TOKYOHEAD RE:MASTERED 19931995

 「週刊SPA!」でレビューするために読んだのは、2000年に再刊された美術出版社版の「東京ヘッド New Edition」で、そこには、少しばかり前に盛り上がっては過ぎ去った、「バーチャファイター」という格闘ゲームにのめりこんだプレーヤーたちの戦いが、寄り添うような目線から描かれていて、「バーチャファイター」のムーブメントが持っていた熱さという奴を感じさせつつ、5年が過ぎて退潮した場所からムーブメントをふり返って、いったいあれは何だったんだろうと思わせた。そして、願わくばまた1度、あるいは何度でも、多くの人がひとつのゲームにのめりこんで盛り上がり、熱くなれる時間と空間が戻って来たら面白いと思わせた。

 けれども。そこから干支が一回りするくらいの年月が経った2013年の現在、アーケードゲームの退潮はさらに進んでしまった様子。ゲームセンターはクレーンゲームとメダルゲーム機とあとは「太鼓の達人」くらいが遊ばれる場所となっている。格闘ゲームというジャンルは続いていて、少なくない種類が稼働してたとしても、テレビにそれらを楽しむプレーヤーたちが取り上げられ、持ち上げられるような機会は来なかったし、これから来る気配もない。

 それは、ひとつにはアーケードゲームというものが持っていたビジュアル的な先鋭性が、コンピュータ技術の発達によって家庭用ゲーム機でも遊ばれるようになって、わざわざゲームセンターに行ってアーケードゲームを遊ぶ意味の、結構な部分が殺がれてしまったからなのかもしれない。景品がもらえるクレーンゲームや、巨大な装置を持ったメダルゲームは家では絶対に楽しめない。だから今もゲームセンターで楽しまれる。

 それから、格闘ゲームが出始めた頃は、スティックを使いボタンを押してキャラを動かせば、そのとおりに動いて誰かと戦い、勝てる時には勝てるといった具合に、自分では戦えない人でも拡張された身体を得て、そこで存分に戦えるという快楽を味わわせてくれるものだったのが、次第にそうした快楽を超えて、勝利することが目的となり、そのために瞬間を極める操作を要求されるようになって、拡張された身体という快楽とはかけ離れた存在になってしまったことも、あったりするのかもしれない。

 操作を覚え、そのとおりに動かすことで、思い通りに動かせるという意味では、究極に拡張された身体といった見方もできないことはない。けれども、そうなるまでにいったいどれだけの鍛錬を求められるのかと考えた時に、街に出てゲームセンターで格闘ゲームを遊ぶのはさすがに勘弁と、少なくない人が思うようになってしまった。家庭用ゲーム機で楽しんでみる程度となって、それでもやっぱり操作の高度化を要求されて辟易とし、勝利してすべてのアイテムなり、キャラクターなりステージなりを出して終わりという閉じられたシステムにも絶望し、コントローラーから手が放れてしまって、今に至っているのでは。そんな想像が浮かぶ。

 過剰に胸が揺れたり、蹴り上げた女性キャラクターの脚の付け根に下着が見えたりといった、格闘そのものとは違った面での楽しさを味わえる格闘ゲームもあって、それはそれで需要がなくなった訳ではないけれど、本質ではない上に、妙な健全化が進んでしまったんだ業界で、そうした方向への発展も見られなくなってしまった印象。結果、誰がなにをどこでやっているのか、まるで見えないジャンルになってしまった。

 美術出版社版に先立つこと5年。大塚ギチが最初に「トウキョウヘッド19931995」を発表した1995年はまさに、新宿ジャッキーであり、池袋サラであり、柏ジェフリーであり、ブンブン丸といった“バーチャ四天王”とメディアに呼ばれ、取り上げられるプレーヤーがいたりして、格闘ゲームが最強に盛り上がっていた時代だった。家庭用ゲーム機のセガサターンも出て、その上で「バーチャファイター」や続編の「バーチャファイター2」が、アーケードゲームのビジュアルそのままに遊べるようにもなって、双方がお互いを盛り上げるような関係にもあって、格闘ゲームは空前ともいえる賑わいを見せていた。傍目には。

 もっとも、当のプレーヤーたちは、いったい何を当時思っていたのかは分からない。熱さの奥に、商業としての煽りを感じ、プレーヤーとしての行き詰まりを覚えていたのだろうか。あれから17年が経って、大塚ギチが「トウキョウヘッド19931995」をリライトするような形で出し直した「TOKYOHEAD RE:MASTERED 19931995」(アンダーセル、1500円)を読み返した時、今となっては太陽が瞬間に放出するフレアのような熱さの後に漂う虚無といったものを、どうしてもそこに見てしまう。

 もっとも、「TOKYOHEAD RE:MASTERED 19931994」は過去を懐かしみ今を憂うものではない。あの頃に発せられ、刻まれた熱さを今に語り継ぐことによって、今まさに進化して続いている「バーチャファイター」シリーズを楽しむ人たちの戦いを、過去と断絶したものではなく、過去にすがるものでもない、脈々と続く系譜の上に位置づけようとしたもの。そう見える。

 「バーチャファイター」のプレーヤーは今もいる。真夏の炎天下に屋外で開かれた、バカバカしくも突き抜けた格闘ゲームのイベントに現れ、深夜までそのプレーを披露しては敵と戦い、己と戦っている。もしかしたらそれは、遠からず消えてしまう残り火なのかもしれないし、細く続く篝火なのかもしれない。けれども、燃えている以上はそこに思いを乗せて、心を焦がす人たちがいる。そうした人たちに向けた過去からの言葉であり、未来へとつなげる言葉。それが「TOKYOHEAD RE:MASTERDE 19931995」なのかもしれない。

 これは完結ではない。新宿で燃え上がった火が全国へと広がり、町田へと燃え移って続いた有り様が、遠からず書かれることになっている。その頃はもう、テレビのようなメディアでは取り上げられなくなっていたムーブメントかもしれないけれど、しっかりと燃えてそして今へと至ったポイントが、ようやく言葉になって伝えられる。

 だから読むしかない。過去を知って今を知る者ならば。そして見定めよう。何がアーケードゲームに、格闘ゲームに、「バーチャファイター」に起こったのかを。苦さを噛みしめて乗り越えた場所に広がるのは、さらなる不毛のアーケードゲーム界か、それともバーチャルリアリティであり、オーグメンテッドリアリティといった新しいテクノロジーを使った、新しい格闘ゲーム界なのか。

 見せてくれ、そのビジョンを。感じさせてくれ、それらが醸し出すだろう熱量を。


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