TOY JOY POP

ライトノベルが健全な子供の娯楽のために書かれた物語を指すなら、この物語は断固としてライトノベルなんかじゃない。これがライトノベルだというなら、ライトノベルは子供が読んで健全に発育していくための物語なんかじゃない。

 残酷にして猥雑。辛辣にして陰鬱。韜晦と自尊にまみれた奴らが跋扈する、社会と心の闇がそこかしこにパックリを口を開けたこの物語を読めば、若くても年を取っていてさえも、確実に感情の壁に穴を穿たれ億にある信心を削り取られ、代わりに世界の底に溜まった汚泥を流し込まれるような苦さを味わうことだろう。

 それが浅井ラボによる「TOY JOY POP」(HJ文庫、667円)という物語。「HJ文庫」というレーベルが属すると目されているライトノベルのカテゴリーにあって、これほどまでにハード過ぎ、エロティック過ぎ、バイオレント過ぎる作品を他に知らない。それ故にこれはライトノベルなのか、違うのかといった議論を引き起こす。

 大学に7年生として居残る、口の達者な劇作が趣味というか実益になっている肥満体の福沢礼一と、大学は卒業して今は地元のミニコミで働いている、福沢とは同窓だった女性の山崎椎菜。そんな2人と何故か知り合いになっている、物静かだったりきゃぴきゃぴしていたりする藤井瑛子に三輪真央という2人の女子校生。

 外から見るとよく分からないそんなグループに、福沢とは同じ大学の2年生で格闘の経験がある長身の少女・鈴木奈緒美が出会い、仲間のようになってファミレスで他愛のない会話を延々と重ねるという、木尾士目の人気漫画「げんしけん」にも似た、緩くて温い学園青春ストーリーが繰り広げられる。

 のかと思ったらとんでもなかった。女子高生2人は援交系で精神が共にイカれまくっていて、健全な高校生活いう言葉が虚しさで永遠に消滅しかねないくらい、人間として生々しくそして痛々しい描写が続出する。

 一方で格闘少女の鈴木奈緒美は、“関節ババア”と呼ばれ強いと見なされた相手、悪と目された相手に闘いを挑み、再起不能へと至らしめる不死身の老婆に何故か目を付けられる。奈緒美は家族から否応なしに叩き込まれた格闘の技量と、持って生まれたセンスをフルに発揮する羽目となり、まるでグラップラー・バキか、桃魂ユーマかといったくらいに毛の筋1本を争うようなリアルファイトを繰り広げる。

 さらには街でが人がよく死に、その影に蠢く陰謀めいたものも、物語が進んでいく過程で示唆される。骨がひしゃげ、血が吹き出るバイオレンスに加えて、放出されたものを飲み込むようなエロティックでグロテスクな描写も頻出する。それなのに上っ面の部分では、相変わらずにファミレスに仲間で集まって、他愛のない会話を重ねるサークルごっこが繰り広げられる。

健全なばかりが社会じゃないし、正常なばかりが世界じゃない。だからといって不健全で異常な奴らばかりが跋扈している社会も世界もあり得ない。そのいずれもが光と闇、表と裏の関係を作りながら進んでいくこの現実を、取り繕ってにこやかにしながら陰で嘆き、諦め歯がみする人間たちを描くことで、浅井ラボは現そうとしたのだろうか。

 視点を様々に変えながら進むひねくれた展開は、池袋で起こる喧噪を描いた成田良悟の「デュラララ」(電撃文庫)シリーズとも重なる。もっとも「デュラララ」は設定こそハードでバイオレントに溢れていながら、印象としてはあっけらかんとして脳天気。人死にもなくいい加減。読んで陰鬱さはあまり残らない。

 対して「TOY JOY POP」は人は死ぬ。性行は日常茶飯事。格闘シーンの迫力たるや、読んでて自分の手足が折れるような痛みがじわりと浮かんでくる。どちらもライトノベルというには過激さに溢れているが、こと「TOY JOY POP」に限っては、ライトノベルという枠組みにかけられていると目されているリミッターは存在しない。

 描かれた世界を客観視できずのめり込んで読む小学生には、影響を考えるととてもではないが読ませられない。ライトノベル界初のPG−12作品。それが「TOY JOY POP」。だったら中学生は大丈夫なのか。アクションはともかく、性描写のディープさや、信じていたものから受ける裏切といった部分が、精神的に重荷となるかもしれない。PG−15に格上げか。

 とはいえそこは好奇心に溢れた子供たち。読むなと言われて読まないような消極さが、長じて冒険を忌避し前向きさを失った挙げ句、世界を沈滞と硬直に向かわせている状況があるのだとしたら、猥雑でも暴力的でもパワーとなる物語によって心の枷を外し、すべてをどん欲に取り入れ、そこから何が大切なのか、必要なのかを選び取りつかみ取るどん欲さを学ぶ必要があるのだろう。

 だからここからは自己責任。小学生でも幼稚園児でも管理職でも老人でも、読みたければ読めば良い。そこから何を学び取りどう動くかはそれぞれがそれぞれで考えろ。文化人を気取り、美しい女性と可愛い女子校生と勇ましい女子大生を侍らせながら、ファミレスで他愛のない会話に土曜日の午後を費やす暮らしに憧れたければそれも良し。中心にいるようで、何も生み出していない空虚さにさえ気づかなければ、これほど幸せな人生はない。


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