世界殺人ツアー
殺人現場の誘惑


 ああ、人殺しがしてえなあ。

 なんて物騒な事を、言ったり書いたりしただけで不逞な輩と思われることくらい、自明の理と承知してはいる。それでも言ったり書いたりしたくなるくらい、世の中には実に楽しげに人を次々と殺害する輩がいる。それも大勢。

 ”特殊翻訳家”の柳下毅一郎が世界の有名な殺人現場を回り、殺人関係の本を読み漁っても書いた「世界殺人ツアー 殺人現場の誘惑」(原書房、1600円)に登場するのは、58歳の夫人をライフルで撃ち殺して切り刻み、墓から掘り出した人間の皮でランプシェードやベルトや椅子を作った男やら、斧を振り回して両親をめった打ちにして、血みどろの居間に打ち捨てた女やら、家出少年を誘い込んではバラバラにして肉を食い、闇市に売っていた男やらいろいろ。

 かくもグロテスクな行為に、彼らを(あるいは彼女らを)駆り立てた動機が、すべて快楽を求めてのものだったとは限らない。けれども、真っ当な教育を受けた人間が、1番にプレッシャーに感じる行為、つまりは人殺しを、罰への恐怖であれ良心の呵責であれ、とにかくあらゆるくびきから逃れて易々とやってのける人々に、この閉塞感あふれるこの社会において、魂の解放を見て憧憬を覚えて何の不思議があるだろう。

 端正なマスクとあふれる知性を誇り、どんな仕事でもどんな女性でも思いのままであっただろうテッド・バンディが、調べのついただけで20人、自供を信じるならば100人はゆうに超える女性を殺した理由が自らの快楽のためだったのか、想像はできても確信はない。それでも彼が端正なマスクとあふれる知性という人間としては最高の部類に入る武器を、人間世界の常識に照らし合わせた意味での「成功」を掴むためではなく、ただ女性を絞め殺す、殴り殺すために使ったということに、人間世界では非常識の部類に入る「自由」を掴むことに使った、その贅沢さに嫌悪と嫉妬を覚える。

 冒頭の人皮グッズ製造者にとって殺人は快楽だったのだろうか。その男、アメリカの殺人史上に燦然と輝く漆黒の星、映画「サイコ」のモデルにもなった殺人研究家にとっての「ハートランド」たるエド・ゲインが殺した人間はたったの2人(数が罪を減免も増進もしないことは承知)。それも今ならさしづめ痴情の縺れとも強い怨恨とも分析される殺人に過ぎない。がしかし、墓穴から掘り出した死体を切り開き皮をはぎ、道具をこしらえたゲインの心には死体への尊厳は微塵もない。あるのはただ己の(人間世界では非常識な)欲望。殺した2人を切り刻んだ行為も、動機はともあれ結果として(人間世界では非常識な)欲望の発露だったとも考えられる。欲望を押さえつけようとする意識・無意識のタガはない。

 柳下毅一郎が「巡礼の度」で訪れた米国の殺人現場や押収の殺人博物館に遺された快楽の残滓。それは当人にとっての快楽とは限らず、見る者に(人間世界の常識から外れた)魂の解放を覚えさせるという意味も含んだ快楽の残滓を見るにつけ、いつかどこかで誰かを・・・・と、考えてみてもやっぱり人間世界の常識にどっぷりと浸った頭には、ただその快楽を想像することしかできない。巻末に登場する豊橋市在住の実録殺人本コレクター・河合修治や、筆者である柳下毅一郎のように、資料に当たり、伝記を読み、時には現場を踏みながら快楽の跡をなぞるしかないのだろう。

 人が快楽で人を殺すことは朧気ながら理解できても、少年が何の脈絡もなく教師を殺し警官を殺し友人を殺す今の状況は、流石に人間世界の常識を外れても感嘆には理解できそうにない。快楽であれ憎悪であれそこには「心」がある。けれども拳銃が欲しいからと警官を刺す少年に、どうしても「心」を感じることができない。というより彼に「心」が当然あっても、その色や形を判別することができない。

 人類誕生以来、果てしなく繰り返されて来た殺人の歴史には載ってない、もちろん「世界殺人ツアー」にも類型化されていない、これまでの殺人者の文脈とはまったく違った新しい殺人者が生まれて来ているのだろうか。ただ機械的に、それこそ空気を吸うように、何の呵責も、あるいは喜びも感ぜずに人がを殺せる時代。あらゆる経験から逸脱した、無感殺人の時代に、「特殊翻訳家」は何を思う。


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