天盆

 これは対局の物語だ。将棋でありチェスであり、囲碁であり麻雀であり、そしてあらゆる盤を挟み、卓を囲んで向かい合う対局に臨んだ者たちが、相手と戦い自分と戦い、天を相手に戦う時に覚える恐怖であり葛藤であり、喜悦であり憤怒であり、悲哀であり快哉でありといった感情を描いた物語だ。対局によってぐらぐらと感情を揺さぶられた人間が、何を得て何を失い、そして何を生み出すのかを描いた物語だ。

 読めば知るだろう。対局というものの神髄を。単なる相手との勝負に終わらない、そして自分との対話にも終わらない、全宇宙を自分へと取り込み、全宇宙の中で自分を開いて融和から昇華へと向かう対局というものが持つ大きな意味を。それが、玉城夕紀の「天盆」(中央公論新社)という物語だ。

 「蓋」というその国には天盆という、12×12の升目を持った盤上で駒を動かし、相手の「帝」を追いつめる盤ゲームがあった。強ければ強いほど尊敬され、最強の者は国に取り立てられるのみならず、国政の中心にすら行けることになっている。だから、国全体に天盆が浸透していて、食堂を妻の静と経営している少勇という男も、天盆の対局に賭けては金を巻き上げたり、奪われたりしていた。

 とはいえ、食堂は妻の采配でそれなりに繁盛していたし、12人いる子供たちも何人かは仕事を助けてくれていた。どうしてまたそんなに子沢山なのか。それには実は理由があって、その日も少勇は、さらにもう1人子供を増やしてしまう。橋の下いにた赤ん坊を拾って連れて帰ったのだった。

 つまりは養子。あるいは幼女。身よりのない子らを拾い、引き取って育てていたら12人まで増えていた。天盆にちなんで1から12までの数字にちなんだ名を付けようとして、10番目までは数字そのものを名に入れ、11番目は「士」を入れ12番目には「王」と入れたけれど、13番目となった赤ん坊にはどんな名を付けるかということになって、天盆にちなんで凡天と付けた。

 その名にあやかるように、凡天は、それこそ赤子の頃から兄で天盆士を目指す二秀や、他の兄弟たちが打つ対局を見て育ち、少し育ってからはとてつもない吸収力で天盆の力を高めていって、プロを目指している二秀以外はかなわないような強さになってしまう。

 やがて少勇たちが暮らす街で大会が開かれて、そこに出場することになった凡天は、街を新たに取り仕切るようになった商人の息子に勝ってしまい、それが原因で凡天の家族に面倒な事態が及ぶようになる。食料品が仕入れられず食堂の運営に困ったり、天盆の道場を追い出されて大会に出られなくなったり。

 ただ、決して権力の前に天盆が乱されてはいけないという心意気、あるいは、権力者に対する反感もあって食堂はどうにか営業を続けていけた。凡天自身も、その挙動に関心を持った天譜屋の誘いでとてつもない天盆の知識を持った老人と知り合い、対局の様子を記録した天譜を読んだり、老人から教わったりしながら自分の力を高めていった。

 実は有力者だった老人のお墨付きで大会に出られるようになった凡天だったけれど、そこで新たに立ちふさがるのは、商人に代わって新たな街の権力者になった武人の息子。父親の権勢を嵩に圧力をかけてくるけれど、そこで凡天は屈せず、自分が強くなることが父の少勇が喜ぶことだと信じ、ひたすらに天盆を指し続け、勝ち続ける。

 その姿勢は、さらに上の舞台に行っても変わらない。家族に災厄が及ぶと言われても、曲げずに自分を貫き続ける。それは勝負師として当たり前のことなのかもしれない。目の前の勝負に勝つこと、それこそが天盆に臨む者に必然のことなのかもしれない。ただ、勝負に勝つことだけが、本当に天盆の目的なのか、そうではないのではないかといった問いかけも投げかけられる。

 だったらいったい何のため? それは盤に身を晒し、天に身を委ねるということ。勝つことも負けることも含めて感じ、受け入れた果てに得られるひとつの境地を尊ぶこと。それさえあれば、たとえ家族に災厄が及びそうになっても、天は見放さなないで家族を救うし、己も救うし、多くの人々を救ってみせる。

 もしかしたら、凡天は信じていたのかもしれない。家族の絆を背後に天盆に挑むことで、家族が結束して家族を守ってくれるのだと。ひとりで戦っているのではなく、家族と供に盤に向き合い駒を動かす。家族の和を尊び、人々との繋がりを重んじて指す。それこそが、天盆の極意なのかもしれない。

 そうだ。これは家族の物語でもあるのだ。というよりむしろ家族の物語だ。「天盆」は家族の絆の強さを、激しさを、尊さを描いた物語なのだ。

 権力に阿り権力を笠に着て潰しにかかってくる者たちもいるけれど、そのいずれもが天衣無縫な凡天の前に敗れ去っていく。その対局をミクロで見て、心理的なかけひきを乗り越え、勝負の流れをタイミングよく掴んで勝っていく勝負の要点を掴むことも、「天盆」という物語の楽しみ方のひとつだろう。

 ただ、もっとマクロな視点で自分は何によって生かされ、そして何を生かそうとしているのかを感じ取りながら、対局というものが持つ相手を見て、己を見てそして世界を見て世界から見られる感覚というものを、味わうというのもひとつの読み方なのかもしれない。

 世にあるあらゆる将棋や囲碁やチェスや麻雀や、ほかさまざまな対局をテーマにした小説や漫画が好きな人なら、例えゲームの内容は架空でも読んで得られる真理があり、たどり着ける境地がある。対局好きもそうでない人も、気にせずにページを繰って読み、そして得よう、対局とは、家族とは何かという問いへと迫る指し筋を。


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