サエズリ図書館のワルツさん

 嵩張るし重たいし積めば崩れるし棚に並べようにも入りきらないし。それでも人が紙の本を買って読むのは、今はそれが言葉を流通させる最大の手段だからだけれど、電子書籍がだんだんと広がり始める中で、紙の束でしかない本を本として買うよりは、電子書籍をデータとして持つの方が、楽で便利だと思い始める人も増えている。

 あらゆる本がほぼすべて、電子データとなって手元の端末から手軽にアクセスできるようになったとして、それでも人は紙の本を買い、読んでそれを手元に残しておくのか。書かれた言葉こそが本ならば、別に中身があれば外側なんていらないのではないのか。そんな問いが投げかけられては、違うといった反論も起こったりして、長く使われてきた紙の本という形式への、未だ根強い支持を現す。

 もっとも、そうした反論も、本は本であるから本なのだというトートロジー的で、どこか神学とも哲学ともとれそうな範疇での声にしかならない。いずれ、さらに本の電子化が進んでいけば、紙の本はいっそう珍奇なものとなっていく。あるいは、省資源といった観点から、貴重で希少なものとなって脇へと追いやられ、棚上げされて遠い存在となっていくだろう。

 それでもなお、紙の本が好きだと言い切るには、いったい何が必要なのか。本を愛し抜いてやまない司書と、本を愛したり憎んだりする人たちとの交流を描いた紅玉いづきの「サエズリ図書館のワルツさん1」(星海社FICTIONS、1200円)から、あるいは、そうした問いへの答えが得られるかもしれない。

 会社勤めをしている上緒さんというOLが、職場で嫌なことがあって落ち込みながら運転していた車を、どこかに止めようとして空いていた図書館の駐車場に入ったら、そこに止まっていた車にぶつけてしまった。パンプスのヒールも折れて踏んだり蹴ったりの中、それでも誰かに告げようと図書館に入って、そこでワルツさんという特別探索司書と出合う。

 所蔵しているすべての本に関するデータに、アクセス可能なワルツさんの調査によって、すぐに分かった上緒さんがぶつけた車の持ち主の岩波さんという老人は、事故なんて気にしていないし、車も自分で直すといい、おまけに上緒さんの車も直てあげるといって、上緒さんの落ち込んだ気持を落ちつかせる。安心した上緒さんは、岩波さんが読んでいる本に興味を持ち、見渡して並ぶ本が気になって、1冊借りて帰って家で読むことにした。

 ここまでなら、本に触れてこなかった女性が、ふとしたきっかけて本に出合い好きになるという、他にもありそうなストーリー。借り出した本の中身が示唆的で、人生を大きく帰るようなものだった場合は、物語を通して物語が持つ魅力を伝える、読書推進の作品といった見方もできる。けれども「サエズリ図書館のワルツさん」は、そうした方向には流れない。

 戦争があったらしい。地震兵器なのか気象兵器なのかは分からないけれど、主要都市だけを壊滅させるような戦争が各地で起こって大勢が死に、文明やテクノロジーも大きなダメージを受けた。文明開化以前に戻るようなことはさすがになく、人類はそれなりの水準を維持して暮らしていたものの、涸渇する資源をやりくりする必要もあってか、紙の本はいつしか貴重な物ととしてあまり作られなくなり、古い本も高値で取り引きされるようになっていた。

 そんな時代にあって、誰でも自由に入館できて、本を手に取り閲覧できて、おまけに外に貸出までしているサエズリ図書館とはいったい何なのか。盗んで売り飛ばせば大金を得られる貴重な品々に溢れた図書館が、普通に運営されていて大丈夫なのか。貴重な本をぞんざいに見える形で扱うことには異論もあって、上緒さんが来館中に老人がやって来ては、閉館を求めて騒ぎ立てる。

 もっともな話。けれども、ワルツさんは拒否して図書館を運営し続ける道を選ぶ。たとえ盗まれても、どこにあるかを見つけだしては言葉通りに「地の果てまでも」追いかけ、取り返す力のようなものをワルツさんは持っている。彼女の本への思いと、強い力によって支えられ、サエズリ図書館は世界でも特別な場所でありながら、とても普通の場所のように存在して、大勢の人に本を読む楽しさを感じさせている。

 それほどまでに本には意味があり、価値があるのか。ワルツさんの父親という人が、本業の脳外科医として手術をする代わりに受け取って収蔵した本に、何か書かれてあると気づいた寄贈者の子孫が、図書館にやって来て本を借り出し、読みとった文字を詳しく調べようとしてページを切り取ってしまう事件。男が求めたのは祖父の書き文字で、本そのものに何が書かれているか重要ではなかった。おまけに、彼の祖父が大切な本と引き替えにしてまで、外科手術を受けようとした理由からは、本の価値を超えた、かけがえのないものが存在していることも示された。

 サエズリ図書館から1冊の絵本が盗まれ、それを追ってワルツさんが都市部へと赴く事件。かつて私家版のように刊行された絵本が、1冊だけ残ってサエズリ図書館にあることを知って、作者の姪の女性が間もなく生まれる子供に読み聞かせたいと、こっそり盗み出したものだった。女性は本が本でであることを愛し、中身も愛していた。多種多様。本を好きな人もいれば嫌いな人もいるし、、本であることを気にする人もいれば気にしない人もいる。それだけのことだ。

 上緒さんの車を直した岩波さんという老人は、「本にしかないもんもある。それがいいと思えば、本がよかろう」としか言わず、「行き過ぎた執心は病だ」とも言って、紙の本にこだわる心理を牽制する。それでもなお、本を読むことを止めない岩波さんのスタンスからは、染み出る本ならではの良さというものを、感じ取ることができる。

 人それぞれの本への接し方。それと比べると、どの本も自分のものだと強行に言い張り、強行に抱え込んでは放そうとしないワルツさんの、本に対する偏執的なフェティシズムに、少しばかり引いてしまう人もいるかもしれない。各人各様。ただそれでも、本が本であるからこそ得られるものも、あるのではないのかとも思わされる部分もある。抱きしめられる。手触りを慈しめる。それは単なるフェティッシュとしての意味合いを超えて、長く長く作られ親しまれてきた本の持つ、よく分からない“何か”なのだろう。

 戦争で壊滅し、有害物質が雨に混じって降る都市部の不穏といった状況は示唆的で、ネットワークが時折寸断されるような状況も遠くない未来に起こり得ること。衰退へと向かう世界で、それでも人は本にすがり物語を楽しむものだと考えるなら、たとえ暗い未来でもどうにか過ごして行けそうな気持が浮かんでくる。本がある未来と本がない未来。どちらが人間にとって有意義だろうか。本とはいったい何だろうか。読み終えて改めて考えてみよう。


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