路地裏テアトロ

 シネコンが増えるからといって、どんな映画でもかかるようになる訳じゃないと言っていたのは、もう10年以上も前の角川歴彦だったか。映画業界の会見に出席していた折に質問されて答えたか、立ち話でそういったか記憶に定かではないけれど、その予言は在る意味で見事に的中している。

 見渡せばあらゆる場所にシネコンが立ち並ぶようになった現在。かつては郊外のショッピングセンターに併設されていたものが、今は街中の映画館が建て直されてシネコンに変わり、さらに繁華街と呼ばれる場所にまったく新しいシネコンが集客や文化の装置として入るようになった。

 スクリーン数が増えればどんな映画でも見られるようになる。そう思いたくなる気持もあるけれど、現実はそうは甘くはない。むしろ、売れる映画だけが長くそしていくつものスクリーンで上映される一方で、売れない映画は公開規模が小さくなり、上映時間も悪くそして短い期間で公開終了へと追い込まれる。

 そんな時代に救いとなるのは、自前でプログラムを決める単館なり、公開が終わったものの中からプログラムを選べる二番館、三番館と呼ばれる独自の興行を行っている映画館だけれど、そこどんどんと減っているのが一方にそびえる高い壁。老朽化した施設の問題もあれば、流行の映画しか見に来ない人の心理もあって観客が多くは訪れる、収入がおぼつかないまま廃業へと追い込まれていく。

 だから、地本草子の「路地裏テアトロ」(ぽにきゃんブックス、620円)にあるような、街にある二番館で未だに映写機でフィルムをかけている映画館が、ちょっとやそっとの存続運動で1回2回を満杯にしたところで、存続がかなうということはたぶんない。シネコンでデジタル上映が増えていき、フィルムが少数しか作られなくなっている今はなおのこと、街の映画館に新作話題作がまわってくる機会は減って、興行的に劣勢を強いられる。

 これはもう保たない。そうなって閉館へと追い込まれる。有名な劇場が懐かしまれながら姿を消すならまだ救いもあるけれど、そうでない、誰も気にもとめない路地裏にある劇場が消えていく寂しさは、そこに通った近隣の人の中にしか生まれないもの。全国区の運動になることはない。

 それでも、近隣の人にとってかけがえのない思い出の場所。そして、いつか自分にも訪れるかもしれない思いかもしれないと考えた時に、なにかしてあげられるのではという重いが浮かぶ。そんな思いをより多くの人にもってもらえる物語として、「路地裏テアトロ」は小さくない意味を持っている。

 可愛い女子高生が受付に座っていたからと、そんな不純きわまりない動機で路地裏にある古い映画館でアルバイトをはじめた斎藤三郎太という名の大学生。最初はどこか安易に考えていたところがあり、自分本意の気持ちで臨んでいたところもあったけれど、蒔村夏姫とう名の女子高生が真剣に映画のことを考え、そして館主で映写技師でもある夏姫の祖父が、もうダメだと感じて映画館を閉鎖すると言い出したこともあって、三郎太は何とかしてその映画館を残したいと思うようになる。

 そんなストーリーの中で語られるのは、映画産業が置かれた状況であり、それはシネコンの台頭でありデジタル化の進展であり、鑑賞機会の多様化でありと、努力ではどうしようもない変化ばかり。斜陽が言われ始めた昭和30年代後半から40年代に起こった映画人口の減少という問題に上乗せするように、資本力の差という問題が持ち上がって街の映画館を苦しめている。

 それを仕方がないことというのは簡単だ。経営努力が足りなければ淘汰されて当然という声もあるだろう。ただ、思いでの場所としての古き良き映画の興行が消えてしまって本当に良いのか。産業とは別の文化であり社会といったものに沿った映画のスタイルが失われてしまって大丈夫なのか。そんなことを改めて考えさせようとした物語、なのかもしれない、この「路地裏テアトロ」は。

 読み終えて、このあとどうなったかは気になるところだし、主人公に好意を寄せていた同級生の女子大生の巻き返しもがあったかも気になるところだけれど、それはまた別の話。巻末にモデルになった映画館として「川越スカラ座」が挙げられていて、聞くとその映画館も結構な苦闘の果てにNPO法人が運営する形になって、今に存続しているという。そういう可能性を世に教え、頑張ろう映画という気にさせてくれる物語。映画が好きで映画館が好きな人は読んで考えよう、映画という文化、映画館という資産を残し、伝える方法を。


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