SHINJI
慎 治

 たぶんお伽噺なのだろう。ファンタジーと言いかえても良い。どちらにしても、今野敏の「慎治」(双葉社、1750円)から感じるのは、リアルな世界に満ちている刺々しいまでの緊張感ではなく、バーチャルな世界に溢れているであろうすがすがしい開放感だ。

 ファンタジーだからといって、剣も魔法もお姫さまもドラゴンも出てこない。出てくるのは虐められっ子の少年と、虐めっ子の級友と、同級生の女生徒、そしてモデラーの中学教師にビデオショップの店長にミリタリーマニアの男たち。まるでファンタジーとは縁遠い、せいぜいが学園コメディーといった趣(おもむき)の、奇妙な人物たちばかりだ。あえていうなら「ロボット」があるが、それとてモデラーの学校教師が好んで作る「ガンダム」のことだから、ファンタジーとはやはり異なる。

 それでいて何故お伽噺と思ったのか。ファンタジーと感じたのか。それは描かれている世界に強い憧れを感じ、けれども当分は実現することのない世界だろうと、そんな印象を持ってしまったからだ。オタクこそが閉塞感から子供を救い、文化不毛の地に新しい文化の芽を育む存在として、社会的に認知され、経済的に認められ、正々堂々大手を振って目抜き通りを歩くようになる。コミケだエヴァだと大騒ぎしても、しょせんは「サブ」付きのカルチャーに過ぎない現在において、そんな夢のような世界が描かれた小説は、やはりお伽噺でありファンタジーなのだ。遠からず、絶対に、必ずや実現させたい夢が描かれているとはいっても。

 中学2年の慎治は、その日も同級生たちに万引きを強要されて、とあるビデオショップに来ていた。ビデオなぞ欲しくもなんともなかったのだが、断れば殴られ虐められると解っていたので、万引きをしない訳にはいかなかった。両親や教師に言って、虐めを辞めさせることも考えたが、たとえ虐められても仲間を売るという行為が心をとがめたのか、優等生の同級生がそんなことをやっていると信じてはもらえないとあきらめていたのか、学校に言うことはなかった。両親にも、「学校でどんな目にあっているかを打ち明けたとたん、家庭に学校の世界が侵入してきそうな気がし」(11ページ)て、やはり告げることができなかった。

 ビデオショップでは店長の松井が、続出する万引きに業を煮やして、店内にビデオカメラをしかけて万引き犯を撮影し、そのビデオを店で売る準備を進めていた。それを知らずに真治は、エヴァのビデオを万引きし、防犯装置に引っかかったにも関わらず逃走に成功、結局松井は、慎治が写っているビデオを売るつもりだと、たまたま店を訪れていた、エヴァには見向きもせずガンダム一途な中年の常連客に話した。その常連客・古池は、実は慎治の学校の担任だった。

 学校で古池は慎治を観察し、彼が虐めを受けていることを察知した。普通の教師だったらそこで、虐めている相手を慎治から聞き出し、虐めている側を呼んで注意するものだが、面倒なことが苦手な古池は、慎治を誘ったものの至極一般的な手順を踏まず、虐めは最終的には自分でなんとかするしかないと言い放ち、自殺すればいいと答えた真治に迷惑なことはやめてくれと言い、だったら相手を殺せばいいとも言って真治を戸惑わせる。そして結局は死ぬことも相手を殺すことも出来ない真治の心が、「別の世界に逃げたいだけなんだ」(57ページ)ということを看破して、古池は慎治を自分の部屋へと誘った。

 古池の部屋に入った真治は、そこで「機動戦士ガンダム」に傾注し、アニメのLDはすべて集め、ガレージキット作りに精を出す、教師とは違った深井の「世界」を発見する。「この世界に戻ってくると、自身が持てるし、新しいテクニックを見につけようというやる気もわいてくる」(64ページ)を言う深井から、プラモデル作りをやってみないかと誘われて、慎治は学校にもいかずに古池の部屋に入り浸ってプラモデル作りに没頭するようになった。

 テクニックを身につけ、意外とプラモデル作りの才能があったことを真治は知る。自分が映ったビデオをめぐって深井と松井が対立し、だったらサバイバルゲームで決着を付けようということになって、体を鍛えるよう味方のチームの格闘技オタクから指導されるに従い、真治はだんだんと自分に自身を持てるようになって来る。そうとは知らずに相変わらず居丈高に虐めを仕掛けてくる同級生たちにも、慎治は「別の世界」で得た自信をバネに立ち向かう。しょせんは遊びのサバイバルゲームにも真剣に取り組み、ガレージキット1つ作るにも金と技術を惜しげもなくそそぎ込む大人のオタクたちの行動が、閉塞感にあえいでいた1人の少年に進む道を開いた。

 なんであれ自信を持つことは良いことだし、それがガレージキット作りであったり格闘技であっても一向に構わないとは思う。もちろん勉強であっても構わないが、しかし現在の学校社会において、勉強による自信を評価する勢力に、ガレキ作りや格闘技による自信を評価する勢力は遠く及ばない。もう少し大きくなり、社会に出れば、ガレージキットに卓越した腕を持っていることは社会的にも経済的にも認知される。格闘技でも同様。だが当事者である慎治が、あるいは慎治に自分を重ね合わせた少年たち少女たちが、今おかれている状態で、ハマっちまうこと、オタクとして覚醒することによって本当に解放され救済されるのかを、読後の壮快感に溜飲を下げたあとで、大人のオタクたちも考えるべきなのだろうと思う。

 勉強を尊ぶ学校社会のシステムは容易には変えられない。それは広く企業社会、官僚社会、政治社会をも取り込んだピラミッド状の社会システムの支柱ともなっている。そんな仕組みの中で、どうしてもお伽噺でありファンタジーでしかあり得ない、けれどもすがすがしく心地よい「慎治」の「世界」を、どうやれば「リアル」な社会に現出できるのだろうか。幸いにして世間では今、オタクがややもすれば社会的に認知されそうな機運が起こっている。せっかくの好機を無駄にせず、ハマれとアジったその責任を、先を歩む者としてなんらかの形でとらねばならない。今野敏を1人殉教者として荒れ地に立ちすくませないためにも。


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