とり・みきの しりとり物語

 べつに創刊号コレクターというわけではないが、話題になりそうな雑誌や、興味のある分野の雑誌が創刊された時には、ついつい買ってしまう癖がある。最近では読売新聞の「月刊KITAN」とか、筑摩書房の「頓智」とかを、「B5雑誌の競演始まる!」なんて興味から買ってしまい、ついには終刊号までつき合うことになった。それ以前にも「バート」だとか「ビューズ」だとか「パンジャ」だとか「マルコポーロ」(これは創刊ではなくリニューアルだけど)の男性向け総合誌を買い込んでいた。

 思い起こせばこの癖は、今やマボロシの「アニメック」と同じ出版社から出た「ファンロード」に始まり、角川書店から出た「ザ・テレビジョン」や「ニュータイプ」の創刊号を買ったあたりへと続き、今に至っているような気がする。「ザ・テレビジョン」と「ニュータイプ」の創刊号は、東京(ホントは千葉)に出てくるドサクサでなくしてしまったが、「ファンロード」だけは、この間自宅へ返った時、引っ越しの時に整理した段ボール箱の中に残っていたのを発見して、今の住所へと引き上げてきた。巻頭を飾る天下無敵のデッチ上げ企画「トミノコ族」のカラー写真が、とっても懐かしく、また恥ずかしい。

 強く入れ込んだものへの懐かしさはともかく、そこに恥ずかしさがともなってしまうのは、とにもかくにも自分が大人になってしまったからなのだろう。今だってアニメや漫画やSFに入れ込んでいることには変わりはない。ただその入れ込み方が、ナナメから見おろしたり、ビジネス的な広がりを考えたりといった具合に、どこか1歩距離を置いたスタンスへと変わっていて、かつてのように真正面から堂々ど取り組んでいた自分を、恥ずかしいとでも思わない限り、今のスレたスタンスを正統化できなくなっている。

 「とり・みきの しりとり物語」(角川書店、1300円)は、「ニュータイプ」に7年もの長きにわたって連載されたエッセイをまとめたものだ。アニメや漫画やSFといった、移り変わりの激しい題材が多く取り上げられていて、ああこんな作品があった、こんな人がいたと、自分のアニメ・漫画・SF者としての経験を思い起こさせてくれる。そして「ファンロード」を読み返した時のように、懐かしさと同時に恥ずかしさを覚え、そんな二律背反する気持ちにとらわれる自分に後ろめたさを感じて、頭を抱えて身をよじる。

 7年前に連載が始まった当時のエッセイを、単行本にまとめる時、作者は懐かしさを覚えたのだろうか、それとも恥ずかしさを覚えたのだろうか。巻末の「あとがき」を読む限り、恥ずかしさは覚えたようだが、それは文章や、当時のハイな(あるいはロウな)精神状態への恥ずかしさであって、取り上げている題材への恥ずかしさは語っていない。

 エッセイでは手塚治虫やブライアン・ウィルソンといった、作者がかつて入れ込んだ対象を取り上げた項目がある。ともすれば陳腐な、時代遅れの題材として、懐かしさ以上に恥ずかしさをともなって語られることのあるこれらの対象を、作者はいささかの揺らぎもなく、真正面から真剣に語っている。原田知世と尾道と大林宣彦監督について語るときも、ゆうきまさみについて語るときも、ひょっこりひょうたん島や声優(「決してキャラクターボイスなんっぞではない」)について語るときも、懐かしさこそあれ恥じいる気持ちは微塵もない。恥じ入るどころか、これらの対象への入れ込みを、今でも誉れ高く感じているようで、そんな気持ちが「吹替映画大事典」(三一書房、1600円)のような、素晴らしい仕事へと結実している。

 タイトルに入っている「しりとり」は、毎回のお題目が「マニア−アニメ−目に青葉−バス−スージー・ウォン」といった具合につながっていることに採ったもので、エッセイの内容自体にはまったくといっていいほど関係がない。むしろ前回の内容と関連づけて展開していくエッセイという意味と考えたほうがいいだろう。

 取り上げる題材については、漫画と同様に「ウマい」というか「ヤラレた」というか「カユいところに手が届く」というか、とにかく目のつけどころが違う。たとえば「件(くだん)」。SF者ならば、小松左京さんの「くだんのはは」に登場した、人と牛が入り交じったこの怪物を、知らないはずがない。そんな「くだん」を取り上げ、そこから前後5回にもわたって展開していくエッセイに、SF者の心はくすぐられる。

 あるいは「まんがなるほど(どうして)物語」。実写のお姉さんと縫いぐるみの謎の生き物が絡む導入部から、アニメの展開部へと進み、再び実写の場面へと戻ってくるこの番組に、作者はことのほか関心を寄せている。自分たちの世代にとって、このアニメは「まんがはじめて物語」であり、お姉さんは岡まゆみで人形はモグタンだったのだが、それはさておき、今なお続く(ローカルでの再放送を含めて)この番組を、正面切って取り上げた文章を、今まで読んだことがなかった。

 「くだん」は後に、先にあげた「頓智」の連載漫画「くだんのアレ」となってつながって行く(のだということをこの本を読んで初めて知った)。「頓智」ではさらに、かつて「愛のさかあがり」で取り上げた「オジギビト」のルーツ探求が始まって、1つの成果を上げた。対象への興味をどこまでいっても持ち続けられる作者をうらやましいと思う。またそうでなければ、プロとして大成しないのだとも思う。はやり廃りばかりを気にかけて、時代の先っぽばかりを追いかけがちなマス・メディアへの、大切な忠告ともとれる内容だった。

 「頓智」が終刊となり、SFマガジンで連載中の「とり・みきの SF大将」くらいしか、今のとり・みきさんの仕事に触れる機会がなくなってしまう。しかし、ゆくゆくはもう1度少年誌で連載を持ち、いま1度SFマガジンで「山の声」や「銀河ネットワークで歌を歌ったクジラ」のようなタッチの漫画を掲載し、何度でも「DAIHONYA」のような高いSF性と高いギャグセンスを兼ね備えた作品を発表して欲しい。そしてはなはだ僭越だけど、「とり・みき」という名前に懐かしさと同時に恥ずかしさを覚えることがないように、常に第1線で活躍していって欲しい。

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