せちやん 星を聴く人

 月に行ったロケットとか、初めて飛んだ人工衛星とかがフィギュアになっておまけに付いた「王立宇宙博物館」が人気になったり、何万年とかぶりに近づいてきた火星をじっくり見ようと天体望遠鏡が売れにと売れた2003年・夏。

 そんな”宇宙ブーム”に触れた人に川端裕人の「せちやん 星を聴く人」(講談社、1600円)は、ジャストタイミングで出た物語で、フィギュアに宇宙開発が熱を持っていた時代を思い出し、火星に別の生命の存在を思い浮かべた気持ちを、今ふたたび宇宙(そら)へと向かわせる”効果”を持っている、とタイトルや雰囲気を見て思った人も多いだろう。

 学校の裏山にひっそりを庵を構え、奇妙なアンテナを設置して住んでいる30過ぎの奇妙な人物「せちやん」に関心を抱いた中学生3人が、出入りして手作りのプラネタリウムを見せてもらい、宇宙を探査し宇宙からの声を聴く話に耳を傾けるうちに、だんだんと宇宙に惹かれるようになっていく。

 なるほど少年の夢をいつまでも、といった具合にそこで経た経験がやがて大人になった時、現実への宇宙へと向かい広大無辺の彼方へと、夢を馳せさせる壮大なドラマが繰り広げられ感動を与えるんだろうと、そんな固定観念を持って読み進めていったラスト。ドンと突き放され、目の前でガシャンと扉を閉ざされた気持ちになって、何とも言えない哀しみで胸がいっぱいになる。

 「せちやん」の庵に集い語らった少年の日々はいつまでも続かず、危ない人だからと親に「せちやん」から引き離された3人には、それでもそれぞれに心に残るものがあったようで、1人は音楽家になろうとアルバイトをしてバイオリンを買い、星からインスパイアされた音楽を奏でる夢へと走り出す。もう1人は文学を志し、定職に就くことなく街を、そして故郷を流離っては言葉を探り詩として書き留めていく。

 けれども残る1人、「せちやん」にいちばんのめりこんでいたように見えた主人公は、コンピューターへと興味が移り、そのままエンジニアとして入った会社で金融工学の才能を認められ、ディーラーとして活躍し独立してソフトウエア会社を興してこちらも大成功。若いIT長者として日米を又にかけて活躍する。

 知り合った彼女がヒーリングへとのめり込んでいく姿を見送り、パラボラで奇妙なメッセージが受信されたから解析して欲しいと訪ねてきた「せちやん」も這々の体で追い返した主人公はリアリストになってしまっていた。宇宙への関心を心に留め置き宇宙を題材にしたゲームを作ろうとしたのも、切迫する本業からの逃避が気持ちの奥底にあったからだった。

 やがて訪れた破綻で、主人公は再び「せちやん」の遺志に触れ、忙しさの中で脇に置いていた宇宙への関心を再び向けるようになる。成功と挫折の果てに取り戻した宇宙への夢。「せちやん」の薫陶を受け友人たちと語らった少年の日々の再来に、喜びと開放感を覚えたくなった気持ちが、最後で”絶望”とそして”孤独感”へと変わり暗然とさせられる。

 そうなんだな。結局はそういうことなんだな。遙か彼方に存在する文明へと、向ける意欲を減殺される可能性を持ったエンディングに、人類が空を見上げるようになっていからずっと抱き続けて来た夢を奪うのかと叫び出したくなる。けれども。バイオリニストを夢見て果たせなかったクボキは、宇宙への言葉を詩に遺して逝ったたやっちんは、届かない思いに、届けられない声に絶望したのだろうか。

 たぶんそうではないだろう。絶望感はあくまで主人公ひとりの生き方に依るものでしかないのではなかったか。本気になって莫迦をやるだけのリスクを冒さず、どこかに退路を用意しながら上っ面の興味を”夢”と言いくるめて嗜んでいるだけでは、とうていあがれない高みがあるのではないのか。

 主人公の打ちひしがれ身もだえる姿は、本気を出そう、夢に向かって突っ走ろう、たとえお金で成功しなくても、夭逝してもそれはそれで素晴らしい、全宇宙に誇れる生き方なのだとだよって訴えているようにも取れる。たったひとりで完結できる話ではない。みんなの希望が依り合わさって得られる彼方へ、幾重にも世代を重ねてたどり着ける遠い場所へと、進む意味を語っているようにも思える。

 あるいは人間としての限界を知り、夢よりも現実に生きる道を厳然として示しているのかもしれない。それでもだからといって宇宙へと向ける気持ちを終える必要はまったくない。狭く乏しくなっていく地球に暮らす人類たちに、宇宙は希望を夢ともたらす遺されたフィールドだ。まずは上がること。そして進むこと。その果てに、「せちやん」が聴き、主人公が聴いて覚えた孤独感と同じ気持ちに沈む心を、人類が融かすことができたらこんなに素晴らしいことはない。


積ん読パラダイスへ戻る