさつを振り返った本書に続いて、機会があれば腕時計がもたらす未来のビジョンに対する考察を、是非とも書いてもらいたいとお節介を省みずここに強く切望する。


積ん読パラダイスへ戻る