死神ナッツと絶交デイズ

 起こってしまったことは変えられない。死んでしまった人は生き返らない。未来は選ばれたひとつしかやって来ない。それは厳然とした掟。サイコロを持つと言われる神であってもどうしようもない。そもそも神なんて存在しない。だからこそ過去を変え、最良の未来を何度でも選び直せる方法が探される。求められる。物語や空想の世界で。神の存在とともに。

 早矢塚かつやの「死神ナッツと絶交デイズ」(MF文庫J、580円)も、そんな過去の過ちに悔い、未来に可能性を探る者たちの物語だ。真夜中の学校に忘れ物を取りに行った小石川幌右ことホローという名の少年が出会ったのは、ウォルナッツという自分は死神だと自称する少女。人の魂を手にした巨大な鎌で刈りとるパワフルさは見せない。夜中の学校にやって来るホローと一緒に、好物のポテトチップスを囓りながらおしゃべりをして過ごしていた。

 ちなみにポテチはうすしおかのりしお限定。ピザチーズ味を持ち込んだ日には袋ごと叩きつぶされ、粉々にされてしまうから注意が必要だけれど、外見にはそんな乱暴さはカケラもない。セーラー服におかっぱ頭で年齢は15、6歳といった感じの大人しそうな女の子。その癖に喋る口調はややぞんざいな男の子風で、ホローを相手に大人びた口をきいては、ホローの同級生の嘉島詩夏が席替えの時に予知の力を見せたと聞いて驚き、あれやこれやと思考を巡らしてみせる。

 誰かの寿命を奪いに現れる、残酷な死神のイメージとはかけ離れたイメージのウォルナッツ。実際にその後も死神のように鎌を振るったり、魂を抜き出すようなそぶりは見せない。ホローが猫を助けた夜の河原で出会った、「ぜっこーだ」が口癖の星澄夜空という名の少女か、それともクラスメートの詩夏のどちらかが、トラックに跳ねられて死んでしまう未来のいったいどちらを選ぶのかを迫り、どちらかを選ばなくちゃいけない理由を語り、そしてどちらでもない未来を選べる可能性について思索しては、迷い悩むホローを導いていく。

幼い頃からの友人だった夜空が、トラックに跳ねられる場面をずっと予知していて、助けたいと思いながらも手を差し伸べられず、夜空が死んで生き残った詩夏が悲しみに暮れる世界。そんな詩夏が身代わりになって死んでしまい、夜空だけが生き残って悲嘆に喘ぐ世界。どちらかをどうあっても選ばなくてはいけないなんて、哀しすぎるとホローはうめく。

 「シュレーディンガーの猫」のパラドックスで有名な量子論の観測問題を拠り所にして、確定していない未来ならば変えられるはずだと思い込み、じっさいに改変に成功したかに見えて、やっぱりどうしようもなくなってしまい、挙げ句に多数あったものが2つに、そして1つに確定してしまった未来はもはやどうあっても変えられないのかと、諦めの空気が流れ出して心を締め付ける。

 そんな絶望の縁にあって、必死の思いで巡らされるホローとウォルナッツの推理と思考と行動は、消えてしまった未来を呼び戻すことができるのか。一直線でしかなく、そして後戻りも不可能な現実の時空間に生きている人間からすれば、一言のもとに不可能だと断じて切り捨てて構わない問いかけかもしれない。しょせんはフィクションに過ぎないのなのだから。

 けれども、現実ではないフィクションだからだからこそ、後悔とやり直しを繰り返して成長していく姿を描けるのだ。この物語を読むことで、かけがえのない現実のやり直しがきかない時間をどう生きるかを考え直し、終わり際になって満足と納得のいくだろう未来をつかむことが出来るのだとしたら、読んで学び教えられる価値はある。そう思われているからこそ、神がサイコロを振らないこの世界にあって、いくつもの改変と改心の物語が描かれ続けて来たのだ。

 観測問題についての解釈が妥当かは不明ながらも、単純に死神が現れ魂をかり集めようとして逡巡したり、あっさりと集めて地獄へと戻っていったりするタイプの物語とは違った新鮮さを与えてくれることは確か。ひとつの死のみが語られ、慟哭の情を引き出すのではなく、いくつかの生死が招く悲しさや憤りをクロスさせ、死の意味と生の意義について語ろうとしている。

 ウォルナッツとは何者だったのか。それが最大の謎だけれども、謎めいてこその死神だ。いずれ再び現れては、迷い逡巡する世界を導いていく姿を遠からず見られるものと信じて続刊を待ち、この巻を隅々まで味わい尽くそう。深夜と詩夏のどちらがよりタイプなのかも考えながら。


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