素晴らしき特撮人生


 いずこともなく現れ街を破壊し、それからヒーローなりヒロインなり軍隊なり科学者なりに倒される存在だといった怪獣についての認識が、本多猪四郎監督円谷英二特技監督の手になる映画「ゴジラ」の誕生から50年を経て、世間にはすっかり定着してしまっている様子。作り手もなぜそこにそんな怪獣がいるかなんて気にせず、とにかく出すのがお約束、むしろ理由なんてなくても怪獣は現れ世界に数ある国の中でも極東の日本を襲うのだ、といった感じに出しまくってい観すらあり、且つ観る方もそれを喜んでいる節がある。

 けれどもはるか以前の特撮映画黎明期、怪獣がまだ日本にそれほど浸透していなかった時代。怪獣映画の脚本を書く人も映画やテレビ番組を作る人も、なぜそこにその怪獣が現れるのか、どうやってその怪獣はやって来たのか、そしてどうやったら倒されるのかを考えて抜いて作品を作っていたのだということが、”ゴジラ映画最多出演俳優”の冠で呼ばれるにふさわしい名優、「ウルトラQ」の万城目淳にして「ウルトラセブン」のタケナカ参謀こと佐原健二が書いた「素晴らしき特撮人生」(小学館、1600円)を読むと分かって面白い。

 それは「ウルトラQ」に出演していた時、路線が変わって怪獣を毎回出していかなくてはなくなったという話を、後に「ウルトラシリーズ」で数々の名脚本を書き没した今も親しまれ懐かしまれる脚本家の金城哲夫から聞いて、「でも怪獣を出しながらそれを三十分の番組に収めるというのは、至難の業ですよ。やっぱり怪獣が出てくる必然性というか……」(26ページ)と佐原健二は金城哲夫に問い返したという。

 何しろゴジラ映画最多出演俳優だけあって特撮映画に星の数ほど出演して来た佐原健二。「脚本家や監督が怪獣の出てくる必然性というもので非常に悩んでいたのを側で見てきた」(同)。映画で困難なことがテレビでできるのか、って思ったのも当然だ。けれどもそのことを金城哲夫もちゃんと分かっていた。その上で「納得してもらえるよな作品を必ず作ります」(同)と佐原健二に確約した。俳優も脚本家も”たかが怪獣映画”なんていっさい思わず、お約束にも頼らず一本の作品として作っていくんだという気概に現場があふれていたことが伺える。

 何しろ本多猪四郎監督自身が「会社も、ターゲットを、大人からもう少し子どもまでを含めたところに置こうとしている。だからこそ、大人から子どもまで、誰が見てもおもしろいと思うようなものを作らなければならないんだよ」(167ページ)と言い切る傑物。あの黒澤明と盟友関係にあって東宝を支えた実績を残しながらも、映画の歴史の上で黒澤監督ほどに評価されているとは言い難いにも関わらず、そんなことは我関せずとひたすら怪獣映画を撮り続け、子供たちに夢を与え続けた。「もし大人がいいかげんに子ども向けのものを作ったって、子どもはそれをすぐに見抜くからな」(同)とも。誰もが熱かった。真剣だった。そしてちゃんと考えていたからこそかつての映画はヒットし、今なお記憶に刻み込まれている。

 上から下までが一丸になり真剣に映画を作っていて、それを誰もが認め称揚していたというのは筒井康隆の長編SF「美藝公」に描かれる、映画が宝と讃えられ俳優が名実ともにスタアと崇められ、当人たちもその自覚を持って行動し発言する夢のような世界が、かつては本当にあった。そんな世界に生きられた人たちは今のすべてが商業、すべてがコスト、すべてが視聴率、すべてが事務所の思惑、すべてが情実の中で作られる作品の跋扈をどう思っているのだろう。苦々しく思っているからこそ今、そういった作品が淘汰されつつあるのかもしれない。

 約束化した現在においてその流れに身をゆだねるのも、たしかに悪い気持ちはしない。けれども次の世代につながるファンを育てていこうとするときに、先達のそんな傲慢ともいえる内輪主義が疎外感を醸し出して縮小均衡へとたどらないとも言えないだけに悩ましい。もっともまるでお約束のカタマリだった「ゴジラ ザ・ファイナル・ウォーズ」が、老いも若きも歓迎の意を持って迎え入れられたことを見ると、お約束もすでに伝統芸能における常識と化して、見る側にそうした縛りとそして逸脱を楽しむ一種の枷として働いているのかもしれない。それが開けた未来を生むのかそれともさらなる未来の消滅を生むのかは、時間が決めてくれることになるのだろう。

 「素晴らしき特撮人生」には、ほかにも金城哲夫に関するエピソードや本多組の結束ぶり、「ゴジラ」に出演していた名優、平田昭彦が「ウルトラQ」の万城目淳役を真剣にやりたがっていた話、黒澤明監督の「椿三十郎」に佐原健二が出損なった話等々、特撮映画の歴史、日本映画の歴史にとって秘話とも言える話が満載。東宝好き映画好きはそうした部分も楽しめる。

 これは秘密でも何でもないのかもしれないが、佐原健二は「妖星ゴラス」には足を骨折しながら出演していた、「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」で佐原健二はディーゼル機関車を自分で運転していた、「ラドン」では目に焦点を合わせないことで記憶喪失の雰囲気を出す演技を”発明”した、といった話は、演技に、映画に命をかけていたのだということが改めて伺える。これらはお約束への戯れとは別次元の問題で、良い作品を生みだしていくには時代を問わず必要不可欠。けれどもそれらの多くが今や廃れつつある。素晴らしい時代と懐かしく思うなら、それを今ふたたび現出させることが、日本をコンテンツ立国だと喧伝する上で何よりも大切なことなのだが。


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