子午線を求めて

 須賀敦子の帯の賛辞に惹かれて買った「郊外へ」(白水社、1800円)で、その須賀敦子に近い散文の書き手との印象を持った堀江敏幸の新刊が出ていて、須賀のファンであり流れで堀江に関心を抱いた人間として、深く考えるまでもなく手に取りレジへと運んだ。

 その本、「子午線を求めて」(思潮社、2400円)は、フランス文学をもっぱら紹介する文章が中心で、フランス文学とは古典から現代作家に至るまでほとんどまったく無縁な身には、感情を乗せるとっかかりに乏しいハンディはあったが、本筋をいきなりつかず、関連するエピソードから入った上で徐々に、あるいは断片的に対象へと迫って行く文章の組み立て方が巧みなせいもあって、本を紹介する文章自体を楽しめると同時に、紹介されている本への興味が著しく喚起される。

 例えばクロード・ピュジャッド=ルノーの「Belle Mere」を紹介した「美しい母の発見」では、ウードクシーという名前の女が、2度目に結婚した相手の子だった、自閉症気味の部分が出て死別した実の母親の思い出に浸り続ける男から、95歳になって養老院に向かおうとしている場面で、「ここでいちばん美しいのは、あなたなんだ!」と言われるクライマックスが活写されて、その激しさと強さを伴った愛の告白の迫力に、ただただ圧倒される。そこへと至る、すれ違いがだんだんと理解に変わっていく様がいったいどう描かれているのか、読んでみたい気持ちに激しくなったが、何しろフランス語は門外漢。邦訳の有無に興味が向かう。

 それからクリストフ・ドネールという人が書いた「ぼくの叔父さん」を紹介する、タイトルもそのままに「ぼくの叔父さん」という一文は、冒頭にロシア共和国のエリツィン大統領がモスクワで開催しようとしたサッカーの国際試合を、グラウンドコンデションが悪いからと最初に予定されていたスタジアムでは開催させなかった審判、ジョエル・キニウーのエピソードから筆を起こす。

 転じてクリストフ・ドネールがチャウシェスク処刑後のルーマニアに旅して、そこで文学談義ならぬサッカー談義に花を咲かした時に聞かされたキニウーへの賛辞に答えて、「あれは、ぼくの叔父さんなんだよ」と言ったエピソードを間に添えて本筋へと繋げる手法に、よくもこれだけのことを知ってるものだと驚き呆れつつ、けれでもこれなら読んでみたいと想わせる。たとえフランス文学に関心はなくても、サッカー好きならやはり読んでみたくなる。同様に邦訳の有無に関心が及ぶ。

 「アンボワーズの春」という小題の文章は、マルセル・アルランの「あなたに宛てて……」という10通の架空の往復書簡で構成された本を紹介したもの。モンテルランという人が「作家とは多かれ少なかれノートを取ったり、日記をつけたりするものだ」と自身たっぷりに言って、それにマルセル・ジュアンドーが賛同した場面に居合わせた男が、自分は作家だか何故日記をつけないのかを弁明する内容をしたためてジュアンドー宛てに出した手紙が、第2通目の「書くことの恩寵について」になっている。

 手紙の中にある「制作のための素材管理を名目とした日記には無意識の取捨選択が働くものだし、そもそも私の人生は記録に値する重大な局面ではなく、むしろ『田舎の片隅、水や風の音、沈黙、和音のきらめき』といった些細な事象に支えられている」と言っている部分は、ネット上で公開するために日記を付けている「インターネット日記者」に、心の中ではなく文章としてホームページの上に記録することの意味を、あれこれ考えさせるはず。これも読んでみたい。

 冒頭に収められた表題作の「子午線を求めて ジャック・レダに」は、詩人のジャック・レダとの邂逅がメインの文章ながら、冒頭で語られるのは焼き玉蜀黍の話であり、筆者が如何に玉蜀黍を食べるのが下手かが紹介され、それからパリをさまよい歩く話へと移ってパリを起点にした子午線の存在に言及、それがパリ子午線を取りあげた漫画「タンタン」のエピソードへと飛び、再びパリの描写へと戻ってそれからようやくレダへの邂逅へと至る。

 けれども目的であるにも関わらずレダとの会話に込み入った文学的な内容は描かれず、息子がチベットでガイドをしているというレダに「それじゃあ息子さんは『チベットのタンタン』ですねとあらずもがなの応答」をしてしまうエピソードに流れ、煙草に火を付ける時のマッチの持ち方に転がり焼き玉蜀黍に移り、「星の王子さま」「ぞうのババール」「バーバ・パパ(バルブ・ア・パパ)」をかすりつつラストに浮かび上がるマッチの火。虚ろい流されていく散らばったエピソードが、それでも1筋の糸でもってパリの空の下につなぎとめられて、歴史を刻み続ける街の姿を浮かび上がらせる。説得の目的を持って語られていない文章がかえってパリの有り様を、詩人の姿を活写するこの不思議。驚くばかりだ。

 恥ずかしながら週刊誌で本の紹介などをさせられている身であり、またホームページで本を紹介しては悦に言っている身の上ではあるが、改めてプロの仕業を見せられると、なるほど本の紹介とはこのようにすれば良いのかと、反省と驚嘆に浸らされること仕切り。とは言えこれだけの散文を書けるまでの教養を入れ込む素養のない身、真似などせず正直に、気持ちに即して紹介していくしかないのだろう。だからただ褒めよう。パリが好きでも嫌いでも、フランス文学を嗜んでいてもそうでなくても、本と街とサッカーと歴史と建築と絵画と人間を愛する人は読んできっと損はない。


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