白き隣人

 大丈夫だ。自分はまだこちら側にいる。良識の、正気の領域に立っていて、真っ当な人生を過ごしている。いずれ誰かと結ばれて家族を得て、幸福のうちに一生を終えるだろう。あるいは仕事で大成功を収めて、栄光の中にその生涯を刻むだろう。たいていの人がそう信じて、今という時間を生きている。

 けれどもそれは本当か。良識とか正気の領域に、もはや立ってはいないのではないか。知らず猟奇の、狂気の領域へと足を踏み入れ、漆黒の闇の中を永遠に歩き続ける人生を、送り始めているのではないのか。

 気がつかないうちに背後へと、周囲へと忍び寄って、人を境界線の向こう側へと誘う漆黒の闇。それは、外から訪れるものもあれば、内に芽ばえるものもある。石岡琉衣という作家の、デビュー2作目となる小説「白き隣人」(新潮社、1600円)を読めば、そんな闇の持つ、おぞましくも抗いがたい魅力に触れられる。

 週刊誌に連載を持つ新進気鋭の女性ライターがいて、彼女とつきあっている銀行員の彼氏がいる。女性ライターが原稿を送っている週刊誌のデスクがいて、そのデスクから女性ライターに政治家の不倫に絡んだ記事を書くように依頼が届く。

 一方で色白の穏やかな青年がいて、商社に勤めるラグビーをしていたという体格の良い先輩の男がいて、そんな2人と合コンしている2人の女性がいて、そのうちの1人が穏やかな青年に興味を抱く。

 仕事が入ったのならと、銀行員の彼氏が去った女性ライターの部屋に、編集部が発送元となった宅配便が届いて、その中に恐るべきものが入っていたことから始まるストーリー。猟奇的とも言えるその所業に驚きながらも、女性ライターは誰が送り主なのかを突き止めようとする。

 女性ライターにはリストカット常連の女性やや、これまでに寝てきた彼氏の名前を腕にタトゥーにして刻む女性や、両隣の家のゴミをあさって徹底的にプライバシーを調べる人物といった、どこか常軌を逸した人々を取材して、記事にしてきた経験があって、それに絡んで記事に不満を抱いた誰かが、彼女に嫌がらせをしてきたのかと考えた。

 けれども違った。思い当たる節に電話して探っても、誰も彼女に凄まじくもおぞましい贈り物をするような相手はいなかった。いったい誰が送ったものなのか。その目的は。じわじわと周辺に迫る見えない手に目に、女性ライターの心は穏やかさを失っていく。

 色白の青年はといえば、合コンで彼に興味を抱いた女性にも、決して連絡先を教えようとせず、先輩を通じて彼がいそうな場所を探しだし、彼が時々赴いている絵描きの家にまで訪れるほど積極的なアプローチをして来ても、靡こうとせず心を傾けようともしなかった。

 優しくて奥手なだけの好青年? そうでもなかった。幾つものハンバーガーから肉だけを抜いて食べてみたり、電車でいきなり見知らぬ男を指差し犬のようだと言ってみたり、火の着いたタバコを投げ捨てた若者に「落としましたよ」と言ってみたりと、優しいだけの人間にはなかなか出来ないことを平気でする。実は意外に肉食系? そんな熱量のようなものは見えず、日常の延長のように振る舞っているようだった。

 続けざまに奇妙な荷物が届き、どんどんと猟奇的な事態に巻きこまれていく女性ライターのストーリーと、正気に見えてどこか不思議なところがある色白の青年のストーリーが、やがて触れあい重なり合ったところに浮かぶ、女性ライターの周辺で起こっていた事件の真相。それは確かに常軌を逸したものではあったけれども、まだ正気の延長で理解可能なものだった。むしろその直後に明らかにされる色白の青年の本性が、正気を踏み越えた場所に立つ存在の、底冷えするような恐ろしさを感じさせる。

 着実に進んでいく事態と、確実に示されていく真相に、1度読み始めればページを閉じることも、本を置くこともかなわないくらい読ませてしまう小説。女性ライターの仕事ぶりや、ライターで食べていく大変さがリアルに描かれ、そうした職業に憧れたり、就いている人の興味を誘うし、猟奇的な事件の裏側にあった、人の情念の凄まじさというものにも触れられる。

 もっとも、それ以上に興味が向かうのは、タイトルにもある”白き隣人”の心性だ。正気ではありえず、猟奇すら踏み越え、すでに狂気の域にあって平然とそこに立っている人物の心が、どのように生まれたのか、どのように育まれたのか、そしてどこへと向かうのか。その実在の可能性も含めて知りたくなる。

 そんな存在を知れば、自分はまだ大丈夫だと思えるだろう。常識のこちらがわに、自分はまだいると確信を抱いても仕方がない。けれども、実はすでに踏み超えていたのだ。ひとつの死を当然と思い違和感を抱かないで生きていけるその心は、すでに正気から猟奇を過ぎた場所へと足を踏み入れていたのだ。

 大丈夫だろうか。自分はまだこちら側にいるのだろうか。その良識を疑おう。正気を疑って見つめ直そう。自分の足場を。伸びた手が足首にかかって、闇へと引きずり込もうとしていないかを。


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