あなたの町のきてるかんでるかわからない探訪します

 自宅を出てちょっと歩いた所にある、JRと私鉄の線路に挟まれた場所に走る車1台がやっとの路地に面して立てられていたレストランがもう、長いこと休業になっていて営業を再開する気配をまるで見せない。珈琲の広告が入った店名の看板も引っ込められて、ショーケースにも光が灯らず中のサンプルは暗さに沈んで少しも美味しそうに見えない。

 もっとも店がまだ営業していた時だって、サンプルに並んだ当たり前すぎるメニューに、わざわざ入って何かを食べようという気はおきなかったから、同じように思って足を遠ざける客が増えた結果、店を畳まざるを得なかったと言われれば、当然でしょうと受け止める。だから閉めるとも、畳むとも書かずにしばらくお休みしたいと書いてある紙を、入り口のガラス戸の中に外へと向けて張り出したまま沈黙しているこの店が、いったい何を虎視眈々と狙っているのかが気になって仕方ない。

 小学生の子供がアイディアをひねり出しては起死回生のスペシャルメニューを厨房で練り上げているのか。全国を流離う無免許の凄腕料理人がやって来るのを待っているのか。だとするならば営業再開となった暁には、駆けつけそのメニューを是非に食してみたいところだけれどもただ単に、調理人が腰を抜かして店を閉めていただけで、体調が戻ったから再会しましたというだけでは、営業中止の直前に客がまるで集まらず、生きているのか死んでいるのか分からなかった状態が復活するに過ぎない。行ってもきっと楽しいことはなさそうだ。

 いやいや、それだからこそ行くべきだと考える奴らがここにいた。小説家の菅野彰に漫画やイラストを手がける立花実枝子のペアに、付き添いの友人知人編集者たちが日本の街角を訪ね歩いては営業しているのかしていないのか、していても繁盛しているのかしていないのかが今ひとつ判然としない食堂やレストランへと突入。そしてどっちつかずの理由の最たるメニューを食して感想を語り描いたのが、その名も「あなたの町の生きてるか死んでるかわからない店探訪します」(新書館、800円)だ。タイトル長いなあ。

 まずは小手調べ、といかずのっけから大穴を引き当てるところがこのペアの業の深さか運の良さか。取材の初手で入った大泉学園の寿司屋こそ、座敷で子供が遊び表を不動産屋が嫌がらせで置いた鉄骨が固めているものの、出す鮨はどれも美味くて値段もリーズナブル。まさしく“生きている”店だったけれどその足で向かった某中華飯店が凄かった。おそらくは収録されている「生きてるか死んでるかわからない店」の中でも最高最大最強の“死にっぷり”だったと言えるだろう。

 入り口の脇に起って当たりに伸びる妙な木の枝。その先に何か得体のしれない貝殻がカランと載せられていてイラストではまるでキノコに見える。中に入ればテーブルの上には洗いかけの食器やら、脱ぎ散らかされたトランクスやら靴下やらが巻き散らかされてまるで誰かの下宿のよう。これは休業中かというと違ってしっかり営業中で、現れたおやじは並んだメニューの何でも出来るとのたまう。

 ならばと注文して出てきた中華丼は名ばかりの中華丼で具は意味不明。つみれにだいこんいはんぺんにたまごに肉団子と並んだそれは、おでんをすくいぶち込んだものに違いないと菅野たちは類推する。なあにおでんも中華丼も同じ食べ物、食べて食べられないことないと笑うのは早計だ。後刻、菅野は吐き、立花は下した。合掌。

 死んでいるというより死をもたらしかねない店を経験して、これは命にかかわると止めるのが普通人間だけれど作家に漫画家は残念ながら普通の思考の持ち主ではない。ネタのためには命を張る。片方が死んだら大ネタになると考え競い争って店を探して扉を開き、暖簾をくぐる。仮に「ボナパルト」という洋食屋ではステーキにブルドッグソースがかかりエビフライにキューピーマヨネーズが添えられ、フルーツパフェには「キットカット」が刺さっている。仮に「村村庵支店」という蕎麦屋はテーブルの脚が片側だけ短く、載せられたメニューがだんだんとずり下がっていく。それぜもひるまず食べ味わって“死”を体感する。

 時折まっとうな店にも出会うけれども趣旨とは違うから詳しくは触れられず、ただ所在地と正しい名前が紹介されている程度。もっとも居並ぶ“死んでいる”店たちのあまりの凄まじさが、普通であっても“生きている”その生き様を激しく輝かせて浮かび上がらせるため、これはひょっとしたら世界も驚く名店なのかもしれないといった気分にさせられる。でもそれだったら生死を問われる以前に、普通に評判になっているだろうから輝きは半分くらいだと受け止めておくのが親切、なのかもしれない。

 さてクライマックスに控える仮にその名を「レストランと○こ」という店は、窓に雀がぶちあたりハンバーグは生煮えでスパゲティイタリアンには(しょうゆ)の文字が付いて実に激しく涅槃を彷徨っている感じを漂わせている。決して不味い訳ではない。一部には「レフトラン」として有名なその店を訪ねる猛者も多くいて、食べて美味かったと報告する人もいる。

 それでは何か磁場に不穏なものが混じっていたのだろうか。食後、1人はもどし、1人は寝込み菅野の腕はじんま疹にふくれあがった。もはやグルメガイドではなく心霊ガイドの様相。ここまでの凄さを聞くと味より場の空気に触れてみたいと思い、訪ねる霊能力者も出てきそうだ。

 そこで何を発見するのか。あるいはメニューを作り饗応する「と○こ」そのものが霊的存在なのだと喝破してしまうかもしれない。人ならぬ霊の作る料理を味わえるのなら多少の犠牲も仕方がない。あとは霊との波長次第。合えば美味さに舌鼓をうち合わなければ凄まじさに悶絶する。それが霊との付き合い方のコツだ。

 かくして雄壮にも生死の垣根に挑んでは、賽の河原を歩きステュクスの川へと脚を浸しながらも今はまだ、生者であり続ける菅野と立花のペアと友人知人との挑戦はひとまず終わった。けれどもしょせんは首都圏近郊を訪ねただけに過ぎない旅には、日本という長大な土地と、そこに息づいているのかそれとも息が止まっているか分からない店が待っている。これぞという店を目にしたならば読者は情報を送ってみてはいかがだろう。まずは2人に試してもらって、それで無事なら自分が行く。炭坑のカナリアに自分がなる必要なんてないのだ。

 近所の張り紙が長く出ているそのレストランも、営業再開の暁には是非に菅野彰と立花実枝子の来訪を望みたい。


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