展翅少女人形館

 人間が人形になる話といえば、テレビドラマの「悪魔くん」でマネキンの怪物が吐いた息で人間をマネキンにしてしまうシーンがなぜか、記憶に強烈に残っていたりするけれど、流石に古すぎるので、新しいものから探すなら、1990年代に一世を風靡したテクノゴシックなSFで、リチャード・コールダーによる「デッド・ガールズ」「デッド・ボーイズ」「アルーア」のシリーズに出てきた、ナノマシンによって少女が機械になっていくって作品がは頭に浮かぶ。やっぱり古いか。

 人間にそっくりで、けれども人間とは決定的に違う、人形という存在が持つ不可思議さ、深遠さ。永遠に刻まれるその姿態に憧れ、なってみたいと思わせる一方で永遠に閉じこめられる恐怖をさそい、そうはなりたくないと思わせる。相矛盾する不思議な感情を抱かせる存在だからこそ、人形はスリラーのテーマになり、SFの主題になってその不可思議さをアピールする。

 瑞智士記によるライトノベルではないストレートなSF小説「展翅少女人形館」(ハヤカワ文庫JA、760円)もまた、人間と人形との境界に揺れる心を、退廃と衰滅の空気が色濃く漂う世界を舞台に描いては、人間と人形のそれぞれが持つ確かさを危うさについて考えさせる。

 中世のピレネーの山中で医師として慕われ、人形師としても讃えられた少女が魔女のような存在と咎められ、拷問の果てに命を失う。そして、現代に話を移して何十年か前から世界では、人間の代わりに球体関節人形が生まれてくる現象が発生して、人間はほとんど生まれなくなっていた。

 滅亡の危機に瀕した人類は、「機関」なる組織を作り、ここが中心となって人間のままの子供が産まれたら、いち早く見つけだして引き取って、隔離してピレネーの修道院で育てることになっていた。今、そんな修道院には、かつて双子で生まれながらも姉は人形だった泣き虫少女のマリオンと、娼婦の母親から生まれ、なぜか人形だけを愛していた母親に捨てられるように預けられたミラーナ、そして、職人の娘として生まれ、人形作りの腕を持ったフローリカたちが、人間として生まれた奇跡的な存在として囲われていた。

 ミラーナは、修道院でバレエの名バレリーナから教わる形でバレエの技術を高めていたけれど、誰に見せるわけでもないその技を見たのが、人形作りに勤しむフローリカ。キッと踊りを見据えたその思いはミラーナにに共感して、空想の五寸釘となってミラーナを精神的に貫く現象を起こしてしまう。

 一方で、フローリカはマリオンの双子の片割れの人形をこよなく慈しんで、はりつけにしたりバラバラにしようと企んでいて、マリオンから敬遠されていた。そんな楽しげで危なげな少女たちの関係が、日常のように続いていたある日。修道院にもう1にの少女がやってくる。貴族の娘とされる彼女は、人間ではあったが見た目は人形そっくりだった。

 それで、どうして生きているかというと、一部の器官だけが人間としての生身を残していて、思考し、会話し、栄養を摂取することができたからだった。まるで動けない状態にいながらも、極端に鋭く頭が良く、権力も持っていた彼女は、修道院に来てすぐに生まれながらの尊大さで振る舞い、既にいた少女たちの間に波風を起こす。

 やがてそうした彼女の行動が、修道院の少女たちの運命を大きく揺るがしていく。なおかつ人形と人間の入り混じった少女の存在にも迫って、人間であることと人形であること、そのどちらを人は、少女は選ぶべきなのかを感じさせる。

 なぜ、人間が人形になるのかという理由を、ナノマシンのような科学的技術的ガジェットでは説明していない部分に、SFとしての確かさを与えて良いのかと考える人もいそうな作品。もっとも、そういう運命に人類が追い込まれたと仮定して、起こる環境の変化、思考の変化を浮かび上がらせ、人間にとって人形とは、人にそっくりでありながら人とは決定的に違い、老いたりはせず育ちもしないで、永遠の時を生きるその存在とは何かを考えさせる点で、SFと言えるだろう。

 いずれにしても、少女たちの凄まじいばかりの執念が漂うストーリー。読み終えて自分だったらどの道を選ぶか、考えてみるのも良いかもしれない。そして感銘を覚えるなり、興味を抱くなりしたなら、 リチャード・コールダーの一連のシリーズをさらってみるのも悪くない。問題は、もはや書店の店頭で見ることはまずないということだけれど。これを機会に再刊、となればとても嬉しい。


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