Scientia
スキエンティア

 科学は人を幸せにする。けれども科学だけでは人は幸せになれはしない。幸せになりたいと思う気持ちがあって、はじめて人は科学の力を身に取り入れ、幸せになることができるのだ。

 科学の凄さと、科学の限界。そして、人の強い心がもたらす可能性が、戸田誠二という漫画家の連作短編集「スキエンティア」(小学館、619円)に収められたエピソードたちにつづられる。

 たとえば、篠原香織という名の女性の場合。父親は消え、母親は飲んだくれ、彼氏にも逃げられ、働いても未来に希望が抱けず、もう限界で後は死ぬしか道はないと思いこんでいた彼女が、他人の人格を乗り移らせる科学の力を体験した。若くして会社を創業し、巨大企業へと育て上げながら、40歳過ぎに発病して、四肢が動かなくなっていった実業家の老婆が、健康な時にやり残した事を、香織の若い肉体を使ってやりたいと考えた。

 老婆は香織の体に人格を乗り移らせて自在に動かし、アルバイトに自炊、そして恋といった経験して蘇った青春を謳歌する。香織はその様を、自分の体ながらどこか離れた場所から映画で見るような感じで体験し、前向きになった自分に得られたさまざまな喜びを知る。

 老婆が元の体に戻った後に、香織はもう死のうとは思わなくなっていた。自分でもできるはずだと自信を取り戻し、幸福を探して歩み出す。

 どんなことにも関心が持てない性分に思い悩んでいた久保という男性は、恋に熱中したいと思い、誰かを好きにさせられる惚れ薬を手に入れ、自分自身で飲んで薬の勢いで藤川という女性の先輩に告白する。告白は成功し、藤川先輩といい仲になっていったものの、その先で仕事が重なりぶつかりあったりもして、会えない時間が多くなって久保は苦悶する。

 強い思いが招いた苦悩なら、思いなんて無くなってしまえば良いと、久保は惚れ薬を飲まなくなって、藤川先輩との仲を恋愛から上司と部下という関係に後退させようとした矢先。片づいたプロジェクトの帰結に藤川先輩が見せた涙顔が、久保の心を揺さぶり関係を取り戻させる。

 薬はきっかけに過ぎなかった。ひとつの姿を見せてくれただけだった。そこで得られた経験が、自信となって男性に前を向かせた。

 最愛の夫と娘を交通事故で失った女性が、隠された技術だからと申し出られたクローンを作る技術で娘のクローンを作り、新しい娘として世に生んだ。同じ顔を持って育っていく娘に、失った娘を重ねてみる母親。これが普通なら、決して同じではない姿に絶望して放り出す物語に向かう。

 しかし戸田誠二の筆は、母親に新しい娘を前の娘と重ねさせつつ、それでも自分の愛しい娘なのだとう思いを母親に宿らせ、失った年齢を超えたところで一区切りを持たせて、改めて新しい生を娘に与え、新しい人生を母親に与えてそれからの時間を歩ませる。

 酷い鬱に悩まされていた男性が、鬱を抑制する一方で副作用も出る機械に身を任せ、仕事をバリバリとこなした果て。限界が来て深く沈み込んでいた時に、それでも頑張った彼を認める女性の存在が、暗闇へと落ち込もうとしていた男を奮い立たせ、蘇らせる。

 科学技術はきっかけに過ぎない。そこから立ち直るのは人間の気持ち次第。科学を称揚しつつ、人間を讃えるストーリーからにじむ温かさと、決して人間を見捨てない優しさにあふれた短編たちは、読んでいて心に強く響く。

 絵柄は訥々として平板といえば平板。女性も見目麗しいと行った感じではないけれど、それだけに妙に生活感があって、リアリティがあって、読んでいて心にジンと来る。胸をキュンとさせる。

 能力を高めて詩歌の才能を開花させる代わりに、寿命を縮める機械を使ってスターとなった男と、使わないまま平凡な人生を歩んだ男とを重ねて描いたラストの1編。幸せだったのはどちらの人生か。選び方によって、あなたの人生への態度も決まる。

 幸せな家庭も才能も、どちらも得るためにはどうすれば良いのか? それこそ機械に頼り、薬に頼るしかないのか? 物語を読んで考えよう。そして気づこう。自分自身の心を。自分自身を信じる強い気持ちの尊さを。


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