ルカ
楽園の囚われ人たち

 人はひとりでは生きていけない。2人でだって難しい。10人でも100人でも人は、というより人類は生き続けることは難しい。最低個体数を割り込めば種は絶滅するより他にない。人類最後の1人という主題はだから、そこからの再度の繁栄を期待して読める明るい物語にはなり得ない。

 けれども。七飯宏隆の「電撃小説大賞」受賞作「ルカ 楽園の囚われ人たち」(電撃文庫、510円)は何故か心地よい。世界に残されたたった1人の少女を描いた物語なのに、読んでいてとても心が静まる。何故だろう。何故なんだろう。それはたぶんこの物語が、精一杯に頑張るものたちの姿を描いているからだ。

 物語の中心にいるのはまゆという名の少女。タイトルにある「ルカ」ではない。10年ほど昔、人類もその他の生物もすべてが戦争によって滅んでしまった地球で、富士山の地下にあるシェルターに犬といっしょに取り残されていたところを、なぜかそこに現れた5人というより、人の姿をして壁も少女の肉体もすり抜けられる5体の”あれ”によって救われた。

 最後の人類となったまゆ。そんな彼女を人として立派に育てることが、壁も何でもすり抜けられる体で現れた自分たちの勤めだと、少年に少女、主婦に老婆に老爺の5体はまゆの世話をやき、導き教えてそのまま10年の時を暮らして来た。

 外は汚染されて出られず、地下のシェルターで知識だけを詰め込まれたまゆが、ある日見た映画が「ローマの休日」。それで恋という感情に目覚めたまゆは、一緒に暮らしている”5人”に自分もキスをしたいと迫る。

 もっとも人の体だってすり抜けてしまう彼らの誰もまゆの我が儘につきあえない。だからといってそんな理由をまゆに語って聞かせるにはまだ早いと、迷っていた彼ら彼女たちに今度は別の新たな事態が襲い掛かる。

 シェルターを管理していたコンピュータの復活。人類の種族維持が最優先でプログラムされたコンピュータによってまゆはさらわれてしまった。まゆをベースに人類を増やそうとする計画。それはまゆという個人にとっては決して望ましいものではなかった。かくして”5人”の奪還のための作戦が始まった。

 明らかになったタイトルにある「ルカ」の正体。その意外性を軸にして、永久ではないもののそれに近い命を持った存在が見守る人類の終焉といったメインストーリーを作り、他人を思い遣り生命を慈しむ存在といったものを浮かび上がらせる構成を極めれば、悲しいけれども清々しい、辛いけれども美しい滅びのビジョンがよりくっきいりと浮かび上がったかもしれない。冒頭に掲げられた「破損ファイル」でのやりとりも、再生される記録の始まりになって生きて来る。

 ただその場合、物語はまゆの成長という状況を外部の目線で観察しながら人類の終焉を描くストーリーになって、思弁的なものになりエンターテインメントとして果たして楽しめるものになったかどうか悩ましい。コンピュータからの目線を奥へと下げ、少女が戸惑いつつも成長していく話を主線に、周囲で戸惑う”5人”という形にしたこの形式の方が、やはり正しかったと言えるだろう。

 自在な体を持ちながらもその存在故に遠くへと動くことは不可能な”5人”が、その存在故に持ち得た別の特性を使って、さらわれたまゆの奪還に臨む場面のアイディアが光る。と同時に途中で振り落とされた”5人”の1人がもらう塗炭の苦しみが、彼ら彼女たちが生まれる原因となった恐るべき事態への恐怖心もかきたてる。地下の楽園は華やかなファンファーレを受けて生まれたのではなく、地表で鳴り渡った堕天使のラッパによって生み出されたのだということを思い知らされる。

 それでも、怖ろしさよりも心地よい読後感を得られるところが「ルカ 楽園の囚われ人」の美点。終焉を間際にして失われない心の優しさを描き、真綿にくるまれたまま永久の安寧に向かう心地よさを感じさせてくれる。”5人”の存在に根拠がなく、神といった存在を持ち出すほかに説明がつかないところがSFと呼ぶことをためらわせるが、そんなことはどうでも良い。素晴らしい物語にレッテルもジャンルも必要ない。

 種として滅びの道をたどりはじめたらもはや引き返すことは不可能。そこで最後のあがきをするべきか、それとも静かに終焉を迎えるかは人それぞれだが、「ルカ 楽園の囚われ人」を読めばきっと、投げるのではなく流されるのでもなくどこまでも、主体を持ったままでその瞬間まで生きていこうと思わされる。見守ってくれた”5人”とそして、”ルカ”へのそれが精一杯の恩返しなのだから。


積ん読パラダイスへ戻る