図書館危機

 危機は外だけではなく、内にもある。同じ組織の内にということであり、人が持つ心の内にということだ。

 「メディア良化法」なるものが施行され、表現が著しく制約を受けるようになった近未来の日本にあって、唯一表現の自由を守れる場所が図書館だった。図書館法を根拠に、どんな本でも保管し閲覧させる力を持つようになった図書館に対し、法務省はメディア良化委員会を使って、武力も辞さない弾圧を続けた。対抗して図書館側も、武装した図書隊を組織して、メディア良化委員会の攻撃に立ち向かっていた。

 そんな図書館の戦いを描きつつ、表現の自由が脅かされる薄気味悪さをえぐり続けてきた有川浩の「図書館戦争」「図書館内乱」(ともにメディアワークス刊)に続くシリーズ第3弾「図書館危機」(メディアワークス、1600円)。じわじわと図書館にしのびより、自由を守ろうとする組織を蝕む“危機”の存在が浮かび上がる。

 前作の「図書館内乱」でも、図書隊内部の“敵”が示唆された。表現の自由をいったん譲歩してでも、図書館を法務省に匹敵する政府組織に格上げして、対抗すべきだと考える「未来企画」の一派だが、原則を追求しようと考える一派にとっては対立している存在ではあるものの、いずれも図書館を守りたいという志を持っている。その意味では、表現の自由に迫る“危機”ではない。

 今回の敵は、そして図書館い迫る危機の正体は、図書館を守るべき見方の一部に蔓延り始めた事なかれ主義だった。茨城県の県立図書館と隣り合わせの近代美術館が募った美術展で入賞した作品は、メディア良化委員会の制服を使い、表現の自由を脅かす存在を挑発するテーマを持っていた。当然ながらメディア良化委員会は反発して攻撃を画策する。

 もっともそこは県立図書館。防衛組織も存在しているはずだったが、県庁から赴任して来た県立図書館の館長が煮え切らない。大過なく人気を過ごして県庁に戻りたいと考える人物で、武力による闘争を好まず、メディア良化委員会とは話し合いによって対峙すべきだと主張する「無抵抗者の会」なる組織に肩入れしては、県立図書館にあった防衛機能を弱体化させてしまっていた。

 事情を察知して図書館組織は、訓練を受けた隊員たちで組織される図書隊の特殊部隊を県立図書館へと派遣して、迫るメディア良化委員会の攻撃に備えさせようとした。シリーズの主人公で、170センチの長身と猪突猛進な性格を持った女性図書隊員の笠原郁も、特殊部隊の1人として同僚の手塚や上司の堂上、隊長の玄田らとともに茨城県立図書館へと乗り込んで行く。

 到着すると県立図書館の防衛隊は、業務部から疎外され差別を受けても黙っている、というより黙らざるを得ない悲惨な状態にあった。分断されてガタガタの組織では、武力を行使することをためらわないメディア良化委員会の攻撃に、太刀打ちなどできるはずがない。郁たちはメディア良化委員会の攻撃を前に、図書館の内部にいる敵を相手に戦い、組織をまとめ上げる必要があった。

 「図書館危機」のクライマックスは、そうした数々の障害を乗り越えた郁たち特殊部隊の面々が、県立図書館を舞台にメディア良化委員会と銃弾飛び交う攻防を繰り広げる、激しい戦闘シーンになっている。「図書館戦争」で描かれて以来の、寄せるメディア良化委員会に守る図書隊の攻防戦は、「空の中」「海の底」(いずれもメディアワークス刊)で怪物を相手に戦う自衛隊員を描いた有川浩ならではの、迫力と緊迫感に満ちている。

 けれども「図書館危機」でより強く響いて来るのが、茨城県立図書館での攻防へと至るまでに描かれている、表現の自由に対する人々の無関心ぶりを衝くエピソードだ。玄田と仲の良い週刊誌の女性編集者が、若手ナンバーワンと言われる人気俳優にインタビューして聞き出した話を、記事にしようとした過程で起こったトラブルを描く展開の中で、旧来から使われてきた言葉が、根拠もはっきりとしないまま、差別的だとパージされていった過去の経緯が描かれる。

 どうしてそんな事態が起こってしまったのか。規制は実行に移されてしまったのか。将来に訪れるだろうがんじがらめの表現機制に思い至らず、これくらいなら良いのではと規制を許してしまった人々の無関心があったからだと、「図書館危機」は指摘する。危機は心の内に生じた無関心。そして無関心が続けば続くほど危機は広まり、深まって行く。

 明らかに不穏当な言葉が制約を受けるのは仕方がない。けれども法律とか、何某かの圧力によって行われるものではなく、使う人の心が判断して決めるのが望ましい。ひとつでも法による規制を認めれば、後にいくらだって拡大解釈されて、為政者権力者の良いように使われかねないからだ。

 表現の自由が保障されるためには、過剰な表現は規制されてもやむを得ない。そんな考え方が背後にあって、メディアは規制する側の見方に付く。しかし大事なことを忘れている。今は攻撃に回っていても、いつかは攻撃される側に回される可能性があるのだということを。

 1つの組織を敵と味方に分断し、片方に片方を攻撃させて潰した後で、残る片方をさらに分断し、互いの勢力を削らせ弱体化させて、最後に組織をまるごと潰すのは、歴史が示す権力者による統治の常道。なのにメディアはそれに気づかないか、気づかないふりをしているかで、共闘へと回らず同じ表現の自由を求め戦う仲間を攻撃に回り、自らの延命をはかろうとする。

 メディア良化法によって自由を縛らせた「図書館」シリーズに描かれる世界は、もはや絵空事ではなく、ほんの薄紙1枚隔ててすぐそこに存在する。大きすぎる危機を前に、メディアは内ゲバにも似た状況を改め、また世間も自由への制限がもたらす危機をもっと感じるべきなのだが、そうした危機意識を煽る力を持ったメディア自身が沈黙を続ける。敵に回って攻撃する。

 必要なのは、「図書館危機」で週刊誌と若手俳優の間におこったトラブルを題材にして描かれているような、世間が関心をもってその動向を見ている人物が、率先して何かを語り、危機を訴えることなのだが。あるいは「図書館危機」が売れに売れ、「図書館戦争」が映画化されて、そこに描かれているテーマが人々に広く伝わることなのだが。

 もっとも昨今の映画業界で、出資者としてもっとも幅を利かせている存在がテレビ局だったりする。もはやテレビ局と広告会社の資金なしに映画は作れなくなっている状況で、表現の自由に挑み規制を目論む権力者を相手に、戦いを挑む映画が作られるはずもない。訪れる未来は果たして?


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