ち短しサブカれ女。

 「サブカルとはAKIRAであり、AKIRAとはサブカルの権化といっても過言ではないやつ!」。

 それは果たして真理なのか、それとも誰かの勝手な思い込みなのか。ひとつ言えるのは、あれだけの分厚さを持って判型も大きなコミックの単行本が6冊も並んで、本棚なりベッドサイドのカラーボックスなりを埋めている部屋の主が、いわゆる純文学的でフランス映画的で純粋にまっすぐな文化系だと言って良いかは、迷うところといったことだ。

 一方で漫画は好きだけれど、美少女がくんずほぐれつしていそうなハーレム漫画とか、学ランのヤンキーたちが拳で語り合うような学園バトル漫画をいっぱい並べて読みふけるような人間を、サブカルと言えるかというとこれも難しい。どちらかといえばオタク。そう言われるだろう。

 だから「AKIRA」が分水嶺になりメルクマールになる。クールでスタイリッシュでエキサイティングでサイバーな漫画を敢えて選んで部屋に置き、読むか読んでいるふりをしている人間をど真ん中のサブカルと言うことによって、サブカルがひとつの形質を持って世に可視化され、そこを起点にどこまでがサブカルでどこからオタクか、あるいはパンピーなのかを見極められるといったところか、違うのか。

 これもはっきりとは言えないけれど、ともかくサブカルとは何で、そして何がサブカルなのかを考えさせてくれる作品であることは確か。それが「しにがみのバラッド。」のハセガワケイスケによるメディアワークス文庫初登場作品「いのち短しサブカれ乙女。」(メディアワークス文庫、570円)だ。

 北海道から上京して女子大に入り、寮に入居した樋口愛李という女子がひとりで部屋にいたところ、扉を叩いてとてつもない美少女が入ってきた。それがノアちゃん。引っ越しそばを新入りが配るのとは逆に、先に入寮していたらしいノアちゃんはB5サイズで厚みも2センチくらいある長方形の平べったいものを引越祝いとして愛李に手渡した。「AKIRA」の単行本の第1巻だった。

 でもどうして。そう愛李が思ったのも当然だけれど、そこでノアちゃんが言ったのは「ピンときた」「コレしかない」といった理由。まるで理由になっていないけれど、ノアちゃんは愛李はサブカルではないかと想い、問い詰めそして彼女の期待に応えたいとサブカルに頑張ると応えた愛李は、そのままノアちゃんの下でサブカル修行を始めることになる。

 そして始まるノアちゃんによるサブカル講釈。例えばサブカルはきのこであり、サブカルはお寿司であり、サブカルはベレー帽であり、サブカルはヴィレッジヴァンガードであるといった具合。ここで間違えてはいけないのが、ノアちゃんはサブカルではあってもサブカル女子ではなく、ましてやサブカル糞野郎ではなく、愛李にもそうはなって欲しくないと思っていること。もちろんキモヲタにも。

 というかサブカル糞野郎とキモヲタは鬱陶しいことでは共通で、たとえ罵りあってはいても傍目には「千葉vs埼玉」であり「栃木vs茨城」のようなもので、どっちも同じように見えるらしい。そうなのか? そうかもな。

 だったらサブカルは違うかというと、違っているからこそノアちゃんはサブカル女子をファッションと唾棄し、サブカル糞野郎にも同様の魂の無さを指摘して、自身は魂を持ったサブカルであり続けようとする。浅野いにおの漫画はそんな区別をつけるための分水嶺でもあるみたい。

 なるほどサブカルの登竜門であって引きつけられるのは分かるけれど、そこで暗黒面にハマるととたんにサブカル糞野郎へと堕してしまう。ファッション性をのみ見いだし、読んでいる自分が可愛いなり格好いいだなんて思ってしまうことで起こるサブカル糞野郎への堕落を、それでも我慢して読み続けるかそれとも置いて別のを選ぶか。そこにサブカルであることの難しさがあるのだとかどうとか。

 そんな大げさな。いやいや大げさでも何でもなく、サブカルであるかサブカル糞野郎であるかサブカル女子であるかキモオタであるかは、人としての生き様であり他人から観た時の印象にも関わってくるからおろそかにはできない。そこはきっちりと分けなくてはならないのだ。

 とはいえ、本当のサブカルではないサブカル糞野郎にしてキモヲタな人間にとって、サブカルというものがいったいどこからどこまでで、どうなるとサブカル糞野郎なりキモオタになるのかはちょっと分からない。「童夢」があってはいけないのだろうか。「気分はもう戦争」は。そんな差異が分かり、ノアちゃんの言う覚悟めいたものが分かるようになるためにも、サブカルを勉強しなくてはいけない。この本を読んで一生懸命に。

 なれるかな、サブカルに。


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