世界の終わりの終わり

 未来なんて分からない。

 ほんの数年前まで。懊悩の中に陰々滅々としていた人間が、芥川龍之介賞に3度もノミネートされた当代きっての美人作家で、近隣の若手作家たちを集めた文壇サロンにも似た華麗な人脈を作り上げ、ゴージャスに交友している人物を射止めたか、それとも射止められたかは不明ながらもご成婚。加えて当人も三島由起夫賞を受賞して、純文学作家として順風満帆にその道を歩んでいたりする。

 こんな未来。きっと当人だって分かっていなかっただろう。それとも分かっていたからここまでやってこれたのか。

 講談社から出した6冊は、すべて赤字で編集担当者への申し訳ない気持ちに苛まれ、挫折しどうしようもなさに身を縮こまらせながら暮らしている田舎では、まだ幼かった頃に線路を横断しよとして列車に跳ねられ、体をまっぷたつにされてしまった妹の残滓が脳内に巣くい、その言動に悩ませられつつ励まされつつ、再び作家として蘇る時を思いながらもあり得ないと思い直して、日々を鬱々と生きている。

 それでもどうにか一念発起し、作家の道を再び歩もうと妹が死んだ線路を乗り越え東京へど出たものの、空港からモノレールで到着した浜松町で出会った、新興宗教めいた活動をしている舞然姜華夢璃告里子(まいぜんしょうむりこくりこ)という、奇妙な名を名乗る少女と邂逅。その強引さに押され退きつつ、なぜか受け入れ励まされ、同居を始めて作家への道に1歩づつ近づいていったある日。

 彼女は一足先に東京タワーの側のビルから飛び降り自殺してしまい、残され絶望して脳裏に浮かぶ妹の幻影を伴い、北海道を漂い自殺まで試みながらもどうにか書き上げたqその小説が、編集の絶賛を浴び刊行されそうになったという。そんな青年が主人公の、作者と大きく重なる自伝的で私小説的な雰囲気を感じさせる佐藤友哉の「世界の終わりの終わり」(角川書店、1500円)。今の佐藤友哉の絶好調ぶりを知って振り返れば、書かれた悲惨な境遇も、懊悩する心理もすべて虚構で半ば嫌味にすら見えてしまう。

 芥川賞候補の妻に三島賞受賞の栄冠。それで作家になりたい、なのに作家になり切れない、妹は死んだ、彼女も飛び降りたと綴って一体、何をそんなに不幸ぶっているんだと読み手を呆れさせかねない。2007年10月という時期での、こんな内容を持った小説の刊行はそんなリスクを激しくはらむ。

 もっとも。考えようによってはそうした苦難があったからこその今だと言える。ラスト。艱難辛苦を乗り越えた果てに、作家になれたんだ、夢がかなったんだ、世界の終わりは終わったんだといって喜びを爆発させている様は、まさしく今の本音を現したものだと受け止められ得る。

 たとえ脳内に妹を作り出して励まさせるという、傍目には気色悪いタイプの人間であっても、真剣にまっすぐに頑張れば幸せになれるんだという実例が、ここに存在するんだということを証明した作品として、青い鳥を探して病まない若い世代の共感を、集めて人気になったりするのだろう。

 もはや文学は大人たちのものではない。というよりもともと文学は若者のピュアでストレートな情動に訴えてヒットし、エバーグリーンなアイテムとなって来た。太宰しかり。三島しかり谷崎しかり。ならば佐藤もそこに加わって不思議はない。現代を代表する作家として、文学に憧れ文学に退かれ文学に戯れたいティーンの支持を集めてますますの人気と成功を得るだろう。得ながらも過去の不幸を切り出し見せつつ今の成功を示して、ヒーローとしての憧れを一新に背負って、作家の道をひた走るのだろう。

 何という強度。表層的な物語を類型的なキャラクターによって描き感覚的な支持を集めて人気になる風潮を嫌い、「キャラクターズ」というタイトルでキャラ化される文学を批評した東浩紀と桜坂洋が、いくら作品の冒頭でその成功ぶりを論っても、もはや佐藤友哉には届かない。支持する者たちも引き剥がせない。,

 未来は永遠に開かれた。


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