世界線の上で一服

 科学とか物理学といった難しい理論や、SFとかファンタジーといった想像の世界を脇におけば、時間は一直線に前へと流れ過ぎる物でしかなく、決して繰り返しはしないし、逆戻りもできない。あの時ああすれば良かったと、いくら思い嘆いて悔やもうとも、すべては後の祭りでしかない。だから人は考える。今をどう生きようか。これからどちらに進もうか。過去を変えることはできなくとも、未来は誰にだって簡単に変えられるのだから。

 それでも人は誘惑に弱い。たとえ幸福に過ごして間もなく人生を終えようとしている人でも、その幸福を得るために切り捨ててきた夢が必ずやあったはず。そんな夢を過去へと戻り選んで良いんだと言われ時、人はいったいどういう気持ちになるのだろうか。

 決して喜んでは過去に戻って夢を取り戻そうとは思わないだろう。今までに得た幸せを失ってしまうのだから。けれども同時に今までに感じた以上の幸福を、得られるかもしれないという思いが頭を駆けめぐるだろう。逡巡の果てに今の幸せこそが最善と自分を納得させたとしても、それまでのような無垢に今を信じる気持ちは薄れ、無限大だったはずの幸せに限りとそして別の選択を見て悩むのだ。

 早見裕司が久々に贈る長編ファンタジー「世界線の上で一服」(プランニングハウス、800円)で語られるのは、一直線でここまで来た人生が過去に戻ってやり直せたらという、甘美な毒を目の前に差し出された人間が自問し自答を繰り返す物語だ。

 主人公は香坂七夜というペンネームを持つ29歳の小説家。学生時代から小説家になりたいと願い実際にデビューもしたが、ジュニア小説を8年に渡って書いてきたもののパッとせず、それでも物書きとしてチラシのCD評といった仕事もしながら、飛躍を目指して「おとなの小説」を書いてはジュニア小説家からの脱却を目指していた。

 その日も七夜は出版社へと原稿を持ち込んだが、編集者の受けは悪くトボトボと神保町から九段下への道をたどり、途中に見えた公園から下を流れる川へと没原稿を投げ込もうとしていた。そこに一人の見知らぬ女子高生から声がかかった。「何してるの」。

 エリスと名乗った少女は、「おとなの小説」を書こうとしている七夜に「おとながどういうものか」を見せてあげると言って、神保町の古本屋へと行き秋葉原のパーツ屋へと行き病院に入院している少年を見舞って、幸福に人生を終えようとした古本屋のおばあさんに女優になれたかもしれない可能性を思い出させ、野球選手の道があったかもしれないパーツ屋の主人の心をが騒がし、脚を失った少年に決して叶わない希望を吹き込む謎の人物・亜影王の姿を探して回った。

 黄昏を見つめる奇妙な姿の楽隊たちに、煙突のようなビルに住む老化学者。奇妙な人々との邂逅を経て、七夜はやがて亜影王を見つけ出して対峙する。そこで七夜自身も夢がかなって流行作家となった世界を見せられて、大いに心を揺り動かされる。

 ジュニア小説の世界でデビューした後も、決して小説家としては順調とは言えない道を歩み、この数年は脚本の仕事に懸命で、小説のそれも長編はまったく手掛けていなかった早見裕司が、久々に世に送り出した「世界線の上で」はすなわち、作者自身の迷い悩み悔やみ恐れた試行錯誤のプロセスが、私小説のように綴られた物語だと言える。

 幻想文学大賞を受賞して華やかな壇上でスピーチを延べ、可愛い家族に見守られて息を引き取る文字通り「夢のような」人生を、香坂七夜は亜影王によって見せられる。それは確実に早見裕司自身も夢みて止まない人生の1つの姿だろう。

 だが、早見裕司も香坂七夜も、脚を失った訳じゃない。野球を捨ててパーツ屋の主人として過ごした訳じゃない。歌手になりたいと思いながらも評判の定食屋をきりもりしている訳じゃない。そして幸せな人生を古本屋で過ごしてもうすぐ終えようとしている訳じゃない。1つの夢もかなっていないがしかし、これから夢をかなえるだけの時間もエネルギーも早見は、そして香坂は十分に持っている。多分大勢の読者たちも。

 亜影王がお婆さんに、パーツ屋の主人に、脚を失った少年に見せた夢は現実で得た幸せに影を落とす残酷さをはらんだ夢だったかもしれない。けれども物語で香坂に見せた小説家として成功する夢は、これからだって十分に現実にできる可能性を持った未来なのだ。

 「おとな」は過去に耽溺するよりも今の幸福を願う方が有意義で正しいのだと物語は示している。と同時に、「こども」は今より先に訪れる未来を、夢見るだけではなく現実の物として手にれる可能性があるのだということも語っている。もしかすると早見裕司は、香坂七夜の人々が図らずも見させられた残酷な夢を訪ねる物語を通じて、ありうべき可能性を未だ存分に秘めていることに我が身を気付かせ、奮い立たせたかったのかもしれない。

 「世界線の上で一服」をもって早見裕司はありうべき未来へと再び足を向け始めた。行き着いた先で幸福に埋もれたまま没するであろう「夢」の「未来」を今は信じてあげたい。


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