図書館革命

 “革命”といったらやっぱりあれだ、結集して、シュプレヒコールをあげて行進して、敷石を投げて官憲の包囲を突破して、むしろ見方につけて権力者の拠点へと乗り込んで、階段をかけあがってバルコニーに出て、民衆に向かって旗を振って勝利の演説をするという、ダイナミックでアグレッシブでドラスティックなアクションとドラマがあってしかるべきだ。

 さらに言うなら成就された先に、共に闘った仲間たちの間で権力闘争が持ち上がり、疑心暗鬼を生む状況から裏切りと粛正が始まったりしてそして、その中から英雄が生まれるなり独裁者が現れるかは分からないけど、どちらにしても旧体制とはガラリと違ったユートピアなりディストピアが登場して、変革というものの持つパワーを強く見せつけ、その意味を激しく考えさせる、それが“革命”という言葉から浮かぶビジョンというものだ。

 だから有川浩がメディア規制の激しくなった日本を舞台に、表現の自由を護持する最後の聖域となっている図書館と、これを排除しようと企む勢力との闘いを、図書館側に立って闘う防衛組織の図書隊に入った若くて長身で猪突猛進な女性の笠原郁を主人公に描いてきた「図書館」シリーズの最終巻のタイトルが「図書館革命」(メディアワークス)だと知って、抱いたのは抑圧に蜂起した図書隊たちが、民衆を見方に激しいバトルを繰り広げ、そして勝利をつかむ感動と歓喜のビジョンだ。ところが。

 民衆は蜂起しない。そもそもが図書隊だって蜂起しない。弾丸は飛び交うもののそれは数人規模での拳銃の撃ち合いったもの。シュプレヒコールも起こらなければバルコニーでの演説もない、およそダイナミズムとはかけはなれた、どちらかといえばスパイアクションのような情報戦と潜入戦と銃撃戦が繰り広げられる。“革命”から想起される派手なビジョンと感涙のカタルシスは備えていない。けれども。

 これはまさしく“革命”の物語だ。

 メディア良化法によって自由な思考を抑圧され、自由な表現をがんじがらめに縛られた世界が決定的に変化する、そのきっかけが刻まれた“革命”の幕開けを継げ“革命”の成就を想起させる物語だ。1989年に11月のベルリンの壁が崩壊し、ソ連と米国の冷戦を終わらせソ連すら崩壊させた地球的革命へと至った発端となった、1989年8月にハンガリーからオーストリアへと1000人もの人が国境を越えて亡命した「汎ヨーロッパ・ピクニック」になぞらえられる、変革の端緒を示す物語だ。

 発端は、敦賀で起こった原発襲撃テロ。そのテロリストたちが参考にしたと見なされた小説を書いていた作家が、メディア良化委員会に目を付けられ拘束されそうになていたところを、笠原郁が勤務する図書館が、検閲の度が過ぎるとのり出し保護する。

 そこに迫る危機。外には手に武器を持って取り囲み、政治を使ってプレッシャーをかけてくるメディア良化委員会がいて、内にはメディア良化法の完全撤廃という大事の前には、ひとりの作家の人権など無視されて構わないと考える図書隊内部の勢力もあって、四方八方より郁たち図書隊を襲い、縛って攻め立てる。

 もっとも、そこは猪突猛進の笠原郁に純情まっすぐな上司の堂上に、深慮遠謀が服を着て歩く柴崎にその手下と化した感もある手塚ら図書隊員たち。というよりはほとんどは柴崎の頭脳が激しく回り、大事の前には一時の制約など受けるべきという主張を中心的に唱えてきた集団のトップに座る手塚の兄を納得させて、追われる作家に迫る危機を、一般にも決して無関係ではないと分からせ、世界にも日本には大きな問題があることを見せつける。これによって、趨勢を一気に趨勢を図書館側に引き寄せようと動き出す。

 まさしく謀略のスパイストーリー。知略と策略のない交ぜになったサスペンス。策謀がめぐらされ互いの手持ちのカードを読み合い、どうすれば裏をとれるかを考え抜く、体力よりも頭の切れが何よりも重要な展開が繰り広げられる。

 面白いのはその中にあって、170センチの長身でまっすぐにひるまず突き進むのが取り柄の笠原郁が、まっすぐで単純な頭脳をめぐらせては事態を好転へと運ぶ点。かつその行動力で危地を乗り切ってみせる展開に、本編の主人公だけのことはあると誰しもを納得させる。

 ここに及んでようやく廃止の可能性が見えながらも、ここに至るまで強い権限を持って日本の自由を縛ってきたメディア良化法なる“化け物”が、どういう手段かはともかく多勢の無関心の中で生まれ、成立して施行されてそして“化け物”としての恐ろしさをまざまざと見せつけるようになってしまった経緯を振り返る時、今もどこかで立案され審議され承認される可能性を高めている、様々な自由を縛る法律たち、あるいはすでに施行されてしまった同様の法律たちへの恐れが湧いてくる。

 どうすれば良いのか。なくすこと。けれどもそれは「図書館戦争」のシリーズを読むほどに、困難な道であることが見えてくる。さらにいうなら、メディア良化法と対峙する力を権限を守りきった図書隊が現実の世界には存在しない。危険を認めて放送停止を省みず、リレーによって告発をつなげるだけの度量もテレビ局にはとうていない。なにをおいても世間の無関心ぶりは絶望的。未来を見る目には絶望の色が浮かんで当然だろう。

 しかし、図書隊は存在しなくても幸いにして「図書館戦争」に始まり「図書館革命」に終わるシリーズを得ることができた。これが読まれ語られ広められることによって、銃を持って法律も引っさげた図書隊は存在しなくても、ひとりひとりが図書隊として表現への制約に挑み、戦う気概を醸成できる。いやして欲しい。もしかして訪れるかもしれない暗黒の、その向こうに光を見つけて進む芽だけは残せるのだから。

 欲を言うなら、メディア良化法という敵の撃滅へと物語を進めて、圧倒的なカタルシスを与えて欲しかった。そこまでやると事態はフランス革命をつづる歴史書にも匹敵する複雑さ膨大さを持ってしまう。事態に大きな道筋を付け、まさに“革命的”なパラダイムシフトを見せて終わった「図書館革命」の絶妙さを、ここは認めるべきなのかもしれない


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