サイバー
電脳ストーカー

 「電脳ルシファー」(廣済堂出版、850円)に続く北野安騎夫の「ウィルスハンター・ケイ」シリーズ第2弾「電脳ストーカー」(廣済堂出版、876円)は、巷(ちまた)で話題の「ヴァーチャル・アイドル」と「ストーカー」が電脳空間を舞台にドッキング。リアルな世界のバイオレンスとヴァーチャルな世界の歪んだロマンスとが、複雑に入り交じって1つの物語に収斂していき、悲しいタペストリーを紡ぎ出す。

 複雑な過去を持ちながら、今は電脳空間のウィルス退治を生業(なりわい)にしている浅倉圭(ケイ)が受けた今度の依頼は、目下売り出し中の「ヴァーチャル・アイドル」を「人形殺し」と名乗るハッカーの魔手から守ることだった。

 最新の3次元CG(コンピューターグラフィックス)を駆使して生み出された「ヴァーチャル・アイドル」は、電脳空間に現れるだけでなく、テレビに出たり、立体映像を駆使してコンサートを開いたりして、ファンから喝采を浴びていた。ファンはもちろん彼女たち「ヴァーチャル・アイドル」が架空の存在であることを知っている。知っていてなお熱狂できるのは、「電脳アイドルも生身のアイドルも、業界の大人たちの単なる仕掛けにすぎない」(62ページ)、「どうせ『虚構』であるなら、アイドルが生身がヴァーチャルかなんてことは関係ない」(同)、そう考える若者が増えたからだ。けれどもリアルな世界で辛酸を嘗めてきたケイは、そんな今の若者たちの心理を、なかなか理解できないでいた。

 ケイが守ることになったのは、「ヴァーチャル・アイドル」で大ヒットを飛ばしている不二瀬プロが満を持して送り出そうとしている秘蔵っ子の「ヴァーチャル・アイドル」科戸亜紗美。彼女(?)をほかの「ヴァーチャル・アイドル」のように、ウィルスを仕掛けられて破壊されないように、ガードしかつ犯人を見つけだすよう依頼され、そのためにケイは、「ヴァーチャル・アイドル」と会話を楽しむことのできる「ヴァーチャル空間」に日がな1日アクセスし、接触してくる怪しい存在に(ヴァーチャルな)目を光らせていた。

 しかし事態は仮想の世界だけには止まらなくなった。現実の世界で女子大生が次々を殺害され、その面立ちが「ヴァーチャル・アイドル」科戸亜紗美に似ていたことが明らかになった。電脳世界のハッカーが、現実世界ではストーカーとなって、存在しないはずの科戸亜紗美の存在を妄想によって認識し、つきまとい、殺害しているのだった。

 さらにもう1つの現実がケイたちに襲いかかる。東南アジアの某国で軍事政権を打倒した民主勢力から、激しい拷問をうけた1人の女ゲリラが日本に潜入して、民主勢力を打倒するために、ケイの行方不明の兄・裕二が作り出した「悪魔のウイルス」を手に入れようと、ケイを狙って暗躍を始めていた。民主勢力の維持を画策する勢力から排除されそうになった女ゲリラ・ティンウーだったが、その腕前を発揮して追撃をかわし、ケイに迫っていった。

 ティンウーが「悪魔のウイルス」を手に入れようとしたその訳は。半年前に日本を訪れた民主化リーダーが「ヴァーチャル・アイドル」で鳴るフジプロに立ち寄った理由は。そして「ヴァーチャル・アイドル」を次々と抹殺して今また現実世界でのストーキングに出かけようとする謎の「人形殺し」の正体は。架空の存在への愛情が、ふとしたきっかけで現実世界での歪んだ愛情へと変化していく不気味さと、現実そっくりの仮想は、もはや現実にほかならなくなってしまう技術の進歩の恐ろしさを、北野安騎夫は「電脳ストーカー」で見事にえぐり出している。

 架空の存在と認識した上で傾けていたはずの「ヴァーチャル・アイドル」への愛情が、現実世界での歪んだ行為へと代わってしまうプロセスに、多くのすでに存在する藤崎詩織やその他諸々の「ヴァーチャル・アイドル」に感情移入しつつも、現実世界との折り合いを付けて生きている私たちは、正直言って納得できない。「ヴァーチャル・アイドル」への感情移入を歪んだ行為であり将来歪んだ愛情へと変わる恐れのあるものと見なす風潮が、一部であれ根強く存在する現代社会において、弾圧する側に利用されやすい論法だからだ。

 この点について「電脳ストーカー」は、「ヴァーチャル・アイドル」にモデルが存在するかもしれないというネット上の噂を論拠に、ヴァーチャルな愛情が歪んでいるとはいえリアルな愛情に転化するプロセスが指し示されているため、一連の現実世界での殺人も、「ヴァーチャル・アイドル」のモデルとなった「リアル・アイドル」への愛憎によるものだったと理解できるように書かれている。意識して(自分に都合よく)読めばの話だが。

 そして北野安騎夫自身、こうした明確なヴァーチャルとリアルの分離を行ってはおらず、結末部分ではケイの視点を借りて「社会の管理や束縛が強まれば強まるほど、生きていることにリアリティを持てない人間が増えていく。現実に対する見当識を失っていく」(307ページ)と書いている。あるいは「現実が味家なさすぎるから、虚構や仮想現実にリアリティを感じるようになったのだろうか?」(同)とも。むしろ現実がリアルすぎるからこそ、ヴァーチャルな世界に逃避しているだけのことに過ぎないのだが。

 しかし、あるいはもっと別の世代に、我々にとって「ヴァーチャル」に過ぎない世界を、真の「リアル」なものと認識し、そこで発揮できる超絶的な能力(なんでもありだからね、CGの世界は)や、決して死ぬことのない(リセットすれば、だが)人生を、我々にとっての「リアル」、けれども彼らにとっては内の「リアル」(つまりは「ヴァーチャル」)から境目なく続いた外の「リアル」であるこの世界でも、経験できると思っている人々が、生まれ育っているのかもしれない。過渡期にある私たちには見えない未来を、同じく過渡期にある作家がその想像力によってどう描こうとするのか。その言葉が私たちの行く末を狭める事態を招かないか。監視の意味も含めてじっくりと観察していきたい。


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